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地下鉄H蔵門線N田町駅には、核シェルターがあるという噂が絶えることがない。
その噂は、あまりにも長過ぎるエスカレーターの天井部分に、若干、不自然な空間があることがもとで広まったのではないか、とも言われている。
だが、マヒルは知っていた。
その不自然な空間部分から、毎日、夕方六時半になると、さまざまなお惣菜の匂いが漏れ出でてくるということを。
ある日は肉じゃが。またある時は、おでん。そして、ある日は焼き魚。
そう、その不自然な空間。
おそらく、それは。
『社員食堂』ではないのだろうか?
……いや、社員食堂をかねた核シェルターかもしれないが。
そんなロングエスカレーターに毎朝、微動だにせず、背筋を伸ばして佇む『彼』。
今朝もマヒルが見上げると、そこに『彼』のマーブル模様の便所サンダルがあった。
エスカレーター右側を駆け上がり『彼』の真下の段で立ち止まると、マヒルは『彼』に声をかけた。
「おはようございます」
『彼』は振り返りもしない。
「靴下、どこのメーカーのですか?」
マヒルは、ふたたび声をかけた。『彼』は、ゆっくりと振り返ったが、黙ったままだった。
マヒルは定期入れから名刺を取り出し、『彼』に差し出した。
「『ベンジョサンダル友の会』の入会、改めてお考えいただけませんか?」
『彼』は無言のままだった。
「しばらくお考えいただいて、気持ちが決まったら、ここに連絡ください。ね?」
マヒルは、懸命のスマイルで、『彼』に名刺を押し付ける。
……学生時代にスマイル0円の店で鍛えたこのつくり笑い、見るがいいわ。
しかし、片手で、しかも、しぶしぶと名刺を受け取った『彼』は、それをぴりーっと、きれいに二枚に剥いだ。
「考えないから」
そういって、『彼』は、マヒルに二枚の紙片を押し戻し、改札を出ると、六番出口の方へ消えていってしまった。
「……わたし、あきらめないわ。ミカエル」
マヒルは着ていたカーディガンにくっついていたご飯粒を剥がし、指で練ってから、二枚に割かれた名刺を張り合わせた。
ちょっと紙がガビガビになってしまったが、仕方があるまい。
『友の会』の名刺は一枚しかないのだ。
「プランB、始動!」
マヒルは、ショルダーバッグから携帯を取り出すと、メールを打ち始めた。
……かちょうへ。きょうはお休みします。
送信ボタンを押すと、マヒルはきびすを返し、ロングエスカレーターを下っていった。