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マヒルの朝は早い。
最近は。
上司のおばさまからの再三の厭味にさすがに耐えかね、始業時刻の三十分前には、席に着くようにしたのである。とりあえず。
なんだか、日本って『朝早く出勤すること』が美徳だよねぇ。ヨーロッパのデパートなんて始業時間に店は開いても、それから開店準備してるじゃん?
マヒルの心の声は、こんな感じではあったのだが。
とはいえ、そんな感じで早めに出勤するようになってから、六月に出会って以来、とんと見かけていなかったあの『彼』に、そう、便所サンダルの君を、毎朝のようにロングエスカレーターで見かけるようになったのだ。
初めて彼を見かけた、初夏のあの朝。
便所サンダルに紺の綿ソックスをコーディネートし、足もとにきりりと清潔感を漂わせていた彼も、ここ数日はウールのソックスで秋らしく暖かさを演出している。
無論、紺の綿ソックス、ウールのソックスのどちらもが、黄土色の便所サンダルにとてもマッチしていることは言うまでもない。
N田町駅のロングエスカレーターに、ピシリと背を伸ばして佇む『彼』。
いつもはその後ろ姿を見つめつつ、彼の靴下と便所サンダルのコーディネートをチェックしているだけのマヒルだったが。
今朝は違った。
勇気を出してみたのだ。
N田町のエスカレーター。マヒルが見上げると、暖かそうなウールの紺ソックスに包まれた『彼』の足が見えた。
くるぶしをピタリとつけて、膝の裏側はまっすぐに伸びている。
黒いバックパックを背負った背中は微動だにせず、顔はまっすぐに前を見据えていた。
マヒルは、エスカレーター右側を『彼』の方に向って上がっていった。そして『彼』の真後ろの段で立ち止まると、思い切って声をかけた。
「おはようございます」
『彼』はためらいがちに振り返った。 マヒルは、再び言った。
「おはようございます」
「……お早うございます」
『彼』は律儀に、一応挨拶を返した。マヒルは、すかさず続けた。
「いつも見てました」
『彼』は、全国一億数千万人の日本国民全員が理解できるほど明確に、困惑の表情を浮かべた。
だが、マヒルはそんなことは、まったく動じるつもりはなかった。
「お似合いですね……便所サンダル」
『彼』は絶句している。
「他の色は、お持ちなんですか?」
「……いや」
『彼』はやっとのことで、一言答えた。その声は、ナカナカ渋い低音だった。
「いつも便所サンダルなんですか?」
マヒルはなおも話しかけた。
「……いけませんか?」
「いけないだなんて、そんな。素敵です」
すると『彼』はどういうつもりか、マヒルにこう尋ねた。
「あなたは履かないのですか? 便所サンダル」
まさか質問が返ってくるとは思わなかったマヒルは、返事がすっかりしどろもどろになってしまった。
「あ、え。ひ、冷え性なもので」
「……成程」
ちょうどその時、二人をのせたエスカレーターが改札階に辿り着いた。そして、出勤ラッシュの人の波にのまれるように、マヒル達は自動改札の方へと流されていった。
……今を逃したら、チャンスはもうない。
マヒルは心を決めた。
「お願いがあるんです」
「は?」
『彼』は、今にも改札を抜けようとしたところを呼び止められ、当然のことだが憮然とした。だが、マヒルは、そんなことには構っていられなかった。
「わたし、こういうものですが」
マヒルはすかさず名刺を差し出した。
「『ベンジョサンダル友の会』?」
『彼』は、名刺に目をやりつぶやいた。
「便所サンダル愛好者たる会員による便所サンダル愛好者の発見、便所サンダルの
鑑賞及び利用の奨励並びに便所サンダル業界の振興を目的を有する団体です。将来的には中間法人化を考えています!」
「……俺にどうしろと」
「会員になっていただきたいのです」
『彼』は、引き続き冷静だった。そして無言だった。
マヒルは、ためらいながらも、さらに続けた。
「あの……『ベンジョサンダリスト一号』とお呼びしても、よろしいでしょうか?」