23歳
時間軸、現代に戻りました。
目が覚めた時、日名子は自分のベッドの上にいた。
隣の部屋から声が聞こえてくる。重たい頭を起こしてそちらを覗けば、魁人が誰かと電話で話していた。
「とりあえず安静にしておけばいい?ああ、大丈夫。そこのところはよくわかってるから」
穏やかな表情は電話の相手と相当親しい事を示している。
誰だろう、とまだハッキリしない頭で思う。けれど、それすらも本当はどうでもよかった。
『許さない。私の子供を死なせた君が、他の男の子を産むなど…私は許さない』
『君には、償いをしてもらう』
意識を失う前、再会した秀史の言葉を思い出す。胸が締め付けられるように痛い。そして、理不尽な言葉に忘れていた怒りが蘇る。
「何が―――償い…!」
確かに、自分はあの時エリの悪意から我が子を守れなかった。その事を後悔しなかった日はないし、今でも思い出せば泣きたくなるほど苦しくなる。
けれど、その事を秀史に責められる筋合いはない。彼に対してほんの僅か―――小指の爪ほどの責任はあるかもしれないが、ならば自分はどうだったのかと逆に問いたい。
仕事と言って碌に家に居もせず、検診にも付き合わない。子どもの養育は母に任せると言い切り、自分の要望ばかりを通して妻の意見など聞きもしなかった。
挙句の果てに、妻を突き落とした女の嘘を信じ日名子を責めるような碌でなしだ。
どこを取って見ても、日名子が責められる謂れなどありはしないだろう。考えただけで腹が立つ。
でも――――
「あんな風に言うって事は、少しは愛してくれてたのかな…あの子の事」
再びベッドの上に横になりながら、日名子はポツリと呟いた。
あまり話題にもさせてもらえず、手を退けつづけられていた秀史との子。まるで受けいれてもらえていなかったようなあの子の死に、秀史があんなに怒るとは予想外だった。
少しでも、愛されていたのだろうか。
誠に不本意ながら、それは日名子にとって嬉しい事だった。少しだけでも、産んであげられなかったあの子が報われる気がする。そして、惨めで哀しかったあの頃の自分も、認めてもらえるような気がした。
愛していた、あの子の事も、秀史の事も。心の底から愛していた。だからこそあの結末は哀しすぎた。
今なおあの過去から逃れきれていない。まるで氷漬けされたかのように、あの頃の苦しみは閉じ込められたまま。それでも、少しずつ自分は前進しているのだと思いたい。
だから、今度はけして秀史に屈してなるものか。日名子は決意を新たにする。
「日名子さん、起きた?」
いつの間に電話が終わったのか、魁人が隣の部屋から顔を出す。
栗色の柔らかなくせ毛。背が高くて体つきもガッシリした方で、男らしい容貌だが目元が彼の気性の優しさを示している。父親が外国の人らしく、彫が深い整った顔立ちをしていた。
魁人は大きな手で日名子の前髪を払い表情を覗きこむ。まるで幼子にするような仕種だが、それが妙に心地よくて日名子はされるがままにする。
「…身体は大丈夫そうだね」
「ごめんね、心配かけて」
小さく謝ると、彼はふわりと笑んで首を振る。年下だというのに、甘えてばかりの自分が恥ずかしい。
「雑炊作ったんだけど、食べるでしょ?」
「うん、欲しいかも。でも、雑炊なんてまるで病人みたいね。身体は元気なのに」
苦笑しながら日名子は言う。
確かに自分があの時倒れたところだけを見れば病人扱いされても仕方がない。けれど、それは精神的なものだけで、身体としては至って元気なのだ。
けれど、魁人はあっさりと告げた。
「精神的にキツイ事があったら、身体は元気でもがっつりなんて食べられないでしょ。でも、何か口にしないともっと元気がなくなる。だから、病人食でいいんだよ」
サラリとそう言う魁人を驚きながら日名子は見つめる。
「母さんの受け売り。無理して食べる必要はないけど、食べられるなら何か口にした方がいいって。『胃と心に優しいモノを作ってあげなさい』て今言われてきたとこ」
どうやら先ほどの電話の相手は母親らしい。魁人は両親を尊敬しているらしく、端々でこうやって両親の言葉が出てくる。
愛されて育った事がよくわかる青年だ。早くに家族を亡くした日名子としては羨ましく、そして少し妬ましい。
「それで、雑炊?」
「そう、愛情たっぷりのね。日名子さんが好きなとろとろ卵もちゃんと入ってる」
気を楽にするようにお茶目に魁人が笑う。
「ありがとう。魁人の料理なら病人食でも絶対おいしいわね」
魁人の料理の腕は絶賛すべきもので、女として日名子が負けるくらいうまい。店でも開けそうな腕前だ。
予想通り、受け取った雑炊はほっぺが落ちそうなほどのおいしさで、自然と疲れた心まで癒してくれそうだ。思わず顔が綻ぶ。
そんな日名子を、魁人は嬉しそうに見つめていた。こんな表情をしていると、彼がまだ社会人になりたてのまだ若い青年なのだという事を思い起こさせる。
23歳…か。
日名子が流産し、秀史と離婚したのと同じ年だ。全てに絶望して、再スタートした年でもある。
生きていくだけで必死だった。
精神的にも身体的にも安定とはほど遠くて、何度死のうと思ったかしれない。
その度に、母の事、写真でしか知らない父の事を考えた。生まれる事のできなかった我が子の事を思った。離婚直後はいつ死んでもいいと思っていたが、時を経るにつれ、死ぬ事だけはできないと思うようになった。
たとえ数カ月お腹の中にいただけであっても、自分は確実にあの子の母親であった。そして一度母としての気持ちを知れば、我が子が死ぬという事が親にとってどういう事かわかり命を粗末にできなくなった。力の限り生きなければならないと…心の底からそう思う。
ただ、目の前の青年を見ていると、あまりに自分たちの23歳が両極に位置している事を感じてしまって、なんだか少しだけ切なくなった。
過去編が終わり、現代に移りました。
といっても、物語が進行するのは次話くらいからでしょうか。
できるだけ早く投稿できるよう頑張ります。
読んでくださってありがろうございました。