怪奇白霧
……ん。
体中が痛い。特に腰から背中にかけて、すこし体をひねっただけでピリッとした鋭い痛みが走る。
そっと目を開ける。フロントガラズの向こう側は白い靄がかかっていて、何も見えない。首を右に回すと、ハンドルにもたれかかるようにして、肉付きのいいオヤジがいた。
ここはどこだ?
車の中ってことは分かるが、それ以外のことが思い出せない。外の風景を見ようにも、水滴に濡れたガラス、そしてその向こうに広がる白のせいで、何も分かりはしない。
とりあえず、隣の男に声をかけた。
「んぁ、ぁ」
まるで長い間声を出していなかったような、どうやって言葉を出すのかさえ、一瞬分からなかったせいで、変な声が漏れた。
「あぁ、あーー。んっ」
短い発生を繰り返し、ようやく声を出す勘を取り戻した。右手で、男の肩を弱く叩きながら、声をかけた。
「おい、おっさん。大丈夫か?」
死んでいるのかと思ったが、触れた肩からは確かな温もりが感じられた。
「――んん?」
何度目かの呼びかけの後で、隣の男が目を覚ました。
「あぁ、達彦じゃないか? どうした?」
そう呼ばれて、自分が達彦という名前であることを思い出した。そして、横にいる男は自分の親父だった。
「どうした? じゃない。親父。おれたちは事故に遭ったんじゃないか?」
まだよく思い出せないが、二人とも車の中で気を失っていたことを考えると、そう思うのが妥当だろう。
「事故? ……そういえば、突然トンネルを抜けたかと思ったら、強い光に照らされて、その後どうなったか記憶がないな。対向車とぶつかったかも知れんな」
親父の言葉に、少しずつ気を失う前の風景が蘇ってきた。助手席に乗って、トンネルに入った場面を思い出した。
「おまえ、体のほうは大丈夫か?」
親父の問いかけに、もう一度体の状態をチェックする。シートベルトを外し、両足、両手を上下に上げ下げしたり、頭から血が出ていないか触って確認するも、特に以上は見られなかった。
「ああ。大丈夫みたいだ。親父は?」
「こっちも外傷はない。少し腰が痛いが、長時間変な姿勢でいたせいだろう」
そう言って微笑んでみせる親父の顔に、安堵を覚えた。
「親父。それじゃ、ひとまず外に出てみよう」
ここがどこか、そして車の損傷がどうか。確認する必要があった。
ドアの取っ手を引き、車を降りる。自分に続いて、親父も車の外に出てきた。
外は相変わらずの濃い霧に覆われていた。ここは舞台で、誰かが脇でスモークをたいているか、もしくは大地が白い吐息を吐き出しているように思えた。
車に触れながら、その周りをグルッと一周する。一歩歩くごとに、ビチャっという音が辺りに響いた。ここの地面はだいぶ水を吸っていて、靴はすぐさま泥だらけになった。
親父は車体の下を見ているようで、運転席側ですれ違った。「どう?」と声をかけたが、何かを考えることに必死で、返答はなかった。
一通り車全体を見た後で、今度は辺りの風景に目をやる。車の側には急なコンクリートの斜面があり、それがどこまでも高く伸びている。といっても、数m上は、さらに深い霧に覆われていて、このコンクリートの斜面がどこまで続いているかは分からない。これだけ急な斜面じゃ、見通しの悪い中、車を置いて登ってみるのは危険だと感じた。
その反対側からは、ざあざあと水の流れる音がした。すぐ近くに川が流れていると予想できた。しかし、視界の悪い中川に落ちることを考えて、まずは先に車内に戻った親父の後に続いた。
助手席に座り直し、今までの状況をまとめる。さっきまでは事故に遭ったと思っていたが、車に大きな凹みや損傷はなかった。しかし川原に降りた記憶もない。
「どうやら、道路の脇から落ちたようだ」
考えをまとめている途中で、横から親父の声がかかった。
「さっき車の下を見たら、木の枝やら葉っぱがたくさん着いていたよ。それに車の正面には無数の細かな傷が出来ていた。おそらく、トンネルを抜けたとたん、対向車のヘッドライトに視界を奪われ、そのまま道の外れに突っ込んだんだろう。運よく、なだらかな斜面に突っ込んだおかげで、こうして大きな傷もなくピンピンしている。本当に、運が良かったとしか言いようがない」
なだらかな斜面? さっき見たコンクリートの壁はとても急だった。しかし、見たのはごく一部だけで、その向こうの斜面は親父の言うとおりなだらかなのかもしれない。それを否定できない以上、ここで余計な情報を伝えてお互い混乱するのは避けるべきだろう。
「それで、この後どうする?」
親父に問いかける。
「そうだな。エンジンが動くか試してみなきゃ分からんが、霧が晴れるのを待ってここから離れよう。少し風が出てきたようだから、一、二時間もすれば視界も良くなるさ。それまでは寝てればいいだろう」
暢気なことを言う親父であったが、確かに深い霧の中、さらには近くに川が流れている状況で無闇に行動するのは危険だった。警察か、家に連絡がつけばいいが、車内にめぼしいものはない。親父の言うとおりにするしかないと思った。
リクライニングをめい一杯倒して、横になる。事故の影響か、いまだ思い出せないことが多かったが、やがて訪れた眠気に誘われ、再び意識を失った。
先に目が覚めたのは、自分だった。
一瞬、車の音が聞こえた気がしたのだ。寝ぼけ眼のまま、耳を研ぎ澄ませる。すると、遠くのほうで、タイヤが濡れた道路の上を走るときのシャーという音が聞こえた。
「親父!」
慌てて隣で寝ている親父の方をたたく。「んぁ?」というとぼけた返事の後で、ようやく目を覚ました。
「さっき車の通る音が聞こえた。やっぱり、すぐ側に道路があるんだ」
「ん? そうか。やはり側道から落ちたのか。なら、すぐ戻れるだろう。……しかし、なんだ? 霧は晴れたが、真っ暗だな」
そうなのだ。窓の向こう、もう霧はかかっていないようなのだが、代わりに夜が視界を覆っていた。車に取り付けられた時計を見ると、夜の零時をまわっていた。いったいどのくらい眠っていたのだろう? 寝る前に時間を確認すべきだった。
「まぁ、暗闇ならば問題ない。何せライトがあるからな」
そう言うと、親父はゆっくりと起き上がり、エンジンのキーを回した。キュルルっと音の後で、ガタンと車体が揺れ、エンジンが動き出した。
親父がスイッチをまわすと、前方に二つの光の円が描かれた。車の後方はぼやっと赤い光に照らされている。ヘッドライトも、テールランプも問題ないようだ。
「よし。車は動くな。それじゃ、いい加減もとの道路に戻るとするか」
「親父。この近くに川が流れているみたいだ。落ちないよう気をつけてくれ」
「はははっ。もう落ちるのはこりごりだ。慎重に運転するさ」
そう言ってハンドルを限界まで右に切り、車をゆっくりと動かし始めた。予想通り、ちょっと走ると右手に川が見え、それと併走するように車は進む。泥道でがたごと車体が揺れたが、たぶん、普段車が走るような道ではないのだろう。文句は言えない。
やがて、川を渡す橋にぶつかった。その脇に小さな斜面があって、そこから道路に戻れた。
斜面を登りきると、コンクリートの上を走る感触が尻と背中から伝わってきた。
「どうた? 問題なく戻れただろう?」
嬉しそうな声で、親父が言った。だいぶ時間をロスしたのは問題じゃないのか? と思ったが、道路に戻れたという事実は、遭難者からの救済を意味する。未だここがどこか分からないのは変わりないが、道を走っていれば標識があるのは間違いない。途中でコンビニを見つけられれば尚のことOKだ。
橋を渡りきると、目の前に二台のトラックが見えた。できるなら、その運転手に現在位置を聞きたかったが、走行中のトラックを止める術はない。パッシングしようにも、後ろからあおっている性質の悪い車と誤解されて終わりだろう。
仕方なく、そのトラックの後に続いて道を進む。見たことのない色使いで、荷台の後ろに”DOG FOOD”とカラフルな文字が書いてある。犬は飼ったことがないが、きっと文字通りドックフードを作っているメーカーのトラックなのだろう。
橋を渡ると、連続して直角に折れるカーブがあった。カーブとカーブの間は、結構急な上り坂が続いた。そして、三つ目のカーブを曲がったところで、ガードレールの向こうの風景が一変した。
「うわぁ」
意図せず、そんな言葉が漏れた。自分たちはだいぶ山道を登っていたようで、今走っている道の下に、町の灯りが広がっていた。決して大きな町ではないようだが、夜更けにも関わらず、一軒一軒から淡い黄色の光が漏れ、時折見えるカラフルなネオンサインがアクセントとして働いていた。
幻想的な風景だった。
「これはすごいな」
隣で親父が感想を漏らした。
「こんな山間の中で、あれだけ密集した家が明かりを放っているとなると、ここはどこかの温泉街なのかもしれないな。ちょうど良い。どこかの旅館に宿をとって、今夜はここで泊まろう。家には旅館から電話を入れればいいだろう」
どことなく浮かれた声で親父が言った。確かに、こんな綺麗な町の夜景を見せられては、童心に戻るのも仕方ないが。
それから数分走ると、車は町の入り口に到着した。先ほど前を走っていたトラックは、建物と建物の間に消えていった。自分と親父は、ゆっくりと走る車の中から、旅館と思われる建物を探した。
すっかり夜だというのに、それぞれの建物はピンクや黄色といった看板が置いてあり、何かを誘っているようだった。それを見て、
「田舎の温泉街というのは、夜は風俗が盛んなところも多い。ここもきっとそういう町なんだろう」
親父が説明口調で語っていた。
しかし、こんな鮮やかな町の明かりの一方、誰ともすれ違わないことが奇妙に思えた。だいぶ夜をまわっているから、ほとんどの人は寝ているのだろうが、それなら照明を切ればいいのに。それとも、自分たちのように遠くから来た旅人を誘っているのだろうか?
もう少し車を走らせると、一軒の大きな木造の建物があった。入り口のガラスの向こうにはカウンターが見え、そこから旅館だろうと想像できた。旅館の前に車を止めると、親父と二人でそのドアをくぐった。
「ごめんください」
まずは、親父が誰かいないか呼びかけた。
「すみません」
それに倣うように、自分もカウンターの向こうに向かって声を出した。
「……誰もいないようだな。もうみんな寝ているのかもしれない」
「どうする? 別の旅館を探す?」
「いや、ここに泊めてもらおう。事情は後で話せばいいだろう。なに、こうして書置きをしておけば、明日の朝になって騒ぎになることもない」
そう言って、親父はカウンターにあった紙に自分たちの名と、一晩泊めてもらいたいという旨を綴った。そして、近くにあった宿帳をペラペラとめくると、何かに気づいたようだった。
「達彦、これを見てみろ。三日前ほど前は団体客が来たようだが、今日は誰も客が来ていない。おそらく、今夜は我々が最初のお客のようだ。客が少ないせいで、旅館の人もみんな寝てしまっているのだろう」
親父はそう言うが、カウンターに人がおらず、そのくせ入り口のドアは鍵がかかっていなかったのは無用心すぎる。だが、今は見回りの時間なのかも知れない。どっちにしろ、今日は色々なことがあったせいで、これ以上歩き回るのはごめんだった。
「この、龍の間という部屋を借りよう。見たところ最後に客が泊まったのは一週間前のようだから、今は空き部屋だろう。もし誰かが使っているようなら、その隣の部屋にすればいい」
近くにあった旅館緒見取り図を頼りに部屋へと移動した。龍の間は、階段を登ったすぐそこにあった。
ふすまを開けると、小さな土間があった。靴を脱いで、さらにふすまを開けると、広々とした和室の真ん中にテーブルがあって、急須とポットが置いてあった。
「なかなか素敵な部屋じゃないか」
笑みを浮かべる親父。しかし、なぜ人のいない部屋の明かりがついていたのかが気にかかった。
「もう一度、旅館の人を探してくる。達彦はくつろいでいるといい」
胸にささった小さな疑問は、その親父の言葉で掻き消された。
荷物と呼べるようなものは持っていなかったため、部屋に一人残された後はやることがなかった。ポットからお湯を急須に注いで、温かなお茶を飲み干すと、今までの疲れがドッと出てきた。自分が思っていた以上に、緊張した状態が続いていたらしい。布団をしくのも億劫になり、そのまま横になって倒れた。
畳の香りを感じながら、まどろみに落ちかけたころ、トン、トン、と階段を誰かが昇ってくる音が聞こえた。
親父か? と思ったが、ふすまを開けて中に入ってきたのは、とても綺麗な女性だった。
「今宵は、当旅館に御泊り頂き、誠にありがとうございます」
両手をたたみにつき、うやうやしく礼を述べるその女性。青と赤の入り混じる不思議な模様の和服に身を包み、しかし上品な印象を受けるその雰囲気。年は三十歳といったところか?
「この旅館の方ですか?」
「はい。私は当旅館の若女将をしております、さなえと申します」
そう言って自分を見つめる瞳は、何か魅かれるものがあった。
「親父はどうしました? 一緒ではないのですか?」
「お父様でしたら、先ほど宿泊の手続きをされた後、露天風呂の方へと向かわれましたよ。それと、この旅館ではお一人様ごとにお部屋をご案内しております。お父様は、三回の峰の間にお泊り頂くことになりました」
一人一部屋? どういうことだ? まぁ、後で親父を捕まえて聞けばいいか。
「それじゃ、俺も露天に行くことにしよう。案内して貰えますか?」
「承知致しました。それでは、こちらへ」
若女将に連れられて、旅館の中を歩く。途中いくつかの部屋の前を通ったが、人の気配はなかった。親父の予想通り、今夜は自分たちしか泊まっていないのかもしれない。
一階に降り、廊下を進むと、硫黄の混じった湿気を鼻に感じた。若女将が開けたドアを入ると、脱衣所があった。カゴのどれもが空であるから、親父はもう風呂にはいないようだった。
服を脱ぎ去ると、湯気で曇った戸を開ける。すると、石造りの露天風呂に、木の屋根がついた、大きな露天風呂がそこにあった。
「これはすごいな」
その造りの豪華さもそうだが、夏の温い夜風を肌に受けながら見上げた夜空には、見たこともないほどの星がまたたいていた。
「これだけ立派な露天を独り占めとは、運がいい」
風呂に入る前に、体を洗う。床の石は温泉の熱のせいか、人肌に温まっており、このまま大の字になって寝転んでも気持ち良さそうだった。
しかし、せっかくなのでまずは風呂に漬かった。入ったとたん、ざぱぁと湯が溢れ出し、体を洗うのに使った木のおけがカコンと何かにぶつかる音が響いた。風情のある夜だなと思った。
「一時はどうなるかと思ったが、こんな夜に巡り合えたのだから、たまには遭難するのも悪くないかな」
ふふっと自嘲な笑みをこぼしながら呟く。こうして冗談を言えるのも、死の恐怖から助かったからではあったが。
突然、後ろからカラカラっと戸が開く音が聞こえた。
「親父か?」
そう言って振り返った先には、タオルで胸と下半身を隠すことなく、その透き通るような白い肌をさらした、若女将が立っていた。
「なっ!」
咄嗟の出来事に、何の言葉も出てこない。田舎の温泉街は、風俗がどうとか親父が言っていたが、こういうことなのか!
「お背中をお流し致します」
若女将は、恥らうことなく近寄ってくると、その艶かしい腕を差し出してきた。「あ、あぁ。頼むよ」と、口からはたどたどしい台詞しか出てこず、若女将の指示するままに腰掛に座ることとなった。
ゴクッ、と唾を飲む音がはっきりと自分の中から聞こえ、それが若女将に聞こえていないかと不安になった。初めて目にしたときから、この女性の漂わせる妖艶な体つきに、魅力を感じなかったといえば嘘になる。
背中に触れている相手の手の平から、熱が伝わってくる。なぜ体を洗うのに、スポンジを使わないのかという疑問は、鼓動の高鳴りに掻き消されていた。
やがて若女将の手は、背中からわき腹、そして腹の辺りへと流れるように動いた。背中に伝わる二つの柔らかな弾力が、理性を狂わせた。
ここはどこで、自分は誰で、なぜこんな状況にいるのか? 事故から目を覚ましてから、ずっと心の奥に引っかかっていた刺の数々。それらは、若女将の髪から漂うの石鹸の香り、絹のような肌の感触、溶け合う肌の熱と熱、そして耳元に聞こえる息使いに、この夜空の中に溶けていった。
永遠にこの時間が続けばいい。
二人の体温が、どちらのものか分からないほど交わろうとしていた。
そのとき、自分の左手の甲に、斜めに切り裂かれた傷があるのが目に入った。
なぜ、自分はこの傷を負ったのだろう?
この傷は、いつからここにあるのだろう?
その小さな疑念を取っ掛かりに、今日の一日の記憶が蘇ってきた。
そうだ。今日は、フェンシングの試合だったんだ。
地区大会じゃ敵なしだった自分。全国大会に向けた地区予選の試合だった。
優勝が決まる最後の試合で、相手のサーベルが折れた。その剣は、勢い余ってこの左手の甲に突き刺さった。
試合を見に来ていた親父が、すぐに近くの病院まで車で送ってくれた。その途中、近道のために通った山道で、車がスリップした。
確か、トンネルを抜けたところで、動物が車道に飛び出してきたんだ。
それを避けようとハンドルを急に切ったから、車の制御が効かなくなり、事故に遭ったんだ。
一瞬だけ、気を失う前に横を見たら、親父の顔から血が流れていた。
そして自分の体にも、ガラスの破片がいくつも刺さっていた。
記憶を取り戻しにつれ、さっきまで何ともなかった体の節々が悲鳴を上げ始めた。気がつくと、自分の体の至る所から血が流れていた。
「――思い出されてしまったのですね」
咄嗟に振り向くと、若女将の真っ白な肌から、黒い靄がにじみ出ていた。
「何も思い出さぬまま、安らかに逝ってしまわれれば良かったものを」
その表情には、先ほどまでの妖艶さはなく、代わりに心臓を掴むような恐怖が襲ってきた。
若女将の腕が、ヌッと伸びてきた。
「さ、触るな!」
ギリギリ払いのけると、今度は抱きつくように両手を広げて向かってきた。
それを寸でのところでかわすと、服を着ることも忘れ、無我夢中で露天風呂から飛び出した。
痛い。体中がギシギシ音を立てているようだった。右足を引きずり、右手で壁をつたいながら必死で体を前に動かす。後ろからは足音が近づいている。しかし、振り向いている時間も度胸もなかった。
カウンターのある旅館の入り口に出たところで、階段の上から別の女性が降りてきた。若女将と同様、一糸身につけない姿で、体中から黒い何かを漂わせていた。
「あら? あなたはまだ残っていたの? お父様の方はすっかり満足されたというのに」
そう言って微笑する顔からは、恐れ以外のどんな感情も受け取ることができなかった。
「待ちなさい。あなたもすぐに気持ち良くしてあげる」
気がつけば、後ろから若女将が向かってくるのが見えた。階段の踊り場にいた別の女性も、自分のほうに近寄ってきた。
「来るな! 俺に近寄るな!」
行き先を絶たれ、入り口のドアに向かう他なかった。幸い自分達が乗ってきた車はまだその場にあり、急いで運転席に乗り込んだ。
エンジンをかける。そうしている間にも、若女将たちは運転席のドアを開けようと手を伸ばしている。もう躊躇っている時間はない。
アクセルをベタ踏みするも、エンジンが甲高い音を上げるだけで前に進まない。ギアが入っていない。
若女将とは別の女性が、助手席のドアを開けた。そっちはロックをかけ忘れていた。
黒い手に掴まれる寸前、ギアをドライブに入れ、車を急発進させた。開きっぱなしの助手席のドアから、女性が投げ出されるのが横目に見えた。
そのドアを閉めることもせず、無我夢中で車を走らせた。この街に来る時に通った道をそのまま辿り続ける。途中、町に向かういくつもの車とすれ違ったが、それに気を止める余裕などなかった。
やがて橋に差し掛かり、それを渡る。この先の道路は未知であったが、今は少しでもあの町から離れたかった。そして、見覚えのあるトンネルに差し掛かった。
事故に遭う直前、こんな感じのトンネルに入ったんだ。ゾクッとする薄暗い闇の続くトンネル。
ヘッドライトの照らす道を頼りに、少しでも早くトンネルを抜けようとアクセルを踏みつける。スピート感覚など麻痺した状態で、ただひたすらに出口を目指す。
そして次の瞬間、強い既視感をつれた光の渦に包まれた。
……ピッ
……ピッ
……ピッ
一定のリズムを刻む機械的な音が聞こえる。
ほんの僅かしか目が開かない。
ぼんやりとした視界の中で、白衣を着た誰かが、せわしなく動いている。
耳元では、自分の名を呼ぶ声が聞こえる。泣き叫ぶような悲鳴にも似た声も混じっている。
どうにも体が動かない。至る所から来る痛みは、誰かが針を刺しているんじゃないかと思うほどだった。
再び目を閉じて、先ほどまでの風景を思い出す。なぜだか分からないが、きっと次に目を覚ましたときは、もう覚えていない気がしたからだ。
旅館に置いて来てしまった親父を想う。あの時一緒に車に乗れなかったことを、恨んでいるだろうか?
すれ違った車に乗っていた人達。自分も、いつの日かもう一度あの町を訪れてしまう日が来るのだろうか?
「すまない……親父」
きっと声にはならなかっただろうが、薄れる意識の中で、宿の台帳に名を記入している親父の姿を思い浮かべながら、俺は再び目を閉じた。