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マツモトの工場を出ても、僕の気持ちは沈んだままだった。
だって。
マツモトはともかく、どう見てもナカガワは、それほど経営に余裕があるわけでもなさそうだった。まあ、今どきの日本の町工場なんて、そんなものだろうけど。
それに、マツモトのオヤジさんも、ナカガワの社長ももうそんなに長く、あそこを続けられる歳じゃない。
あと、せいぜい十年かそこいら。
今回、僕たちが調べている『サカキ・インターナショナル』による国産便サンの買い占めが、便サン市場を脅かす直接的で切迫した問題なのは、間違いないけど……。
ただ、長期的には?
つまり。
ナカガワとマツモトには、後継者がいないみたいだし……。
一号は、僕の考えていることを察していたのかも知れない。
JRの駅前に着くまで、ただ黙って、僕と歩調を合わせてくれていた。
そして、改札の前まで来た時、一号は初めて口を開いた。
「三号、これからまた、庁舎に戻るのか?」
「いやぁ、さすがに今日は、もう仕事は勘弁してもらおうかと」
僕は、ショルダーバッグのストラップを直しながら答えた。
「どこかで何か喰って帰ろうか……そっちに予定がなければだが」
一号がそう言った瞬間、僕の鼓動は止まり、そして、すぐに今度は早く激しく打ち始めた。
そう、それこそ早鐘のように。
「ああ、ハイ、い、いいですね」
僕は、努めてさりげなく返した、なるべく、声が裏返らないように気をつけて。
「何がいい? 何でもつきあうぞ」と言って、一号は、口の端を軽く上げて微笑する。
「な、何でも……一号は、いつも夜、どうしてるんですか?」
僕は、激しくドギマギしていた。
「まあ色々だな。家で作る事もあるし」
何気なく一号は答える。
というか。誰か……作ってくれる人が?
だが、この言葉は、ぐっと飲み込む。
「い、一号にお任せしますよ」
一号が、無言でこちらを一瞥するので、僕は、慌てて付け足した。
「いや、あの。仕事柄、外に食べに行く暇とかないし、よく知らないから」
僕たちは、東京駅で地下鉄に乗り換え、A坂見附で降りた。
地上に出ると、一号は黙って歩き出し、路地裏のかなり小さな店に入っていった。
小料理屋、いや、焼き鳥屋といってもいいかもしれない。
まあ、飲み屋のような、食べ物屋の様なそんな店だ。
その店に一号が入れていたらしいボトルをお湯割りで空けながら、つまんだ肴はどれも美味かった。
良さ気な銘柄の焼酎だったし、もずくとか。そういうものは、久しぶりに食べた。
っていうか。
いつも売店の弁当か、庁舎の自販機のニチレイ冷凍食品とかしか食ってないから。何食ったって、そりゃ美味いとしか言えないかもしれないけど。
食事しながら、一号と何を喋ったのか、あまりはっきりとは覚えていない。
多分、益体もない話だ。
僕は、なぜかすっかり舞い上がっていたし、久しぶりのアルコールは、かなり早く回ったようだった。
店を出て、一号に抱えられてタクシーに乗ったところまでは、何とか覚えていた。
……そうさ。タクシーチケットなら、僕のポケットにいくらでも入っているんだ。
束で。
まぶたに突き刺さる日差しで、僕は目が覚めた。
コーヒーの匂いと肌に触れる張りのあるシーツの感触が、心地いい。
僕は、自分がきちんと横になって眠っていたことに、驚いた。
しゃがんで柱にもたれたままじゃなくて。ちゃんとベッドの中で。
しかも。
あろうことか、パンツ一丁のあられもない姿だった。
そもそも。ここって、宿舎の自分の部屋じゃない!
僕は跳ね起き、純潔を奪われた乙女のように、あわててシーツで胸を覆った。
壁には、僕のスラックスとジャケットが、几帳面にハンガーにかけてある。
シーツで体を覆ったまま、おそるおそるその部屋を出て、コーヒーの香りのする方へと近付く。
「起きたか?」
落ち着いた一号の声がした。
一号は注ぎ口の細いやかんを持って、コーヒーを入れていた。
右手には金魚すくいの網みたいな物を手にしていて、お湯がそこに細く細く注がれると、コーヒーの粉がふわふわに膨れ上がる。
一号は、サーバーからカップにへとコーヒーを注ぐ。
そして「飲むか?」と僕に訊ねた。
「宇宙人の好きなヤツじゃなくて悪いが」
そんな風にちゃかされても。
僕は、まだ、きまり悪いやら、状況が飲み込めないやらで、何にも言い返せなかった。とりあえず、黙ってコーヒーを受け取り、一口飲んだ。
多分、すごい良いコーヒー豆なんだろうと。
それだけは分った。それこそ二日酔い野郎なんかには、もったいない位の。だって、一口飲んだだけで、もう、耳までコーヒーの香りがするような感じだもの。
一号が「砂糖とか使うか?」と聞いてくれた。
僕はそれを断ってから、おそるおそる一号に尋ねた。
「こ、ここって、一号の……部屋?」
一号はコーヒーを飲みながら、あいまいに頷いた。
なんの変哲もない部屋。別に僕にインテリアの知識がないからそう思うっていうだけじゃないと思う。
なんと表現しようもないのだ。
これと言った特徴も特色もない。でも、趣味が悪い、とか殺風景だ、といった風でもない。
そこにあったカーテンも、椅子も、机も。どれも実はかなり物はいいのではないかとは分る。でも、あとからその部屋を説明しろと言われても、どうにも説明しようがない。
さりげない、とでもいうのか。
居心地が悪いというのでは決してない。それだけは断言できる。だって、初めて来た場所なのに、僕は、なんだかとてもくつろいだ気分になっていたのだから。
「あ、あの。昨晩は……えっと」
やっぱり、言葉が続かない。一号は僕を見て、面白そうに微笑した。
「三号、昨晩は『タクシーチケット使え使え』ってうるさかったからな……」
そういうと、後ろのテーブルからレシートを取って、僕に差し出した。
「ま、あそこまで言われてはね。ありがたく使わせてもらった」
僕はそれを受け取りはしたが、裸にシーツの出で立ちではどうする事も出来ず、そのまま、レシートは片手に持っているしかなかった。
「あの、さ。その。昨日」
僕はもう一度、一号に切り出そうとした。
……昨日、あれから、僕たちって?
すると、一号が突然、真面目な表情に戻って言った。
「いい機会だ。この際だから三号に言っておきたかった事がある」
……それはあまりにも突然すぎた。
僕は血の気が引いたかと思ったら、今度は、耳の奥までカァーっと体が熱くなるのを感じた。
「前々から、思っていた事なんだが」
でも、僕のそんな気持ちにはおかまいなしに、一号は続ける。
「三号、お前の仕事が色々大変なのは、解っているつもりだ」
一号が僕を見つめる。
「でも、少しは考えて欲しい」
僕は、やっとの事で声を絞り出した。
「……な、何を?」
「三号。疲れてないか?」
一号が手をそっと、僕の方へと伸ばす。思わず、僕は少し後ずさりした。
「……髪だ」
「へ?」
「男の疲れは、まず、前髪に出るからな。女性はよく、肌が荒れたりするが」
「い、いちごう?」
「お前はまだ、若いし、遅くはない。できるだけ睡眠をとって、食事で色々な食品をちゃんと摂取しろよ」
……は、はいぃ?
「即効性があるわけじゃないが、わかめとか昆布とか、海苔とか。馬鹿にしたもんじゃない。きちんと何年か続ければ、絶対、効果がある」
一号……。
それって。それって僕が。
僕がハゲってこと?
そういうこと? 一号。
「医者にかかるという方法もあるしな。テレビでAGA治療のCMやってるだろう? お笑いの奴がでてるな」
僕に、テレビ見る暇なんかあるわけないだろ……一号。
「よかったら、知り合いに内科もやってるいい皮膚科がいる。紹介するか?」
首を横に振ったきり、黙り込んだ僕に、一号が済まなそうに言った。
「悪かった、随分と立ち入ったこと言って……だが」
……だが?
「友の会でも皆、三号のこと心配している」
友の会って、一号も二号も、あの会長も、みんなみんなして、何ですか?
僕の頭髪問題について、相談したとでもいうんですか?
そっちの方がよっぽど。
よっぽどあんまりじゃないか? あんまりじゃないんですかぁ!
一号が、伸ばした手を、そっと僕の肩においた。
大きな手だ。暖かい。
「とりあえず……シャンプーの後は、しっかりすすげよ。まずはそこからだ、三号」
……僕は、僕は情けなくなって、コーヒーカップに涙をこぼした。
こんな、こんな裸同然の格好で、ひょっとして一夜を共にしたかもしれないと淡い期待を抱いた男に、頭髪問題を心配されるなんて。
「おい、泣くなよ。三号。解ってるから」
一号が優しく僕の肩を揺すった。
「二号も言ってたぞ。三号は、よくやってるって」
「……え?」
「自分だったら、あんな仕事は続かんとさ」
「いちごう……」
「俺もそう思う。三号。お前は立派だ」
僕は、とうとうこらえきれなくなって、声を出して泣いた。
ひとしきり泣いて、シーツが鼻水まみれになった頃、一号が、隣の部屋から僕のスーツのかかったハンガーを持ってきた。
「今日、このまま出勤するんだろう? スラックス、プレスしといたぞ。ほら、着ていけ。あと……」
と言って、別のハンガーにかかったシャツを、一緒に僕に手渡した。
「三号の着てたワイシャツ。焼き鳥のたれでベトベトになって、どうしようもないから捨てた。これを着ていけ」
一号の。一号のワイシャツ……。
一号は、僕からカップとシーツを引きはがすと、カップを流しに、シーツを別のどこかへと持っていった。
どこのメーカーのなんだろう、このシャツ。
袖を通す前にあちこち調べてみる。
これまた何の変哲もない白のシャツだった。
形はやや細身で目の詰んだ上等そうな布地でできていた。
……ない、どこをひっくりかえしても。
何の表示もない。
品質表示も、メーカーのタグも、サイズ表示も、なにもかも、綺麗に切り取ってあった。
「なにやってる? 早く着ないと風邪引くぞ」
一号にせかされて、僕はあわててワイシャツとスーツを着込んだ。
シャツの袖が、かなり長い。
一号は、ジャケットのポケットにいれてあった僕の財布やらハンカチやら身分証やらと一緒に、タクシーチケットの束とさっきのレシートを、僕の前に置いた。
「下の道から、車、すぐ拾えるから」と一号は言い、「どうせ、電車には乗らないだろう?」と笑った。
昨日から、一号の笑顔をよく見るなと、そんなことをぼんやり考えながら、ポケットに色々詰め込んで、洗面所で、形ばかり顔を洗った。
いくらなんでも、そろそろ事務室にいなければまずい時間だった。
僕は、一号の家の玄関を飛び出しながら、「一号は? 出勤するんでしょう?」と訊ねた。
「無論だ」
一号は意味深な口調で一言いうと、右手で軽くバイバイをして静かに、玄関の扉を閉めた。