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週真ん中の水曜日。
夜九時半のN田町駅は、残業終わりの人の流れも、大分、途絶えている時間だ。
ロングエスカレーター降りて右の廊下、ちょっとした広場と言っていいほどの幅がある通路だが、特に通る人が少ないところである。
なぜだか分からないが、エスカレーターを降りてきた人々は、左側の廊下に流れ、上ろうとやってくる人も同じ側からしかやってこないからだ。
その時も、その場にはサンダリスト達以外の人影はなかった。
と、エスカレーターから降りてきたひとりの人物が、右に折れ、マヒル達の方へと歩み寄ってきた。その足音は、紛れもなく便サンを履いた足のものであった。
現れたのは、ある時期には、テレビの画面で見ない日はなかった有名な顔である。
「楡山じゃ。呼び出てしてすまなかったのう」
楡山平八郎は、マヒルとサンダリスト達の足下に、鋭い視線を走らせた。
老いたとはいえ、まだまだ現役の、しかも超大物政治家である。その眼力は、そんじょそこいらの迫力ではなかった。
しかし、次の瞬間、楡山は、好好爺然とした笑みを、満面にたたえて言った。
「マツモト二人に、ナカガワ二人かね。なんといったかな? お前さん達の集まりは」
「……『ベンジョサンダル友の会』です、楡山先生。わたしが会長の岡野マヒルです」
半ば突っかかるように、立ち向かっていったマヒルに、まるで孫をあやすような笑みで頷き返す楡山だった。
「そうそう、まず、お前さん達に一つ謝らんとな。ビュー、フォー」
楡山が声をかけると、廊下に並んでいる太い柱から、男女が現れた。
げげ。コイツラは。
マヒルの頭に、G座一丁目駅のコンコースでの死闘がフラッシュバックする。
なに、なんなの? 東京の地下鉄の柱からは、なんですか。ムエタイ戦士が湧いて出てくる仕様でもあるんですか。
「お前さん達に、いきなり危害を加えようなどとして、悪かったのう」
首に包帯を巻いた男と、片腕を三角巾で吊った女が、楡山の後ろでおずおずと頭を下げた。
あら。なんか結構なお怪我してらっしゃるみたいね……。それとも大げさにやってるのかしら?
なんて考えていたマヒルと、頬に青タンをこしらえた女の視線がかちあった。
「こ、こっぷんか」
とマヒルが思わずつぶやいてしまうと、向こうの女もすかさず「まいぺんらい」とつぶやいた。
「時に、楡山さん。我々と『直接』話したいことと言うのは?」
どんな時にも、さくさくと場を仕切る一号が、話を戻した。
「『サカキ・インターナショナル』の件じゃ」
楡山も、ずばり核心に踏み込んできた。
「お前さん達が、あの会社やわしのことを嗅ぎ回っておったのが、気になってな」
「楡山さんにまで行き当たったのは、行きがかり上のことです。我々は、便所サンダル市場で最近、大がかりな買い占めが行われていることを調べていただけですから」
楡山は、黙って頷いた。一号の話を促すつもりのようだ。
「今年に入って、小売への便サンの供給が激減しています。このままでは、今年は例年の四割程度しか物が出回らない恐れがあります」
一号は淡々と続けた。楡山の後ろにいるムエタイ男は、じりじりと殺気を募らせている様子だった。
彼の戦士魂に、あの日、一号と二号が火を付けてしまったとでもいうのだろうか?
「楡山さん、あなた『サカキ』の社長とお知り合いでしたか? 勿論、『インターナショナル』の方ではないサカキのことです」
一号のこの問いかけに、楡山はふと目を細めた。
「懐かしいのぅ」
数回頷いてから、楡山は話を続けた。
「もともと、わしは、あそこのサンダルを気に入っておって。わしは、武蔵、下野の山奥の出でな。革靴なんぞ履くと、足が痒うなる。榊さんとは、いい友達だった」
「……政治家人生初期の、一番の支援者でもあったわけでしょう?」
一号が切り込むと、楡山は、ふぉふぉふぉ、と御大っぽく笑ってみせた。
「まあ、『大人同士』の友達じゃからの? 持ちつ持たれつというのもあったかもしれん」
……ああ、そっか。
サカキ。シェア七割とか言ってたっけ?
マヒルは、楡山の言葉の意味をそこはかとなく理解した。
「では、『サカキ・インターナショナル』のミキオ・プーンタラット氏とのご関係は?」
一号が淡々と続けた。
「おお、ミキ坊はなあ、大学もほっぽり出して、背嚢背負って、とうとう日本に戻ってこんようになったなあ、なんぞああいうのが、若い物の間では流行っているんじゃろう?」
「……最近は、あんまり」
マヒルが思わず口を挟む。
「榊幹夫さんと、ミキオ・プーンタラット氏は、同一人物なんですね?」
一号が念を押す。
「何年前じゃったか、ミキ坊から連絡があってな。便サンの『サカキ』ブランドを再興したいから、協力してくれないかとな」
……お家再興ですか? はあ。なんとまあ、古風な。
「とはいえな、ミキ坊はタイのおなごと結婚して、ヒモ同然の暮らしぶりでなあ。お前さん方は知らん時代だろうがのう。あの国は、先だっての戦争に関わらないでおれた国だからのう。列強の植民地化も免れてな。あの国に行くと、駄目になる外国人が多いんじゃなあ、なんも頑張らんでも、あの国では生きて行かれるからなあ」
「……たいじん、つかれることきらい、たいじん、はしらない」
楡山の後ろのマイペンライ女が口を開いた。
なるほど、日本語も分かるんだね。
マヒルはふむふむと、ひとり頷く。
「わしも歳を取りすぎたのかもしれんが。『サカキ』のサンダルと聞いて、どうにも懐かしくなってな。ほれ、ナカガワは、今はサカキの型でつくっとるから、今履く物に不自由はしとらんがな。しかし、ナカガワの所も、マツモトの所も、もういい歳だが跡継ぎもおらんじゃろう? 一つ、ミキ坊の話にかけてみようかと思ったんじゃ」
「……その便サンが、タイ製でも?」
マヒルは、思わず口を挟んだ。
……便所サンダルが、メイドイン・ジャパンじゃないなんて。
楡山は、ニッと歯を見せて笑い、マヒルを見た。
「そうじゃな。やはり、今はどうやっても海外の安物とマツモト、ナカガワとの差は歴然じゃ。だが、日本の物作りもある程度行き詰まってきておる。携わる者が減っとるのじゃから。その点、ミキ坊は、本物を知っておる人間じゃ。タイで、サカキののサンダルを再現してくれるんじゃないかと、少し期待をかけてみたんじゃ」
一号は、黙って楡山を見つめている。
「だから、何人か人を介したが、ミキ坊の会社が工業団地の設備を使えるよう口利きもしてやった。これはわしのやり方じゃあなかったがの、まあそこはきれい事ばかりも言われんところじゃ」
「で、自社製品を売り込む隙間ほしさに、ミキオ社長は、日本のサンダルを買い占めるような真似を始めたってわけかい?」
二号が、苛立たし気に口を開いた。
「随分と、しみったれた真似じゃないのか?」
楡山は、そこで深い溜息をついた。
「その、買い占めとやらの件については、わしも数日前まで知らなんだ。あんた達が何を調べているか追っていて、初めて気がついた。こっちでも調べたんじゃ。ミキ坊が何をやろうとしておるのか……」
楡山は、しばらくの間、黙り込んだ。
たまたま、エスカレーターを降りて、右に曲がってきた歩行者が、目の前で繰り広げられている何事かの異様なムードに気圧されて、後ずさりしていった。
「シェアへの食い込み目的で、サンダルを買い占めておるようならば、まだましな方じゃったよ」
楡山はそう言って、再び溜息をついた。
「あれはなあ、ミキ坊はなあ。結局、サンダルを作れなんだ。最初は、マツモトやナカガワの猿まねでもいいから、作ってみればいいと思って見ておったよ。それも出来んで……。買い占めたサンダルにサカキのマークをつけ直して、市場に出そうとしおった」
「え? なに? そんなことして、どうすんの。損するだけじゃないの? ミキオ・プンなんとかさんって」
マヒルは、二号の脇をつついて耳打ちをした。
「いや、多分さ、その資金なんて、やっぱ知れてるから、あれだろ? 楡山議員にせびるつもりだったんじゃねえか? とりあえず」
二号がマヒルにこう囁き返すと、楡山の後ろからまた声がした。
「たいじん、さきのことあまり、かんがえない、だいじょぶ」
マイペンライ女は、もの凄い地獄耳だった。
つか、ミキオは、既にタイ人のくくりなのか?
マヒルは突っ込みどころ満載のマイペンライ女が、結構気に入ってきた。
「それはいかん、これはもういかんのじゃ。泥棒と同じじゃ。わしは、そういう、こすっからい男にはもう付き合えん」
楡山は声を震わせた。
「で、楡山さん。あなたは『サカキ・インターナショナル』から手を引くと」
怒りと落胆で震える楡山に、一号は特に心動かされる様子もなく、再び淡々と話を進めた。「それで、我々にはどうしろと?」
「もう、ミキ坊には、マツモトにもナカガワにも悪さはさせん。わしの、楡山平八郎の名にかけてな。もちろん、お前さん方にもじゃ。だから……」
「……だから、一切を忘れろと?」
三号が口を開いた。若干甲高くはあったが、いつもよりも威厳というものがある声だった。
楡山は黙っていた。だが、やがて再び口を開いた。
「お前さん方のことも、少々調べさせて貰ったがの。まあ、わしに楯ついて無事でいられるところの役人達でもなさそうではないか?」
「……悪かったな、木っ端役人で」
二号が露骨に怒りをむき出しにして言った。
楡山の後ろのムエタイ男は、まだひたすらに殺意を燃え立たせているようで、メラメラと炎を燃えたぎらせた瞳で、二号を見据えている。
そのムエタイ男とガンの飛ばし合いをしている二号の隣に立っていたマヒルが、一歩前に出た。
「いいですよ、忘れましょ?」
サンダリスト達と楡山が、一斉にマヒルの方を向いた。
「別に、先生の脅しに屈したんじゃないです。言うなれば『武士の情け』です。これは」
二号が、口を開こうとしたのを、一号がそっと視線で押しとどめた。
「楡山先生、わたし、うかがいました。第一次安保の頃の、あの話を。まだ、先生は当選回数も少なくてお若かった。本会議採決の重要局面で、あえて先生が便所サンダルで議場に入ろうとした話です……。結局、票数のシビアな案件の採決に参加できず、そのせいで、かなり長い間、党内で冷遇されたってこと」
「随分と、古い話を持ち出したもんじゃな、お嬢さん」
「あの事件の顛末については、色々と裏があったとか、なかったとか。政治記者達が、後々詮索した本なんか出していたみたいですね」
「そうじゃったな。対抗派閥に寝返りを計画していたとか。国対と幹事長からの密命でワザと採決に参加しなかったのだとか。まあ、色々言われておったようじゃ」
楡山は、また好好爺然とした笑いで、場を煙にまこうとしているようだった。しかし、マヒルは、そんな楡山には構うことなく続けた。
「そのどれもが、ハズれで、そのどれもがアタリなのかも知れません。でも、わたしは結局の所、あの事件は、楡山先生の便所サンダルへの愛情からのことだったのではないかと思うんです」
楡山は、初めて真剣なまなざしでマヒルを正面から見据えた。
「……なんじゃったかな。『ベンジョサンダル友の会』とおっしゃったか。お嬢さん、あんたさんが会長さんなんじゃな」
「ハイ」
マヒルは自信を持って返事をした。一号も、二号も三号も、皆、同時に頷いていた。
「わしも、もう少し若かったら。お前さん方の会に入れてもらえておったかのう?」
楡山は、こういうとすぐさま「ビュー、フォー」とムエタイ戦士達に声をかけて、踵を返した。
マヒルからの答えは、聞くつもりもないようだった。
マイペンライ女は、音もなく柱から離れ、静かに楡山の後に続いた。
しかし、ムエタイ男は、そうはいかなかった。男はこちらに向って飛び出すと、押さえきれなくなった殺気をむき出しに、大きく一歩、まず、一号の方に向って踏み出した。
一号の足にも力が入った。
その刹那、一号の右足の便サンの履きこみの部分が、プツリと千切れた。
「ビュー!」
マイペンライ女が、鋭く叫んで、男の腕を掴んだ。男は仕方なく女に従い、楡山の方に歩き出した。
攻撃に備えていた二号が、構えを解いた。
「ちょっと、あのっ。楡山先生!」
マヒルが楡山の背中に声をかける。
「あの、なんで? なんであたし達が、先生を調べてるって分かったんですか?」
楡山は顔だけをマヒルの方に振り返ると、さも可笑しそうに声を立てて笑った。
「あんた、わしと『分館の主』との付き合いが、どれくらい長いかしらんのだなぁ。あれとも、わしらは、持ちつ持たれつなんじゃよ。お嬢さん。議員達の情報の流し合い、化かし合いをなめちゃいかん」
「……え? あの人って、何者」
鳩豆顔のマヒルに、楡山が追い打ちをかけた。
「あれはなあ。一国会職員の、図書館員の枠組みには、おけん男よ……。衆参の生き字引どころの騒ぎじゃない。あれは、戦後議会政治の一時代の重要な役者の一人よ」
そ、そうだよね。あんなにサボってばかりいる人が、何のお咎めもなく、のうのうとやってきてるってことは。
って。
……えええ? そう言うこと、なの? しかも、あの人って。衆議院じゃなくって、国会図書館の人なの?
おもいっきりショックを受けて固まっているマヒルを、面白そうに見ていた楡山は、今度は一号に向って言った。
「あんたさんが、一枚かんでることが分かった時にな。ちと邪推してしまってのぅ。なんぞ嫌な裏でもあるんじゃないかとな、それで、ビューとフォーにちょっかいを出させてしまったのじゃ」
マヒルと二号、三号は、それぞれに顔に?マークを作って、一号を見上げた。
だが、一号は相変わらずいつもの、ニヒルで涼しい笑顔を浮かべている。
「裏なんかありませんよ。楡山さん。我々は単なる便所サンダル愛好家。『ベンジョサンダル友の会』ですから」
楡山は、それ以上は何も言わず、そのままロングエスカレーターを上っていった。
「……一号? あのさ、楡山議員と知り合いなの? もしかして」
マヒルがおずおずと口を開いた。
「いや、顔を合わせて話したのは、今日が初めてだ」
一号は、さらりとかわし、ふと、自分の足下を見下ろした。
「今回は色々とあったが、これもよく保ってくれた。さすが、マツモトだ」
一号は、履きこみ口の千切れたサンダルをに目をやり、つぶやいた。
「これにて一件落着、ってことでいいんかね」
二号が、ぽつりと漏らす。
マヒルは二号の肩を、めいいっぱい力任せに叩いた。
「やっぱり、あたしが見込んだだけのことはあったよ。あんたたちは、真の『ベンジョサンダリスト』だったわ」
「別に、会長のために、色々やったわけじゃない」
一号がすかさず返答した。
……一号、ちょっとあんた、せっかくのいいところを。
すると、いつもの調子で、二号も割って入った。
「まあ、そうはいってもさ、一号。会長以上にオレたちの理解者はいないんじゃないのか?」
ふふん、
そうよ。それ見たことか。
「一号、ご異論は?」
マヒルが、厭味たっぷりに問いかけると、一号は、親指と人差し指を顎の下に当て、しばし沈黙してから、こう言った。
「……その件については、検討の上、後日報告、ってとこで、どうだろうか?」