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ベンジョサンダリスト!  作者: 水城
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マヒルの職場は、体を鍛えるのに最適だ。

いや、これは不正確。


その環境に身体が適応できさえすれば、他のどんな場所でも生存が可能であろうという意味において、そうである。


昭和十一年に完成したその職場の建物は、壮麗で荘厳だ。

パンプスのヒールを取られそうになるほどの分厚い絨毯が敷き詰められた廊下。窓には真紅のビロードのカーテン、金色のタッセル。高い高い天井。

別に『素敵なオフィス自慢』をしているわけではない……。


古いのだ。

それらの何もかもが。


ベルベットのカーテンはといえば、布地が劣化し、ところどころ裂け、埃が染みつき、もはや真紅とは言い難い色に変色している。一枚板の大きなドアは、どの部屋のものも、どこかしらペンキが剥がれ落ちていた。

高い高い天井は、当然のことながら、冷暖房効率を著しく低下させ、灼熱の真夏日は真夏日のごとく、底冷えのする二月の夜はそのごとく。室内温度も上下するのであった。


そして、延べ五万三千平方メートルのこの建物で働けば、一日一万歩のウォーキングなど、軽くクリアできるであろう。

このような過酷な環境に適応したならば、その人間に及ぼされる健康上の効果たるや、クンダリーニ・ヨガの修行や、マクロビオティク療法などの比ではない。


その建物とは、国会議事堂である。


マヒルは、その中のH河町寄りの、とある事務室で働いている。

どちらかといえば、マヒルの職場におけるステイタスは、『若干、若めの窓際族』である。


古い議事堂の窓際にあるマヒルの席は、夏は日差しに照らされ、冬は隙間風が入るばかりだ。しかも、たとえ二月の網走の平均気温なみに、都内が冷え込んだとしても、暖房というものは、十二月一日の午前八時三十分にならなければ、決して入れられることはない。予算がないからである。


窓際族マヒルの十一月の朝は、身も心も凍るようなのであった。

そして、今朝の出来事は、さらにマヒルの心を凍りつかせた。




「断る」


きっぱり言い放ち、『ベンジョサンダリスト一号』と呼ばれることを拒んだ『彼』は、N田町駅改札を出ると、足早に六番出口へと消えていった。

マヒルはショックのあまり、しばしその場に立ちつくすしかなかった。


職場備え付けの『ネスカフェ・エクセラ詰替お徳用』をすすりながら、マヒルは『彼』のあの冷たい拒絶の言葉を、もう何度も反芻しているのであった。

 

勇気を出して、声をかけたのに。あの冷たい仕打ち!

 

もしかして……ナンパだと思われたのかもしれない。

そう思うと、マヒルは底冷えする事務室で震えながらも、顔から火を吹きそうなほど恥ずかしかった。


「ああ。あんなこと、しなければよかった」

そうひとりごちながら、マヒルは、どんどんと後ろ向きな気持ちに陥っていくのだった。


すると、突然、マヒルの心の中の大天使ミカエルが、声を発した。

「いつもそうやって、ちいちゃな失敗にくじけて、あきらめてばかりいるのね? あなた」


マヒルは、ミカエルの声に耳を傾けた。


「今度も、簡単にあきらめるの?」


「そんな……ミカエル。だって」

マヒルは、心の中の大天使ミカエルに反駁した。だが、ミカエルは、マヒルになおも問いかけた。


「あなたの便所サンダルに対する気持ちって、そんなに容易にあきらめきれるようなものなの?」


「……いいえ、いいえ。あきらめきれないわ、あきらめきれるワケがないわ」

マヒルは、自室の六畳間の天袋に押し込めてある、便所サンダルに思いをはせた。

結婚式で履いたガーターベルトや何やかやと一緒に、天袋の奥の奥に押し込めてある、あの便所サンダル……。 


ずっと、ずっと自分だけの便所サンダルがほしいと思っていた。

市民プールの消毒薬くさいお便所で、ちょっぴり湿った黄土色の便所サンダルに足を滑らせるたびに覚えた、あの胸の高鳴り。

自分だけの便所サンダルに油性ペンを滑らせて、『まひる』と名前を書く。

そのときの手ごたえは、きっと、キュキキュキと心地よいはずよ……。


大人になって、あちこちの靴屋を覗いてみたが、黄土色の便所サンダルは見当たらなかった。たまに見かけても、中国、東南アジア製のビーチサンダルに毛が生えたような代物ばかり。


あのしっくりと足になじむ黄土色の便所サンダル……。

きっとあれはメイド・イン・ジャパンに違いないのに。


そして、時は流れ。


『うらぶれた駅前商店街めぐり』を趣味とする配偶者を得て、マヒルは電柱にしなびたプラスチック製の繭玉が飾ってあるような、もはや日本では絶滅の危機にひんしているといってもよいような『真性』のうらぶれた駅前商店街があるNK山駅に新居を構えることとなった。


そこで初めて、マヒルはあることに気が付いたのだった。


そう。

便所サンダルは『靴屋』にはない、ということを……。


便所サンダルは『履物屋』にあるのだ。


新年度始まりの半月間、公立小中学校指定上履きの販売時にだけ、かろうじて存在意義を有しているNK山駅前の履物屋。


そのすすけた木枠の格子模様のショウウインドウに、便所サンダルを見つけた時。

あの喜びを、マヒルは今でもありありと思い出せる。


そのサンダルは、マーブルがかった黄土色。

まごうことなく、夢みたとおりの便所サンダルだったのだ。


くる日もくる日も、まだ売れていないことを横目で確認しながら、履物屋の脇を通り過ぎるマヒル。

その敷居をまたぐ勇気が出ないまま、ひと月が過ぎ、そして、半年が過ぎた。


しかし、そんな日々も、ウインドーから便所サンダルが、忽然と消えたある晩秋の日に、終わりを告げた。

いつもの場所にサンダルがないことに気が付いたマヒルは、我を忘れ、気がつくと履物屋の中に飛び込んでいたのだった。


「あの、あの、あの。きのうまで表にあったサンダルは……」


店の真ん中で、ビニールくさい履物に埋もれるように座っていたおじさんは、マヒルを振り返りながらこう答えた。

「ああ、もう寒くなってきたからねぇ。展示は長靴と取り替えたんだよ。奥にしまってあるけど」


よかった、よかった……よかった。まだ間に合った!


「サイズは? S、M、L、LLがあるよ」

おじさんが訊いてくる。


「えっと……。普段は、二十四・五なんですけど」


「うーん、女性ものだとLLかなあ。でも今、LLきらしてるんだよね。男もののMで合うかなあ。そうそう。ちょうど、カワイイ色のがあるんだよ。水色でね」

そういって、店のおじさんは、ビニールに入った水色の便所サンダルを取り出し、マヒルの前に置いた。


水色の便所サンダルは、ぱっと見、劣化してひび割れた樹脂製の滑り台を思わせる質感をしていた。

しっとりと、マーブルに輝く黄土色の便所サンダルを脳裏に思い浮かべながら、マヒルは口をつぐんで、サンダルを見つめた。


「試し履きしてみるかい?」

おじさんはビニールを開けて、水色の便所サンダルを取り出そうとしたが、 マヒルは、無言でそれを制した。


すると、おじさんは、ビニールを開けかけてやめ、さりげなく、それをレジの方へ持って行った。

「やっぱり、こういう『つっかけ』、一足あると便利だよね。色もカワイイでしょう?」


「……はい」

マヒルは、やっとの思いで一言だけ答えた。


「じゃ千円ね。消費税はサービスしとくから、まいどあり」


……わかっていた。

おじさんは、気を使ってくれていたのだと。

妙齢の乙女が便所サンダルを買うのであるから、せめてパステルカラーを薦めるべきだと。


でも……。


どうして、あの時「色違いはないんですか?」の一言が言えなかったのだろう。

せっかく、勇気を振り絞って履物屋に足を踏み入れたというのに。


口惜しさと後悔のあまり、一度も足を入れることなく、天袋の奥に封印してしまった、あの水色の便所サンダル……。

もう、二度とあんな思いはしたくない。

仕事はおろかプライベートも、全くパッとしない、中途半端な三十女のマヒルだけど。

『ベンジョサンダル友の会』。

これだけはやり遂げたい。

やり遂げたら、きっと新しいわたしが始まるはずだわ。


朝靄に煙る議事堂の三角屋根をみつめながら、マヒルは決意した。

「ミカエル。わたし、やるわ」


マヒルはN田町駅ロングエレベータにたたずむ『彼』の後姿を思い返した。

やっぱり、ベンジョサンダリスト一号は、『彼』しかいない……。

なんとしても、入会させなくっちゃ!


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