葛藤
『…思ったよりも、早かったな』
電話口で聞いた声は、相変わらず低くて威圧感がある。ただ言葉通りの驚きが含まれていた事が珍しくて、日名子は思わずフッと笑った。
そんな彼女の態度に何を察したのか、秀史が問うてきた。
『もしかして、S社が動いたのか?』
流石は株主と言えばいいのか、どこまでも嫌味な男だ。日名子はそれには答えずに簡潔に秀史に尋ねる。
「ねえ、貴方が動けば、買収の件はなくなるのかしら?」
無駄な会話をする気は一切ない。欲しいのは、「Yes」か「No」かただそれだけだ。
日名子の声に、秀史はおおよその事情を察したのだろう。しばらく沈黙した後、ややからかうような声が返ってきた。
『なくなると言えば、君は私のものになると…そういうわけか?“償い”なのに、更に条件を求めるとは厚かましいね』
「会社がなくなれば、貴方が差し出した条件は根本から成り立たなくなるわ」
条件を変更せざる得ない状況だという事を念押しした上で、日名子は今までで一番確固たる口調で問う。
「もう一度聞くわ。貴方に私を差し出せば、買収はなくなるの?」
切実な日名子の口調に、秀史も揶揄するのをやめる。
重たい沈黙が走る。
『…それが、君の望みならば』
静かに、秀史が言葉を発した。
『それで君が手に入るのならば、この魂の全てを売り渡してでも買収を止めてみせると約束しよう』
思いがけない言葉に、日名子は自分で望んだ条件ながらつかの間思考を止めた。
言葉の裏に、隠しきれない熱情に似た想いを感じとって息を飲む。
「……冗談にしては、性質が悪いわ」
『冗談などであるものか』
熱っぽい言葉に喉が渇く。渇いた唇を舌で舐めた。
その場の雰囲気に流されたくなくて、日名子は彼の言葉の衝撃を緩衝できる要素を探す。
「貴方が欲しいのは、私の“償い”と、その証となる子どもなんでしょう?」
そう、彼が欲しいのは“償い”であって自分ではないはずだ。かつてのように―――愛されたいと期待してはならない。
『…そうだな。確かに、私は君の“償い”が欲しい。子どもはもとよりね。ただ、そのためには君が私のものになる事が必須条件だろう?』
「それは…」
秀史は間違った事を言っているわけではない。けれどどうしてか、その言葉が日名子に戸惑いを与える。
『だから、今君のベッドを温めている若造とも別れてもらう。私が欲しいのは唯の子どもではない。確実に“自分の”子どもといえる存在だからね』
唐突に言われた台詞に、日名子はカッとなった。それは、日名子に対する侮辱に他ならない。
「私が貴方の提案を飲んだ後で浮気をするとでも!?私はそんな女じゃなないし、まして貴方に不誠実だと責められる謂れはないわ!馬鹿にしないで!!」
共に過ごした7年前、誰より彼に献身的に愛を捧げていたのだ。
それは彼も感じていたのだろう。怒声を浴びせた日名子の向こう、電話越しで秀史が黙りこむ。
『……そうだな。君は自虐的なほどに献身的な女性だった…今はどうかは知らないが』
「まだ言うつもり!?」
『そうじゃない。そうじゃないが…私は君を他の誰とも共有するつもりはないんだ。早急に今の男とは別れてもらう』
「いい加減にして!それに、私はまだ貴方の提案を飲むと断言したわけではないわ!!」
『じゃあ、他に何かいい案があるとでも?…会社を救いたいんだろう?』
「それは……っ」
絶句した日名子に、秀史はフンっと笑う。それがどうしようもなく悔しくて、日名子は唇を噛みしめた。
やはり、この男に温情を期待するのは間違っているのだろう。
一瞬でも胸をときめかせた自分の愚かさが嘆かわしい。熱情などという、ありもしない想いを感じてしまった自分があまりに惨めだ。
もう一度、そんな男のものになるの……?
「お願い……もう少し、考えさせて…」
掠れた、かろうじて聞き取れるほどの小さな声でそう呟くと、日名子は携帯電話を切った。
嫌味なほど青い、突き抜けるように高い空を仰ぎながら、日名子は手を握りしめる。くしゃりと、手の中にあった硬質の髪が潰れた。
気分転換になるかと思って近所の公園に出てきたけれど、気分転換どころかますます気分は沈むばかりだ。
彼に援助してもらう以外に、何か方法がないのか。考えても日名子にはいい案は浮かばない。
先ほどの電話での花木の声が思い出される。
共に新しい雑誌を作り上げようと言った玲佳の笑顔が心に浮かぶ。
秀史の提案を飲めば―――あの人たちが救われる。
けれど、その代償に求められるものは他ならぬ日名子自身。それも、あの電話での会話を思う限りでは、秀史は結婚したら日名子を自由にさせる気はないだろう。
何が、彼をあそこまで日名子に執着させるのだろう。
自分はどうすればいいのだろう………
選ぶべき道はどれなのか。まるでこの空のようにどこまでも果てが見えなくて、日名子は途方に暮れる。
玲佳にも、まして魁人にも相談できない。
そして彼らを除けば、別れてから仕事一筋で生きてきた自分には頼れる相手がいなかった。
「お母さん…」
思わず、もう10年以上前に亡くした母を呼ぶ。
母がいれば、自分に何かアドバイスをしてくれたのかもしれない。いつだって誰より仲が良く信頼できる人だった。けれど、現実問題自分は独りだ。
ほろほろと涙が止まらなくなる。最近の自分は涙腺が壊れたようだ。この7年間を経て、滅多な事では泣かなくなったはずなのに、未だに秀史と彼との過去は日名子をあっという間に涙の海に溺れさせる。
「お母さん……」
もう一度母の名を呼んで俯いた。
孤独だった。
どれだけそうしていただろう。
ふと自分の前に誰かが立っているのを感じて、日名子はふと顔を上げた。
「大丈夫ですか?」
視線の先では、品のよさそうな女性が日名子を気遣わしげに覗きこんでいた。
秀史が何をしたいのか、彼の言動の不安定さに日名子と作者が悩まされてます(爆)
日名子ちゃんは葛藤中。以外に粘ってくれるので、秀史と読者様はじれじれでイライラしているかもしれません。申し訳ありません(汗)
そして最後に新キャラ登場です。
これで大体全員そろったかな?