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第三話 祝いのコーヒー

 あの会議の後から、私はミーティングで発言権がなくなった。

 クライアントから「仕事ができないやつ」というレッテルを貼られてしまったのだ。

 私はただの書記係と化していた。

「ではそちらの実機によるテスト期間と、修正期間が2日。その後にリリースで――」

「――あの、それだとアプリ申請の期間が……」

 言いかけると、先輩が手で制止した。

 他の社員たちも、私に冷たく視線を向けるだけで、一瞬の静寂の後、何もなかったかのように話を再開した。会議の後、ごめんなと言ってくれたプロマネは、もう謝ったことすら忘れてしまったのか、周囲に同調している。

 あの謝罪には、何の意味も改善もなかったということだ。

 アプリリリースが近づき、最後の仕上げ段階に差し掛かった頃、地方からクライアントが来社することになった。

「君も今回のことで大きく学んだだろう。もっとクライアントとユーザーの視点に立った資料作りをしなさい」

 会議室へ案内するために廊下を先導している私に、クライアントの代表はそう言いながら私の肩に手を置いて笑った。

「そうですね。精進します」

 私は何でもないように笑顔で応えながら、震え出した指先を隠すようにノートパソコンを持つ手に力を込めた。


 定時の時刻が過ぎ、私は先輩に呼ばれて休憩室までついていった。

「もうすぐこの現場も終わるでしょう。だから今日、会社から次の現場の打診があったのだけど」

「――あの! 先輩、その話、少し待ってほしいんですが……――」

 淡々と話す先輩に、私は勇気をふり絞って言った。

「――はぁ。何言ってんの?内勤にでもなるつもり?だからやるなって言ったのに。自業自得でしょ」

 大きなため息で一蹴するように言う先輩に、私は何も言い返せなかった。いや、言いたくなかった。「でも」「だって」と言いたいことは山ほど出てきたけれど、私には気力が残されていなかった。現場にも、人の態度にも、人の発言にも精神を削り取られるこの毎日が辛かった。

 『自業自得』という言葉が、放棄された資料作成を代行した、『良かれと思って』の行為に対して、こんなにもしつこく付きまとうものなのかと痛感した。必死にプロジェクトの成功のことを願ってやった事だった。だから、せめて先輩には分かっていて欲しかったのに、その願いは届かなかった。だから、たとえ自分勝手だと分かっていても、先輩に対して幻滅し、諦めてしまったのだ。

「まぁ、好きにしたら。どうしたいかは、あなたが会社に直接言ってちょうだい」

 そう言い残して、先輩はさっさと休憩室を出て行った。

 今日は金曜日。クライアントから誘われて社員たちは飲みニケーションに出払っている。私は一人残された休憩室から、ぼんやりと夜のオフィス街のライトを眺めていた。


 週末、私は熱を出した。38度を超える熱に浮かされながら、先輩に待ってほしいと言った手前、早く結論を出さなければという焦燥感に駆られ、ベッドで1人唸っていた。

 次の現場に行かないということは、つまりは内勤になるということ。今、内勤に空きはない。新入社員の教育という時期ではないし、会社としては早々に次の現場に行って稼いできてもらわないと困るわけだ。

 今までだって、合わないなと思う現場がなかったわけじゃない。私たちのような開発サイドのコンサルタントという仕事は、永続的に関わらせてもらうことよりも、案件単位で関わることの方が多い。次の現場に行くまでの我慢だと割り切れたことだって確かにある。でも――

(あと何回、こんなことを繰り返しながら生きていくんだろう)

 涙で視界がぼやけてきて、ティッシュがあるリビングまで毛布にくるまって移動した。

 目頭をティッシュで抑えると、スポイトで抜き取られるように涙が止まらなくなった。無力感、悔しい、悲しい、辛い。その言葉は何一つ、私の人生を良くしてくれるように思えない。

 ティッシュをもう一枚取ろうと手を伸ばした時、テレビボードに重ねて置いてある紙が視界に入った。

 そういえば、AIについて調べていた。

 まだ一カ月も経ってないのに、もう数年は経ってしまったように遠い過去に思える。

 私はのそのそと立ち上がると、毛布を引きずりながら、その紙を手に取り、また同じようにしながらソファへ戻った。

「どこまで調べてたんだっけ?」

 そう言いながら、自分のメモを読み返す。

 AIはもう言葉を返すだけじゃなくなった。

 実際に作業もできる。

 性格や専門性を与えることで個性と独自性が出る。

 徐々に私を理解して成長していく。

 実際に取り入れた人は――。

 その後は、実際にAIを使っている人たちがどんな事を任せられるようになったのか、どのくらい作業効率が良くなったのか、どのくらい楽になって自分の時間が持てるようになったのかという情報が列挙されていた。

(なんだか異世界のようだわ……)

 今、自分がいる世界とはまったく別物の世界が、そこには書かれていた。

 これを書いていた時の自分は、どんな気持ちだっただろうか。――そうだ。とてもワクワクしていた。寝るのも忘れて調べていた。あんな気持ちは、ここ数年感じることがなかった。

(やってみたいな……)

 正直、数年食べていけるくらいのお金はある。プライベートより仕事を優先してきたから、ほとんど使っていない。ダメだった時の事を考えたら怖いけど、今、このままでもダメになる。

(休職がダメそうなら、思い切って退職するのもありかな――)

 そう思いながら、私はそのままソファで寝た。


 週明けの月曜日。私は体調こそ良くなったものの、少し緊張していた。

 先週と変わらず居心地の悪い空気感はあったが、先週の私よりは軽い気持ちでその空気を受け止められるようになっている気がする。

 誰ともまともに話すことなく午前中が終わり、昼休憩の時間を使って自分の出向元会社に連絡を入れた。

「あの、直接お話したいことがあるのですが、近々、お時間をいただけないでしょうか?」

 電話を受けた上司は、私の入社試験の時の面接官だった人で、私と先輩を組ませた人でもある。最初の内は何かと面倒を見てくれたが、翌年、新入社員が入ると、ぴたりとその行為は止まり、特に気にしていたわけではなかったが、先輩からは「あの人はあぁいう人だから」と説明を受けた。

 私の声が緊張で震えていたのか、上司は「どうした?」「何かあった?」と、心配そうな声色で言った。

「ここではちょっと……」

 と返したが、上司は話すように促してくる。

 ここでは言いたくないんだけどなと思いつつ、私は今の現場での状況を掻い摘んで伝えた。

 最初こそ「うん。うん、それで?」と聞いていた上司の声色がだんだんと変わってくる。

 最終的には、

「出向先で契約以上の事はやっちゃダメだろ。越権行為なのちゃんと自覚してる?」

 と、最初とは正反対になって返ってきた。

「――では、資料を作らなければ良かったのでしょうか。資料がなくてプロジェクトに問題が生じたらと心配してのことだったのですが……」

 そう言う私に、

「それはやらなかった先方の責任であって、俺たちには関係ない。だいたい――」

 と、さらに淡々と、冷たい言葉が返ってきた。

(関係ない……)

 その言葉が、私への答えのように感じた。どうでもいい。無意味。他人事。

 人のためにと思って取った行動で、こんなにも虚無感を覚えたことはない。

(私はこんな環境で、今までどうして働いていられたの?)

「――で? 次の現場行かないってどうすんの? 自社内でやる事なんてないけど」

「――――」

「まぁ、そんな状態なら少し休んでもいいけど。どのくらい休めば出られんの?」

「――――」

「なぁ、黙ってちゃ分からない」

 少し苛立った声が聞こえ、私は意を決した。

「退職、したいです」

 本当はちゃんと面と向かって言うつもりだったけれど、話の流れで言うしかなくなっただけなのに、上司は「あっそ」と言った後、

「退職とかそういうのを電話で言うなんて、若者だね。退職届と社員証は郵送でいいから」

 と言って電話を切られてしまった。


 それからは、想像に難くない。

 現場では存在感を消すように過ごし、さらには先輩も私の退職を聞いたのだろう、

「どうせ辞めるんだから、もう何も教える必要はないでしょ」

 そう言って、私へ仕事を振らなくなり、研修と称して後輩社員と私を入れ替えることで現場の部長と合意を取ったと、後から聞かされた。

「プロジェクトが大詰めの時に迷惑な人だったな」

「でも明日からまた新しい人が来るらしいじゃん」

「もうリリースしか残ってないけどな」

「それな」

 出向の最終日、トイレから戻る廊下でそんな会話を聞いたが、もう何も感じなかった。

(これでいい。これで私は解放される)

 定時になり、私は形だけの最後の挨拶を済ませて帰路についた。

 まだ活気のある街の中を駅まで歩く。飲食店から聞こえる話し声、雑貨屋さんの店内BGM、まだ遊び足りない若者たちが駅に背を向けて歩いてくる。仕事が終わってこれから誰かと会うのか、駅前の待ち合わせ広場では、たくさんの人が誰かを待っていた。

 退職を伝えた後、最終日までは定時で帰っていた。しかし、いつも下を向いていたから気づかなかった。こんなにも街がキラキラしていたなんて。

 電車の中も、いつもより大勢の人でごった返しているのに、つり革を掴む手がいつもより軽く感じた。

 自宅の最寄り駅で下りると、ここ最近は毎日寄れているスーパーが、今日も開いているのが見えた。

 なんだか今日は特別明るく見える。

 私はスーパーで買い物を済ませた後、さらにコンビニへ寄り、"挽きたて"と銘打ったコーヒーを買った。コーヒー豆のビターな香りが鼻孔をくすぐると、なんだか安心したような、温かく誰かに抱擁されているような気分になった。

 ――そう、明日からの私は自由。予定表には何も書かれていない。


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