プロローグ アナザーエピソード『交渉決裂』
「ここは、良い場所だな」
草原に寝転がる少女に青年は言った。
深紅の髪を揺らしながら、少女は上体を起こす。あたりの風景を見回して状況の把握に努めた。
どうやら今まで眠っていたらしい。まだどこか意識がもうろうとしているようだ。
地平線から光が漏れて明るくなっているのを見る限り、夜明けが近いのだろう。
明るくなるにつれて、少女の思考は目覚めていく。
少女は突然、毛布代わりにかけてあった上着を払い除け、自分の身体を手当たり次第触りだす。自分が生きていることを確認すると、その場から跳び退いて、目の前にいる男から距離を取った。
目の前の男と、一晩かけて死闘を繰り広げた後だったからだ。
青年は少女よりも身長が頭一つ分高く、大陸ではめずらしい黒髪と黒目を持っている。年齢は十代半ばから後半ほどだと少女は推測した。
ボタンのついた白い薄地の服と、ベルトの巻かれた黒いズボンを身にまとい、それ以外の装飾は見当たらない。
両手をズボンのポケットに入れたまま少女を見据える男からは一切の戦意が感じらず、それがかえって少女の不安を誘った。
少しばかり距離を置いたものの、襲いくる疲労感ゆえか、少女は立っているのがやっとだった。魔法を使う以前の問題である。
それでも少女は、懐からめったに使わない短い杖を取り出し、先端を標的に向けた。
おぼつかない足取りで攻撃姿勢を取る少女に男は言う。
「君が何か仕掛けてくるなら防御に移るが、面倒くさいからやめてくれるとありがたいんだがな」
その言葉を聞いてからも、少女は杖を構えて戦闘態勢を維持していた。
やがて観念したのか、杖を放してその場に座り込んだ。
「負けました。奴隷にするなりなんなりと……」
レミーアの対応に青年は苦笑いを浮かべる。
「少し話でもしようか」
そう言って男は東の空を見上げた。
つられて少女も首を動かす。空は先ほどよりも明るくなっていた。
「俺はカイキ。君は?」
「……レミーア」
二人はここで初めて自己紹介をした。
レミーアと名乗った少女が話す猶予さえ与えなかったからである。
少女は武者修行のために腕利きの魔法使いを見つけては死闘を申し出て、相手の意思など構わず一方的に攻撃を仕掛けるということを繰り返していた。
やがて、まれに見る強者との戦いに生きがいを感じるようになっていく。
カイキとの場合も決して例外ではなく、両者が重軽傷を負う大変な事態となった。
しかし、少女が見る限り相手に怪我らしきものは見当たらない。戦いの中で斬り落としたはずの右腕も元に戻っている。
一方で、自分の身体にも一切の傷を確認できなかった。自身がまとっているベージュ色のローブも、時間を巻き戻したかのように新品同様だ。
おそらくカイキが魔法で治したのだとは思ったが、どのような魔法を使ったのか検討がつかなかった。少なくとも、レミーアの知る治癒魔法では、ここまできれいに傷を消すことはできなかったからだ。
浮かんでくる問いは多々あったが、レミーアは一番気になるものをぶつけることにした。
「どうして私を殺さなかったのですか?」
目が覚めたときから気になって仕方なかった質問であったが、「殺しても得にならないから」と簡単に返され、レミーアはついに言葉を失ってしまった。
やがて朝日が昇る。
まぶしい夜明けの光にレミーアは目を閉じることができなかった。
死闘を繰り広げた相手の顔を初めて直視したからである。
まばゆい光に照らし出された美しい造形に、少女は一目で心を奪われたのだ。
しばらくレミーアはカイキに見入っていたが、目が合うなり視線を落とす。
戸惑いはあった。だが、初めて経験する動悸の正体に早々に見切りをつけ、ここぞとレミーアは口を開く。
「ここは良い場所です。私の生まれ育った場所……私はこの世界が大好きです。だから、もっと見てもらいたい……見て欲しいんです。そしてこの世界のこと、好きになってもらえたら……私と夫婦に、この世界に災いが起きたとき、一緒に戦って欲しいんです!」
「断る」
突然のプロポーズにカイキは速答した。
「あいにくだが、伴侶ということなら先約がいる。君の想いに応えてやることは出来ない。だが、最後の方で共に戦うとか言っていたな。それに関しては、君が助力を請うならいつでも力を貸そう。災いなるものが、どんなものかは知らないが、そのときは俺を呼べばいい」
歩み始めたカイキを反射的に目で追いかける。すぐさま朝日の逆光に目を閉じた。
次にレミーアが目を開いたとき、カイキの姿はどこにもなかった。
どこか遠くへ行ってしまったようだった。
一人で見渡す地平線。
少女は目が覚めてからというもの、敗北、屈辱、初恋、求婚、失恋という初めての体験を続けて味わった。
レミーアは目の前で起こっていたことが現実かどうかさえ疑いだす。
先ほど払ったカイキの上着を手繰り寄せた。それだけが、この場であったことが真実だと物語っている。
再び立ち上がることはできなかった。
傷は癒えていても、体力が戻るには時間が掛かりそうだった。
レミーアはまた横になり、カイキの置いていった上着の匂いを少し嗅ぐ。
自分よりも少し大人の、いい匂いがした。
「カイキ……さん」
少女の鼓動はまだ高鳴っている。
目を閉じれば、今しがたまでここにいた青年の姿を鮮明に思い浮かべることができた。
「諦めない。……今は駄目でも、いつかあなたを力で屈服させて見せる。絶対に――」
レミーアは上着をよりいっそう強く握り締める。
「――諦めないんだから!」
その声に、渡り鳥の隊列がわずかに乱れた。
だがしばらくすると、何事も無かったかのように南東の空へ翔けていった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
続く長編のAパートも本日投稿しますね。
2013/01/29加筆修正