ホームレス
新しいオフィスに移って２週間。
机やいす、什器の大半を買い替えたため、少しばかり
よそよそしい感じもしたけれど、ここにきてようやく
慣れてきた。すべてが新しく、新鮮な空気に満ちあふれ
ていて、自然、気分も高揚する。でも、そんな気持ちで
いられるのはオフィスにいるときだけで、一歩、外に
出てみれば現代日本の厳しい現実を目の当たりにする
ことになる。
オフィスビルを出て、すぐ左側に地下鉄への出入り口が
あるのだけれども、いつもここに一人のホームレスの
方がじっと座り込んでいる。見たところ７０歳を越える
老人である。時に寒さも厳しくなる中、何をするでもなく
まるで孤独に耐えることを自らに課しているが如くに
じっと、じっと、ただ、じっと座っている。
食べるものもないようなので無駄な力を使わないように
しているのだろうか。通り過ぎる人々は、そこには何も
ないように、いやそこには確かに人がいると認識しながらも
意識的に見ないようにしている。現実を見てはいけない
という暗黙のルールがあるかのような感じだ。
勿論、この通り過ぎる人々の中に僕はいる。僕は確実に
その「人」を認識しながらも意識的に認識から遠ざけて
いるのだ。その「人」は既に「人」ではないのかもしれない。
いずれ、マンションの管理会社からか、近隣の住民からか、
苦情が出て、この老人ホームレスは、退去させられてしまう
だろう。そうすると、僕らは前々からそこには誰もいなかった
かのようにそこを通り過ぎ、それが現実だと思いこもうとする。
でも、その老人ホームレスに安住の地があろうはずもなく
ただ単に、彼がじっとしている場所が代わるだけのことで
その現実はやはり変わらない。
人は不思議な生き物だ。
鯨や鴨、犬や猫、鳥が困っていると、みんな我がことのように
心配し必死に手を差しのばそうとする。感極まって涙する人が
一人や二人ではない。困っている動物には警察も優しい。
鴨の道路横断に警備までするほど優しい。オットセイが川に
まぎれこんでも、鯨が浅瀬に乗り上げても、犬が池で溺れかかって
いても。とにかくみんな何とかしようとする。人は優しい
生き物なのだ。でも、不思議なことに同じ「人」は「人」に冷たい。
ホームレスは、存在すら否定され、彼らの人格はどこかに
置いてけぼりにされ、ひたすら放逐の対象となってしまう。
犯罪を犯した人は国家から三食与えられ、雨露しのげるけれども
ホームレスは誰からも保護されず、それどころか唾棄すべきかの
如く扱われる。
「人の命は地球より重い」
誰もそんな言葉を信じていないからこそ、言い続けているわけだ。
もう１０年以上前の出来事。
飯田橋駅近くには、首都高速道路が通っている。
神田川沿いに、植林されている通りがあって、丁度、首都高速の
下に重なっていてそこは雨もしのげるということで、何人かの
ホームレスの方々が段ボールやベニヤ板を巧みに利用して
ちょっとした住処を作って生活を営んでいた。歩道を通るのは
ビジネスマンかOL。通勤で必ず歩く通りなので、交流なんて
あろうはずもないが、顔だけは覚えてしまう。
ある夏の暑い日。
何人もの警官が、あるホームレスの住処に集まっている。
野次馬が何重にも取り巻く。
普段は意識的に遠ざけようとしているのだが・・・・
どうやら亡くなってしまったようだ。
野次馬はその名前も知らぬ、けれども顔だけは知っている
「人」の死を特に哀れむでもなく日常の一コマとして
まあ、オフィスや帰宅したときの話のネタぐらいにはなる
だろうといった感じで眺めている。「人」が「人」を見ながら
「人」扱いしないという不思議な現象。
その翌日、会社へ向かういつもの神田川沿いの通り。
僕の行く前を二人の若い女性が歩いている。そして、ちょうど
亡くなったホームレスの住処にきたとき、その若い女性が
ささやかな花束をそっと、その場所へ置いて、腰を下ろして
手を合わせ、しばし拝んでいた。思わず立ち止まってその様子を
じっと見ていたが、若い女性は言葉を発するでもなく、また立ち
上がって会社に向かって再び歩き始める。彼女らと亡くなった
ホームレスの方にどんな関係があったのかはわからない。
おそらく、何もなかったであろう。それでも「人」の死を悼み
「人」を「人」として扱う姿を目にして、自分の非情さを恥じる
とともに、「人」の素晴らしさを知ることとなった。彼女らの
「人」としての気持ちに何か救われたような気がした。
動物を哀れむのも素晴らしいことだ。であるならば、もう少しだけ
「人」のことを人格ある「人」として考えてみる必要があるような
気がする。
