隣の席の女の子は、私にだけ意地悪で、独特な仕草に気持ちを隠して、愛情を示している。
「くそ、英語の教科書どこやったっけ?」
ん? おかしいな。昨日宿題で使ったあと、自分の机に置きっぱなしにしたはずなんだけど。
時計を見ると、次の授業開始まであと二分。隣のクラスまで行って友達に借りるには時間が足りない。……仕方ない。
「あの、美咲。悪いんだけど、教科書見せてくれない?」
少し気まずい思いをしながら、隣の席の彼女に声をかけた。すると、僕の隣の席の彼女は、これ見よがしに大げさな溜息をつき、信じられないものを見るような目で僕を振り返った。
「……はぁ? また忘れたの?」
呆れと苛立ちを混ぜ合わせたような表情で、彼女――星野美咲はそう言った。「サキ」という愛称で呼ぶようクラスメイトに強要している、色白でクラスでも一際目を引く美人だ。
「あー、たぶん昨日宿題やった後に家に置いてきたっぽい。ごめん、机くっつけてもいい?」
「……もう、仕方ないわね」
「ありがとう」
手早く机を寄せ合う。彼女はそっけなく振る舞っているけれど、その瞳の奥には悪戯っぽい光が宿っていて、この「不機嫌」が彼女なりの演技であることを僕は知っている。
「本当に、あんたってどうしてこうも忘れ物が多いの? 今月何度目よ?」
「いや、気をつけてはいるんだけど……」
「本当に気をつけてたら、そんなに忘れないでしょ」
「仕方ないだろ。うっかりしちゃうんだから」
「うっかりじゃ済まないわよ」
「ひどいな!」
毒づきながらわざとらしく溜息をつくと、美咲は前を向き、僕たちにしか分からない合図で悪戯っぽく指先を動かした。
「え? 何?」
「別に? 『この人、本当にバカね』って言っただけ」
「そのジェスチャーやめろよ!」
僕の抗議に、美咲は誰にも見せないような意地悪な笑みを浮かべた。ちょうどその時、チャイムが鳴り、英語教師が入ってきた。
「起立、礼!」
「「お願いします!」」
授業が始まり、僕たちは黒板に向き直る……フリをして、僕はチラリと横目で美咲の様子をうかがった。すると――
(うわ、めっちゃニヤニヤしてる。口元が緩みきってるぞ)
不思議なことに、彼女の仕草は手に取るように分かる。彼女の体全体が『言っちゃった、言っちゃった、へへへ♪』と叫んでいるようだった。口では「この人バカね」と言いつつ、表情は『でも、そういうところも嫌いじゃないわ』と語っている。
そう、僕は彼女の感情を読み解くエキスパート、黒木蓮二だ。
彼女をずっと観察し続けたせいで、微細な表情の変化が本を読むみたいに分かるようになった。知らぬ存ぜぬを装う演技力も、かなりのものだ。
彼女は、僕がそこまで彼女を理解しているとは露ほども思っていない。
(あ、ヤバい、ニヤけてるのがバレる……うぷっ)
視線を感じて慌ててノートに目を落とす。彼女はきっと『全然気づいてない。こんなにサイン送ってるのに鈍感ね。へへへ♪』と思っているはずだ。でも、全部お見通しなんだよ。
この奇妙な交流は、入学から三ヶ月後に始まった。完璧主義が災いしてクラスに馴染めなかった彼女を、僕はさりげなくサポートした。「サキ」というあだ名を提案したのも僕だ。それ以来、彼女は僕のドジをフォローする立場になった。
しかし三ヶ月前、彼女は急に、演技を通じて好意を伝えてくるようになった。僕にしか分からない表情やジェスチャーの中に、愛の言葉を隠して。
「……じゃあ、次はここ。ねえ、蓮二、聞いてる?」
やべ、集中してなかった。勘で答えるしかない。
「えっと……4番、の意見についてかな?」
「いいえ。……サキ、どう思う?」
「はい。たぶん2番の『話す』だと思います」
「その通り。蓮二、女の子の隣に座って浮ついてないで、ちゃんと授業に集中しなさい」
クラス中から笑いが起こり、僕は肩をすくめる。美咲はすまし顔で、僕との間に少しだけ距離を置いた。
「……何? そんなに見てて」
「見てないよ」
「……ねえ、ちょっと離れてくれる? スペースがないんだけど」
「何もしようとしてないだろ!」
「授業中よ、静かにして」
「はいはい、わかってるよ!」
教師の鋭い視線に、僕はすぐに口をつぐんだ。
(僕のこと、好きなのか? 本当に?)
そう確信しても、彼女は平然とした顔で座り直す。『そんな風に見えるけど』なんて、普通の答えじゃない。その勝ち誇ったような笑みもやめろ! 全部お見通しだからな、美咲!
心の中で叫びながら、僕はポーカーフェイスを貫く。
その後も授業は張り詰めた静寂の中で進んだ。肘と肘が触れ合う距離なのに、よそよそしいフリをしている。でも、もちろん何もないわけがない。
(何してるの? おい、何書いてるんだ?)
教科書を見るフリをして覗き込むと、彼女のノートの隅に僕の似顔絵が描かれていた。特徴を妙に正確に捉えているけれど、鼻がおかしかったり、最高に間抜けな顔に描かれている。明らかにからかっている。
僕がその悪意ある落書きを見つめていると、彼女と目が合った。美咲は挑発するように「フン」と鼻を鳴らす。そして、絵の周りに矢印を描き、怒ったような勢いで何かを書き込んだ。
一見すると「バカ」「間抜け」といった罵倒を書き込んでいるように見えるが、よく見るとそれは驚くほど愛に溢れていた。落書きの隙間に『好き』とか『かっこいい』という文字が混ざっていたからだ。
本当に気づかないとでも思ってるのか? そんなギリギリの駆け引きをして、何が楽しいんだ? 『かっこいい』なんて、今まで誰にも言われたことがないのに! 目が腐ってるのか?
「ねえ、蓮二。私の話、聞いてる?」
「え? あ、うん」
「じゃあ、10番答えて」
「えっと……」
教師の声に驚いて前を向く。隣で美咲が、すまし顔を維持しながら肩を震わせて笑っている。
(この子……一体何様だよ)
「えっと……3番?」
「間違い」
「うそだろ? なんで?」
「……ぷっ」
「笑うなよ! 可愛いから許すけど、調子に乗るなよ!」
教師に怒られている間も、美咲は笑いをこらえるのに必死だった。
僕は心の中で全力で叫んでいた。この日常が、この視線と秘密のゲームが、ずっと続くのだと信じていた。
この滑稽で居心地のいい均衡が、せめて卒業までは続くと思っていた。
……けれど、冬休みが終わって三学期が始まったとき、彼女はもう、この街にはいなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「あら? レイナじゃない。帰省してたの?」
「あ、こんにちは。はい、少し用事があって」
「まあ、嬉しいわ。帰る前に寄っていきなさいよ。うちの子がいつもあなたのこと話してるのよ」
「はい、頑張ります。また近いうちに」
かつての知り合いの母親に偶然出会い、そんな会話をして帰路につく。去年の暮れ、父の転勤で、海沿いの遠い街へ引っ越すことになった。
あまりに突然のことで、一番伝えたかった人にだけ、挨拶ができなかった。
外見ばかりが注目される私を、ただの「レイナ」として、対等に接してくれた蓮二。私の初恋の人。皮肉なことに、連絡先すら交換していなかった。
でも、それで良かったのかもしれない。会ったところで、なんて言えばいいか分からなかったはずだ。この街に戻ってくるかも分からないのに。……まあ、想いは何度も伝えてきたけれど。
彼は気づいていなかっただろうけれど、私は彼が分からないと知った上で、ずっと好きだと伝えていた。あれが良かったのか悪かったのか、今となっては分からない。
「……さむい」
冬は冷える。でも、胸を突き抜ける風の冷たさは、それとは別の理由だ。
「……会いたいな」
冷たい夕闇に言葉が溶けていく。誰にも聞かれていないと思っていたのに。
「おっ! なんて素敵な街なんだ! おお、このあたりは洒落てるじゃないか!」
毛皮のコートを着たマフィアのような老人が、やけに大きな声で独り言を言っている。
「……何? あの変な人」
「ああもう、おじいちゃん、恥ずかしいからやめてよ! あの……すみません、ちょっと探している人がいて。この人、知りませんか?」
「え……なんで……どうしてここに?」
男の子がスマホから顔を上げ、私と視線が完全に重なった。
「「あっ」」
同時に声が出た。次の瞬間、彼は「いた!」と叫び、信じられない速さで駆け寄ってきた。私はただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。
「はぁ、はぁ……やっと見つけた」
「え、息……切れてる?」
「なんで……なんでここにいるの?」
「なんでって、会いに来たんだよ。決まってるだろ」
「え……でも、どうやって場所を?」
「当たり前だろ。数ヶ月前に見せてくれた写真の風景、全部覚えてたんだから。聞き込みしてやっと辿り着いたよ」
意外な言葉に、蓮二は恥ずかしそうに視線を逸らした。
「ま、俺は忘れ物ばっかりだけど……好きな子がくれた情報は、絶対に忘れないから」
不意打ちの言葉に、頭が真っ白になった。胸の奥から熱い喜びが溢れ出す。
「れ、蓮二、あんた……」
「え?」
「……何?」
「さっきの……蓮二、もしかして……最初から、分かってたの?」
混乱する私に、蓮二は困ったような笑みを浮かべた。
「ごめん。実は、全部気づいてたんだ。君のサイン、全部」
「え……いつから……?」
「いつからって……最初から?」
「はあぁぁ!?!?」
「あ、あんた……バカ……」
「バカ?」
「バッ……カァァ!!!」
全力で叫んで、走り出した。角に隠れて、頭を抱える。
「あぁぁぁ!!!」
(知ってたんだ。全部……全部聞かれてたんだ!)
「あぁぁ、恥ずかしい! 死ぬっ!」
「おい、大丈夫か?」
振り向くと、蓮二が面白そうにニヤニヤしながらこっちを見ていた。その顔を見たら、また顔が火照った。
「で、えっと……返事、ほしいんだけど……」
「……返事?」
「ああ。さっきの、告白のつもりだったからさ……」
頬をかきながら照れる彼をじっと見て、私はいつものように叫んだ。
「……バカ!」
そして。
「……好き!」
蓮二がニヒルに笑って、答えた。
「知ってる」
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