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「こ、ここって……」
僕と一号は、K浜東北線を品川のちょっと先の駅で降り、私鉄に乗り換えた。
そして、大田区のセメント瓦の古い木造住宅と町工場が密集したような地域にやってきていた。
「一号、あの。ひょっとして……」
目の前にあるのは、ちょっと間口の広いおんぼろガレージといった感じの建物だった。
「三号、来るのは、初めてか?」
一号が、またもニヒルに微笑んだ。
な、なんだろう。一号の笑顔って言うのは、笑顔なのに、渋さが突然アップするのは、どうしてだ。
「そ、そりゃ。ここで物が買える訳じゃないですし……」
というか。ここが、ここが……?
シャッターの上の鉄板部分に直接書かれた色あせた文字を、僕は見上げた。
(有)中川
僕がぼんやりと看板を見つめていると、一号は引き戸を開けて、さっさと先に入っていく。慌てて、僕も後を追って中に入った。
一号が奥へ向かって挨拶をすると、奥から六十がらみの、何ともいえない風体の男性がのっそりと出てきた。
「ああ、あんたかい」
彼は一号とはすっかり知った仲のようだった。
脇で二人を眺めていた僕に、一号が声をかけた。
「こちらナカガワの社長。ナカガワ・タケハル氏だ」
まあ、確かに、有限会社なんだから、社長なんだろうな……等と考えていて、ついうっかりしていた。僕は急いで名刺を取り出した。
僕から渡された名刺を、眼鏡をずらして眺めながら、社長は「ほー、役人さん?」とつぶやく。
社長は、僕の足下を見たはずだ。
ナカガワは、この何十年、型は同じ物しか作っていない。
見間違えようもないだろう。僕のナカガワを。
だが……社長は何の反応も示さなかった。
……なんというポーカーフェイス。
僕の表情をさりげなく覗っていたらしい一号が、口を開いた。
「タケさん、こちらナカガワのサンダルの愛用者」
社長は、黄ばんだ古い保護マットの置かれた、どことなく片付かない印象のスチールデスクの上に僕の名刺を置いてから、こっちを振り返った。
「へぇ? そうなの」
そして、社長は、初めて僕の足下に視線を落とした。
「ぼ、僕は、このナカガワの一貫して変らない足型が、普遍的な完成型としての……」
ナカガワへの熱い思いがほとばしりすぎて、つい支離滅裂になりながらも、僕はナカガワの社長に訴えかけた。
「え、あ、そう? 一体成型のゴムサンダルなんて。どれも似たようなものだよ? ボクは見分けつかないなあ」
な、なんですと?
思わず一号の顔を見上げると、彼はちょっとだけ、困ったような表情で、またもや渋く微笑んだ。
いい、その笑顔もいい……。
っていうか。
僕、何でこんなに一号の笑顔に萌えてるんだ?
「タケさんはね、そういうことに、こだわりがないんだ。勿論、品質には凄いこだわりがあるけど。ナカガワブランドに対しては、まったく頓着しないから」
確かに。
別に、自分の製品を、たかが便サンとかって卑下してるってわけでもなさそうだったけど。
というか、さっきから、普通にニコニコと笑ってるし。
人のいい町工場のおっちゃんそのものと言うか。
「うん。勿論、うちのサンダルは、輸入物なんかと比べたら、しっかりしてるよ。履いてて簡単にベルトが切れたりすると危ないからねえ」
と、語る社長に一号は、静かに頷いて見せた。
そして、僕を振り向き、「こういうところは、マツモトのオヤジさんとは、正反対」
とささやく。
ナカガワの社長は、そこで思いついたように茶渋の付いた急須を取り出してきた。
「タケさん、お構いなく。実は今日もまた、伺いたいことがあって」
一号は、要件を切り出した。
「『サカキ』っていう名前に、聞き覚えはないですか?」
社長は、それこそ鳩が豆鉄砲食らったような顔をしたが、すぐに何事かを思いついた。
「……さかき? ああ、榊さんとこのこと? 随分と古い話だね」
今度は、僕の方が鳩豆だった。でも、一号は、社長の言葉を平然と聞いている。
「一時期はすごかったよねえ、サカキさんとこは」
社長は、ひとり頷きながら話を続けた。
「でもねえ、正直ボクは、サカキさんとこの店とは、そんなに付き合いはなくてね。マツモトさんとこのが、親しかったんじゃないかな? 今日も顔出すんでしょ? あっちに」
一号は静かにうなづいた。
……えっと、顔、出すの? 一号、マツモトにも?
*************
「悪いけどさ……あと十分で終わるから! ちょっと外出てて」
会釈をしながら、僕と一号が工場に足を踏み入れた途端、『マツモトのオヤジさん』は、今どき、どこいったって滅多に聞けないような無愛想さを滲ませた声で言い放った。
しかし、一号は勝手知ったるという様子で、そのまま奥へと進んで行く。
そして、事務室に入っていき、初老の女性に挨拶をした。
どうやら、「マツモトのオヤジさん」の奥さんのようだ。旦那の分を埋め合わせるかのように、腰の低い女性だった。
白いレースカバーの掛けられた古い小さなソファーセットのところで、僕と一号は、奥さんが丁寧に出してくれた緑茶をすすって、オヤジさんの作業が一段落するのを待った。
「そういえば、ナカガワさんのところで伺ったんですが」
一号が奥さんとの世間話の途中で、こう切り出した。
「『サカキ』さんとは、以前、お付き合いがあったとか?」
奥さんは、一瞬、首をひねったが、すぐに得心が行ったように頷いてみせた。
「え? ええ。あらまあ、懐かしいわねえ。サカキさん。もう何十年前になるかしら」
えっと。いや、一号、あのさ。一号は、解ってるのかもしれないけど、僕、全然ついていけてないのですが。
「あ、あのですねぇ、一号。すいません。『サカキさん』ってのは」
僕が思いあまって口にすると、一号と嬉しそうに話をしていた奥さんの方が振り返った。
「あらあら。ごめんなさいねえ。サカキさんっていうのはね、サンダル屋さんだったの。うちと同業」
……へ?
すると、一号も僕を向いて言った。
「やはり……お前は知らなかったか。まあ、無理もない。俺だって、名前に聞き覚えがあるといった程度だったからな。三号、『サカキ』はな、伝説の便所サンダルメーカーだ」
……伝説の便サンメーカー?
『サカキ』が?!
「『サカキ』の実物は、俺も見たことはない。だが、一九七〇年代、便サン市場の黄金期だが。当時、サカキは、シェア六割とも七割とも言われていたらしい」
……シェア、七割だってぇ? そんな馬鹿な。
「今日は、また何の用事かと思えば。随分と聞かなかった名前を持ち出すじゃないか」
首にかけたタオルで顔をぬぐいながら、マツモトのオヤジさんが事務室に入ってきた。
事務机の前に置かれた、これまた年代物の、鼠色の合皮の事務椅子に腰かけると、オヤジさんは、奥さんの持ってきた湯のみに口をつけた。
「サカキさんのところはなあ、当時にしては、エラくいい機械入れて、ヒトも結構使ってたからな」
「そ、それでシェア七割……ですか」
僕が思わず口にすると、オヤジさんは湯のみを机に置いて、こちらを睨むように見た。
「そりゃ、あんた。あの頃は。作れば作っただけ売れたもの」
「オヤジさん、そのサカキは今は?」
一号がさっくりと確信に切り込んでくる。
ふたたび、湯のみに口をつけかけたオヤジさんは、ちょっとむせるようにして言葉を返した。
「サカキさんのとこもなあ。あんなことさえなけりゃな」
……あんなこと?
横の方で、僕たちの話を聞いていた奥さんが口を開いた。
「事故でねえ。高速道路で。天気が悪かったし、ご夫婦二人ともねえ……」
「ご遺族は?」
沈黙が気まずくなる直前の絶妙のタイミングで、一号が質問した。
「あれだなあ。男の子がひとり……」とオヤジさんが言うと、奥さんの方が付け足した。
「そうそう、幹夫君」
そこでふとオヤジさんが、僕の方を向き、突然言った。
「あんた、それ『ナカガワ』だろ?」
せんから承知、といった感じだった。
「今のあそこの金型はな、その時サカキから買ったもんだよ。大きな商売やってたっていっても、所詮はサンダルだけだったから。社長達が亡くなっちまえば、廃業だ。あっけなかったな。だから、それはサカキの製品と形はほとんど一緒ってことだ」
「……それで『サカキ』は、幻のように消え失せ、伝説となったというわけか」
一号が納得したようにつぶやいた。
「サカキには、他の足型もあったがな、いま残ってるのは、多分、ナカガワのそいつだけだ……」
オヤジさんがちょっと遠くを眺めるようにして言う。
今度の沈黙は、長く重苦しかった。
僕はさっき訪れたナカガワの社長の言っていたことを思い出していた。
――ウチの足形が一つなのはねぇ、この金型を買った時、資金がなくてねぇ……もっと金があればねえ……と。