日名子の現状
「本庄くん」
名前を呼ばれ日名子は噛り付いていたデスクから顔をあげた。恰幅のよい、50代半ばの部長がにこにこ顔で立っている。
対する日名子は、ここ数日の残業で憔悴した顔をしている。流石に三十路となると、夜更かしも体に堪える。
「なんですか?花木部長」
「うん、ちょっといい話だ」
一遍変わらぬにこにこ顔で告げられる。日名子は「はぁ」と生返事をした。花木は常日頃からにこにこしていて、叱責もそのにこにこ顔で行うので、表情からはいまいち話の内容が想像しにくい。
「疑わなくていいよ。本当にいい話だから。この間言っていた新しい雑誌の副編集長にね、どうやら君が決まりそうなんだ」
「…本当ですか!?」
その雑誌は、働く女性を対象としたもので、日名子は企画の段階から深くかかわっていた。
思わず椅子から立ち上がると、花木はその相貌をますますにこやかにして、けれどしっかり釘をさす。
「今はまだ内々の話だけれど、ほぼ決定だと思うよ。我が社は比較的女性でも重職に付きやすいけれど、30で副編集長というのはなかなかない。大変だと思うが期待もしているよ」
「はい!それはもちろん!それで、あの…編集長はやっぱり…?」
「原科くんでいこうと言っている」
自分より一回り年上の、けれど尊敬する先輩女子の名を聞いて、日名子はますます瞳を輝かせた。雑誌の企画は、彼女から誘われて行ったことだ。その成果が出て創刊させてもらう事になり、一緒に同じ雑誌を作っていけるという事に日名子は嬉しさを隠せない。
「ちょ、ちょっと原科さんに挨拶してきます!」
いそいそと支度をする日名子を、花木が苦笑してみている。
「まったく…本当に仕事が好きで仕方がないって感じだね、本庄くんは」
悪気のないその言葉が、一瞬日名子の心に傷をつける。
『仕事が好きで仕方がない』んじゃない。
ただ――――…
自嘲的な笑いを胸に秘めて、日名子は部長に一礼するとその場を立ち去った。
「これから忙しくなるわよ~。よろしくね、ひなちゃん」
「こちらこそ。玲佳さんと一緒に仕事できるの、嬉しいです」
カチンとグラスを合わせて、微笑みあう。原科玲佳は、とても40代に見えないスタイリッシュで魅力的な女性だ。雑誌の企画を始めて以来仲良くなり、日名子とはよく一緒に飲みに行くようになった。
そのため、お互いのプライベートもそれなりに知っている。
「でも、大丈夫かしら。私はともかく、忙しくなって、年下の彼氏怒ったり拗ねたりしない?」
年下男は甘えん坊でしょ~。と冗談交じりに言われ、日名子はここ2年付き合っている彼氏の姿を思い出す。残念ながら、玲子の想像とは全く噛み合わなかった。
「…むしろ、喜ぶ気がします。忙しくなれば、それだけ私の世話し甲斐があるって」
彼氏である魁人は、極度の世話やきだ。7歳も年下であるにも関わらず、時に日名子の兄のようにふるまい、家事やら健康面の管理やらに気をつかってくれる。お陰さまでここ2年、日名子は大きく体調を崩した事はない。
「あー…そういえばそういう子だっけ、彼氏くん。そういやそうだった。意外に思った覚えがあるもの私」
手にしたギムレットをグイっと飲みほし、お代わりを頼みながら玲佳が言った。
「意外…ですか?」
「そうそう、だってひなちゃんって、どちらかというと『尽くされたい』んじゃなくて『尽くしたい』タイプじゃない?私や他のスタッフとの仕事ぶりを見ていてもそう思うのよね。それなのに、彼氏にはやたら『尽くされ』てるから、あれ~?て思ったのよ」
鋭いな…と内心苦笑しながら、日名子は自分のスクリュードライバーに口をつける。
そう、玲佳の言っている事は正しい。
日名子はもともと人に何かをしてあげるのが好きなタイプだし、恋愛においても玲佳の言う通り『尽くしてあげたい』タイプに近い。玲佳には言っていないが、昔、短い結婚生活を送った相手には身も心も捧げて尽くしていた。それが何よりも幸せだった。
けれどそんな結婚生活に失敗して、しばらく恋愛を避けて…今はこうやって『尽くされる』恋愛に落ち着いたというわけだ。
正直、あの結婚生活は思い出すのも辛い。自分ばかりが尽くしていたという事だけが離婚の原因ではないが、それでもあそこまで全てを捧げていなければ、もう少し違った結末があったのではないかと思う。
魁人との恋愛は楽だ。生来の性分で、自分が尽くしていない事にどこか物足りないものを感じる事もあるけれど、魁人はそんな日名子の事もわかってくれている。温かい陽だまりのような人物だ。
“あの人”とは、まるで違う―――――
魁人が陽だまりなら、“あの人”はまるで氷の彫像だった。
冷たくて、でもひどく魅力的で。触ったとたんピタリと手が吸いついてしまうような…けれど冷たい人。そして美しい人。その吸引力に魅せられた。
ああ、思い出すだけで、どうしてこんなに胸が痛むのだろう…
「ひなちゃん?大丈夫?」
「え…?あ、はい。すみません」
思わず物思いにふけってしまっていた日名子を、玲佳の声が呼び戻す。
「ちょっと、昔の事を思い出していました」
「な~に、それ。意味深だなぁ~」
好奇心に輝く玲佳を曖昧な笑みで誤魔化した時、ふと店の入り口にいる新しい客に目が行った。
「――――――――…っ!?」
息をのむ。
心臓は倍の速さで鼓動を刻む。
冷や汗がこめかみにじわりと浮かぶ。
これは過去の残像の続きか、それとも現実か。
言葉を失くしてその男を見つめる。
逞しい腕に美女を纏わせたその人こそ、日名子が思い出したくもない結婚生活を送った元夫―――三笠秀史であった。