破滅
いつもより長めです。
日に日に少しずつ大きくなっていくお腹が愛おしい。
姑と親族に受け入れられず、なじむ事もできない屋敷の中で、愛する人との結晶だけが日名子にとっての希望であった。
そう、どんなに理不尽な状況に晒されようと、話を聞いてもらえなかろうと、日名子は秀史を愛していた。
「日名子」
「秀史さん」
「こんなところで寝ていたのか。風邪を引く」
珍しく早く帰ってきた秀史が、ソファーで眠る日名子に膝かけをかけながら告げてくれる。
「ありがとう。お帰りなさい。あのね、今日病院で、腹部エコーの写真をもらってきたの」
「超音波写真というヤツか…いい、後で見せてもらう」
知らず深いため息を吐く秀史を見て、日名子は哀しみに目を細める。
責任からの結婚とはいえ、お腹の子の様子を話しても嬉しそうではない。どういう風に育てたいという話はするが、たまに日名子のお腹に手があたるとハッとしたようにすぐ手を退けていた。
そんな姿はとてもとても哀しかったけれど、日名子は秀史を信じていた。
秀史は、傲慢に見えても本当は優しい人だ。きっといつか、この子の事を受け入れてくれるに違いない。
それは、もう少しで安定期に入る、そんな時期の頃だった。
「秀史!」
相変わらずエリは週に3回は屋敷を訪れ、秀史の名を呼んでは少しでも彼を独占しようとする。けれどそんな彼女が、ある日廊下の隅で泣いているのを日名子は見てしまった。
哀しみに顔を歪め、堪えようとする涙も重力に耐えきれず零れおちる。噛みしめた唇の震えも、握る両手の白さも、彼女が本気で泣いている事を示している。
衝撃的だった。
エリのように誇り高い女性が、こんないつ人に見られてもいいところで泣くとは思わなかったし、それ以前にこんな必死で何かに耐えるような泣き方をするとは思っていなかった。否、むしろ誰よりプライドの高いエリに相応しい泣き方だったから、日名子にはこれが本気なのだとわかってしまったのだ。
エリのような女性を本気で泣かせる原因は何だろう。そういえば、今朝秀史が彼女に何かを言っていた気がする。何か関係があるのだろうか。
いずれにせよ気まずくて、昇ってきた階段を降りようと踵を返そうとした瞬間に呼び止められた。
「待ちなさないよ」
振り返れば、エリが真っ赤な目でこちらを睨んでいる。
「黙って行くなんて、本当に根性が悪い女ね」
「…ごめんなさい。でも、私では慰めにならないと思って…」
それは限りなく事実で、エリが日名子に慰めを求めるとも思えなかったし、今は一人になりたいだろうという配慮もあった。しかし、エリは日名子にそうされた事が気に食わなかったようだ。
「はんっ!秀史の奥さまはお優しい事!そうよ!あんたなんか全然慰めになんかならないわ、この疫病神!!」
怒鳴られて眉を顰める。色々な事を言われてきてだいぶ耐性も付いているが、未だに悪意のある言葉を受けるのは気持ちがよくない。
でも、いつも以上にこれがエリの唯の八つ当たりだという事もわかっていた。
気持ちを落ち着けるために一つ深呼吸をする。けれど、不機嫌な女王様にはこんな動作一つでさえ発火装置だった。
「余裕ぶった顔をして本当にムカつく!子供ができたから結婚してもらったお情けの妻のくせに!」
そんな事は重々わかっている。
言い返してやろうかと思ったが、自分で認めたくなかったし、他人に付きつけられるとまたいつもと違った痛みが襲う。
哀しげに目を伏せて、日名子は黙って嵐が過ぎるのを待った。
けれど、嵐は過ぎ去る事を許してくれなかった。
「あんたが憎い!あんたが許せない!あんたなんか死んでしまえばいい!!」
エリは日名子に詰め寄りながら叫ぶ。そして叫んだ後、しばらく考え込むようにしていたかと思うと…ふと真顔になった。
「……そうよ。あんたが死ねばいいのよ」
その表情を見て日名子はゾッとした。
狂っている。
逃げなければいけない。
―――――思った瞬間には遅かった。
「…………っ!?」
一瞬身体が宙を浮く。視界が暗転して、全身に痛みが走った。不定期に自分の体が叩きつけられる。そういえばここは階段であった。
お腹が痛い。
何かが下から流れていく感触がする。
助けて―――助けて、秀史さん……助けて……!
切に願う声は届かない。
滑り落ちていく意識の中で、エリの歪んだ笑顔だけがハッキリと形を残していた。
目が覚めた時、日名子は白い壁に囲まれた病室にいた。
全身の痛みに耐えながらお腹に手をあてる。
誰から何を言われる前に、自分の中に宿っていた希望がなくなっている事に気が付いていた。
「日名子…目が覚めたのか」
どうやらここは個室のようだ。人の気配に日名子が顔を動かすと、医者と秀史、それから曜子とエリが病室に入ってくるところだった。
「気分は悪くありませんか?」
悪くないわけがない。
心の中で吐き捨てるように呟く。
最悪な思いで医者の診察を一通り受けると、病室には家の者だけが残された。
重たい、重たい沈黙の後で、秀史が口を開く。
「踵の高い靴を履いていたそうだな」
「……は?」
思いもよらない言葉を言われ、日名子は唖然として夫を見る。苦しそうな夫の向こうで、曜子はしかめ面をし、エリは何故か得意げな顔で笑っていた。
「『階段には気をつけて』って言ったのに、たまにはお洒落をしたいからってハイヒールなんか履くからいけなかったのよ」
訝しげに眉を顰める日名子に、エリは告げる。いかにも『残念だった』という嘘の仮面を纏って。
「何を言って…私は、ハイヒールなんて履いていないわ」
妊娠がわかってからというもの、日名子は常にローパンプスを履いていた。それは秀史や曜子も知っているはずなのに、何故そんな結論になるのだろう。
「嘘を吐いても無駄だ。君が倒れていた時履いていたのは、ハイヒールだと、家の人間みなが見ている」
「…っ!?」
秀史からは見えないところで、エリの表情が更に醜く歪む。
「なんて軽率な…君は一体何を考えていたんだ…」
怒りを絞り出すような秀史の言葉に、日名子は何を言っても無駄なのだと知った。
絶望が身体全体を包む。
エリに突き落とされ、何より大切であった我が子を失い。
そして彼女が築き上げた嘘を夫は信じ、自分の言葉には耳を貸そうともしない。
虚ろな瞳から涙が零れおちる。
そんな日名子に何を感じたのか、秀史は怒りを押し殺したまま、黙って病室の外に出て行った。エリがそれを追う。出る直前に振り返った顔は、優越感に満ちていた。
曜子だけがまだ黙って病室にいた。室内には再び沈黙が落ちる。
やがて、曜子がおずおずと口を開いた。
「……日名子さん…」
「離婚届をください」
曜子の言葉を遮って、日名子は言った。けして曜子の方は見ない。光を失った瞳で窓の外を見て、お腹に手をあてたまま、日名子は告げる。
もう、終わりにしよう。
終わりにしたい――――何もかも。
「離婚させていただきます。お義母さま…いえ、曜子さまも秀史さんもそれをお望みでしょう?」
ぎこちなく首を動かして、曜子を見る。曜子は、日名子の表情を見て何故か息を呑んだ。歪められた眉は日名子に対しての嫌悪感だろうか。でも、今まで向けられたものとは少し質が違うように思える。
でも、それも日名子にはどうでもよい事だった。
心の中に渦巻くのは、絶望と――――怒り。
自分の気持ちを優先させ、けして人道的でない方法でもって自分から我が子を奪ったエリ。
日名子という存在を受け入れず、自分の居場所と存在意義を認めてくれなかった曜子。
責任から結婚を申し込み、我が子を顧みず、そのくせ自分を責めた秀史。
そして…我が子を守れなかった、自分。
全てのものに怒れて、どうにでもなってしまえばよいと思う。ドロドロになって醜く澱んだ心は自分でも制御ができない。
だから―――全てを終わらせる。
「終わりにしましょう、全部」
日名子がそれを告げてもなお、曜子は何故か病室に佇んだままであった。
そして翌日。
曜子が持ってきた離婚届に記入をして、日名子は病院から姿を消した。
…と、いうわけで過去編はひとまず(え)終了です。
誤字脱字などあったら報告お願いします。