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エスカレーターの手すりに手を伸ばし、足を踏み出そうとしたところで、俺は何かに袖を引かれた。
「オハヨウゴザイマース」
やっぱり……。
俺の視野の端に入ってきたのは、このところ、朝エスカレーターで執拗に声をかけてくる女だった。
歳は、三十代半ばといったところ。
化粧っ気もなく、勤め人なんだか学生なんだか判然としない身なりをしている。
相手にする必要などない。俺は、そのままエスカレーターに足を乗せた。
すると、女も袖を掴んだまま一緒に乗り込んできた。
「あの、『友の会』のことなんですけど」
よれて波打った小汚い名刺を押し付けながら、話しかけてくる。
「……いい加減にしてくれ」
ここまでしつこくされては、さすがに声を荒げたくなった。
俺は、袖を掴んでいる女の腕を振り払った。
だが、女はうすら笑いを浮かべながらカラダをよじると、バスガイドのような身振りで、自分の後ろに立っている男を指し示した。
「こちら『ベンジョサンダリスト三号』でーす。ヨロシクー」
……『三号』?
それは、色白で線の細い男性だった。
三十代前半だろうか。白無地のカッターシャツに、いわゆるドブネズミ色のスーツ。何の特徴もないネクタイ。
顔立ちは、まあ『端整』と言えなくもない、かもしれない。
だが、猫背気味で姿勢は悪く、その前頭部分には、今はまだほんの僅かではあるものの、いずれは本格的に到来するであろう頭髪問題の徴候が、確かに見受けられた。
その疲れた前髪は、男がその年頃の日本の男性にありがちな、過酷で劣悪な労働環境に置かれているであろうことを、如実に物語っていた。
しかし、男の視線が俺の足元に降りた瞬間、その眼に鋭い光が宿ったことを、俺は見逃さなかった。
俺もすかさず、目線を動かすことなく、ヤツの足元を観察した。
……その男と俺の間には、それ以上、会話も説明も必要なかった。
「『三号』と言ったな? 『ベンジョサンダル友の会』とやらに入っているのか?」
俺は、女を無視し、その男に直接声をかけた。
「え、あ、ハイ」
痩せた猫背の男は、若干甲高い声で、しかし、素早く返答した。
「あなたも入会してくれますよねっ?」
手前の女が、再び口を挟んでくる。
俺は今一度、『三号』と名乗る男に視線を向けた。
俺たちは一瞬、視線を絡ませ、そして、再びそらした。
三号の瞳の奥にあるものを知るには、それで十分だった。
その直後、エスカレーターが終わった。
俺は次々と降りてくる人の流れを妨げないよう、十歩ほど歩いてから、背後の三号と女を振り返り、そして言った。
「俺も入会しよう」