六月の彗星
平日の昼下がり。新宿へ向う電車は、意外に人が多かった。梅雨の晴れ間で天気が良い。
窓にはうっすらと自分の姿も映っている。生成りのシャツに藍色の上着。黒縁の眼鏡は伊達眼鏡だ。一見すると真面目な、ちょっとやぼったくも見える小娘といった感じ。
純にとっては、仕事のときの、変な言い方だが役作りのようなものだった。
今向かっている先は、秋津総合警備保障という、警備会社だ。とはいっても、純の仕事は制服を着て警備する、警備員ではない。
純の雇用形態は、社員ではなく、業務委託という形になっていた。出勤時間が決まっているような勤務形態でもなく、依頼がきてその都度仕事を行うという形式で、仕事先も様々だった。純の他にも数名同じような委託社員はいるようだったが、会社に席があるわけでもなく、一緒に仕事をしたことも無かった。
所属としては、特務課という名前になっていて、いわば社内の雑用を引き受けている部署と言えた。あまり関わることも無いが、他の部署の正社員からは、安定性も無いお気楽な仕事を引き受けている、言わば、『アリとキリギリス』のキリギリスみたいな連中だと誰かが言ったことが受けたのか、陰では特務課の事をキリギリス課と読んでいるようだった。
前職からこの仕事へ転職して、実際にやった仕事というのが、結構お年を召した有閑マダムの話し相手。なにやら、元華族だとかなんだとかの名家の人で、遺産にかかわる面倒事があって、身辺警護ということらしかった。かなり我儘な人で、何人も担当者が代わっているという話だった。何故だか純はそのマダムに気に入られて、仕事とは別に小遣いまでもらったりしていた。
それに関しては報告したが、お金のことは自分で処理するように(税務申告などは自己責任、ということ?)、とのことだった。委託の社員ということもあるのだろう。
JRの市ヶ谷駅を出て、交差点を横切り、右に折れて通りの奥に歩いていくと、十一階建ての白い地味なビルが見えてくる。
スマートフォンを取り出してメールをもう一度見た。確認するまでも無いような簡単なメッセージ。
”14時に本社7階A1会議室”
秋津総合警備保障、と彫りこまれた花崗岩の横を通りすぎて、正面玄関からエレベーターホールに向かう。
社員証を駅の改札のようなゲートにかざして通り過ぎる。エレベーターで七階に着いた。エレベーターの向かいは窓で、左手にある廊下の方から会議室へ向かう。ドアにはめ込まれたプレートを見ていく、A1はエレベーターを降りて左手廊下の最初のドアに嵌め込まれていた。
「失礼します」
ノックをしてから中に入る。誰もいない。テーブルに椅子が八脚。ドアの向かいの壁に大きなモニター。上に時計があって、十三時五十五分を指していた。
純は、一番手前の、ドアのすぐ側の椅子に座った。バッグをどうしようかと思ったが、椅子の横の床に置いた。バッグからスマートフォンを取り出して眺めていると、ガチャリとドアが開いた。
「時間通りだな」
クルーカットの厳つい男が入るなり、純にそう言った。純の上司にあたる、田川兵衛という時代がかった名前の男だった。手に持ったタンブラーからコーヒーの匂いがした。
「今日は何でしょうか?」
「その眼鏡、度は入ってないのか?」
「はい?」
純は両手で眼鏡のつるを掴んでちょっと外してレンズを見ると、また架けなおした。
「まあ、いい」
と、田川。いいのか、と心の中で思ったが純は声には出さなかった。
「今回は、雑誌の取材ということで、人に会って話しを聞いてきてくれ。危険なことも無いだろうし、難しくもないだろう」
「雑誌の取材?」
「ああ。これから出す予定の科学情報誌の取材だ」
「雑誌の取材って、私は、そういうことをしたことは無いんですけど……」
雑誌の取材とは。警備員らしい仕事もろくにしたことも無いのに。
「そう難しく考えなくてもいい。雑誌の取材として、ある人物に会うだけでも良い仕事だ」
田川は簡単そうに言う。
「出る予定の雑誌の取材って態で、人に会えば良いってことでしょうか?」
「そうだ」
田川はテーブルの脇に置いてあった鞄からA4サイズの茶封筒を取り出した。中からクリップで写真を留めてある書類を取り出して、純の前に置いた。
「会う相手は、元国立電算機研究所の所員、五月女百合子。旧姓は、埴科。現在、都内の衛生研究所の職員だ。生体コンピュータの権威だった、五月女四郎博士の妻だ」
「権威だった?」
「五月女博士は十年前に亡くなっている」
純は書類を眺めていたが、もう一つクリップで写真を留められた資料があった。
「この女の子は、博士の娘ですか?」
セーラー服を着た少女の写真。友人と歩いているところを盗撮でもされたようだった。
「五月女遼子、十五歳。資料にある通りだ。五月女博士は再婚で、前妻との間にも娘が一人いたが、二十年前、高校生の時に事故死している。前妻はその二年後に病死。研究所で助手を務めていた埴科百合子とその後に再婚している。詳しいことはその資料に全て書いてある」
純は、写真を眺めた。亡くなった科学者の妻とその娘。今更会って、どんな取材をするというのか。
「それで、私は何を聞きに行けばいいんでしょうか?」
「五月女博士が関わっていた、サン・グレーザー計画という宇宙探査計画についてだ。
当時、助手として五月女百合子も一緒に仕事をしている。サン・グレイザー計画について取材していると言えばいい」
「それだと、娘さんのことだとか、特に必要ないんじゃないでしょうか? 資料を揃えただけかもしれないですけど」
「五月女百合子が取材を拒否した場合、娘に会って話をすれば、それだけでもいい」
「どういうことですか?」
ちょっと胡散臭い話だった。
「出来れば、詳しい話を聞かせてもらえないでしょうか?」
純は拒否されるかどうか、半々といった気持ちで田川の顔を見た。
「理由か。説明すると、長くなるぞ?」
「サン・グレーザー計画、というものを知っているか?」 田川が純に質問した。
「いいえ。宇宙探査って、太陽が何か関係あるんでしょうか?」
「直接ではないがな。二十年前に、彗星に探査機を送り込む計画があった。彗星は太陽を掠めるような放物線軌道で、探査機は彗星に乗ったまま、太陽系を離れていくという、宇宙探査計画だった」
田川は言葉を切るとコーヒーを一口飲んだ。
「探査機は彗星自体の観測、太陽に近づいた場合の太陽の観測の他に、彗星に乗って太陽系を脱出する太陽系外の探査という目的もあった。彗星への探査機の着地は上手く行ったが、太陽に最接近した時に彗星自体が分裂し、探査機も行方不明になった。当時それで計画は打ち切られて、世間からも忘れ去られた」
田川が言い終わっても、純はメモを取り終えていなかった。
「ええっと、もう打ち切られた計画なんですよね。今更、このことを取材しにいくんですか?」
田川が茶封筒から名刺ほどの大きさの紙片をとりだして、純に渡した。
「何ですか?」
紙の中央に、アルファベットでWATASHIHAKOKONIMAS、と書かれていた。
「ん? ワタシハココニイマス?」
純は、ローマ字読みで読めることに気がついた。
「二十年前に、サン・グレーザー計画で使われた電波天文台が、最近になって地球に向けて発信されている電波信号をキャッチして、一時、騒ぎになりかかったが、行方不明になった探査機からのものだと判った。その信号はアルファベットに変換できたが、それがその紙に書かれているものだ」
「どういうことなんでしょうか?」
「さあな。俺も知らん」
純は眉を顰めて田川を見つめた。
「私はこの紙を持っていって、五月女百合子って人に、これはどういう意味ですか? って聞けばいいんでしょうか?」
「それも有りかもしれん」
「ええ……」
困惑した顔の純を見つめて、田川は声を出さずに笑った。
「すまん。俺も何も詳しいことは知らされていないんだ。君にサン・グレーザー計画について五月女百合子に取材させること。或いはサン・グレーザー計画について取材しているものがいると意図が伝わればいい。
娘に接触出来れば、娘から五月女百合子に伝えるようにすることが望ましい、これだけだ」
「意図が伝わればいい? 取材出来なくても?」
「そうだ。上からはそれだけ指令があった。どうする? 不安ならこの件は断っても構わないそうだが?」
断っても構わない。今のところ、それで純が断ったことも無かった。
「わかりました。何時から取り掛かればいいでしょうか? 期限は何時まで?」
実のところ、純は紙片を貰ってから、少しこの件に興味も湧いてきていた。
「今から取り掛かっても構わない。期限はとりあえず今月末までだ。何かあったら俺に連絡してくれ」
「分かりました」
「ああ、それから」
立ち上がろうとする純を田川が呼び止めた。
「言うまでもないが、この件で知りえた情報は他人に口外しない事。資料も残さず、終ったら忘れることだ。いいね?」
純の心を見透かすように田川は言った。
「はい。それは良くわかってます」
面白そうだ、と思った気持ちに水を注されたような、そんな気持ちに気付かれたことが気恥ずかしいような、そんな気持ちで純は返事を返した。
パソコンのモニターを眺めていた純は欠伸をすると、時計を見た。午前1時過ぎ。平日の深夜だったが、翌日のことを気にする仕事でもない。今日受けたの依頼のために、下調べを入念に行っていた。
ネットで調べて判ったのは、『サン・グレーザー計画』は二十年前に行われた探査計画で、欧州とアメリカに日本が加わっていた。ロケットは欧州が、探査機は日本が中心となって製作。探査機は彗星に近づく本体と、彗星に投下して着陸するプローブとからできていて、プローブの電子装置の開発は国立電算機研究所という、現在は事業の統廃合で存在しない研究所が請け負っていて、開発に五月女博士が関わっていた。探査計画がどうなったかは、田川から聞いたこととほぼ同じだった。
五月女博士については、簡単な略歴しか判らなかったが、これは田川から貰った資料に詳しく書かれていた。生体コンピュータという、人工的に作られた、人間の脳と同じようなニューロンを使ったコンピュータの研究者として有名だったらしい。生体コンピュータに関してはネットで詳しく書かれたサイトを見つけても、純にはなんのことだかさっぱり判らなかった。なんとなく、人間の脳と同じような働きをするものを有機物で人工的に作って、コンピュータとして使うんだろう、ということは判った。
純の興味を惹いたのは、生体コンピュータというところからか、そんなことをしていたのか、実際に人間の脳をコンピュータとして扱うという実験をしていた、などというマッド・サイエンティスト扱いの興味本位で書かれた個人ページが幾つかあったことだった。
それだけでは、何のために自分に仕事が与えられたのか判らない。
取材できるだけで良いとはどういうことなのか。それに、紙片に書かれた、ワタシハココニイマス、というのはどういう意味なのか。探査機に積まれたコンピュータの救難信号なのか? 人間の脳を模しただけあって人間臭いことを言ってくるのだろうか? そんなことをつらつらと考えてみたりした。
ネットで検索したりしても、純にわかるのはこれ位のものだった。特にコンピュータにも天文関係にも詳しくもなければ興味もなかった。これでも、後は五月女百合子に取材を申し込みでもすれば、仕事としてはそれで良かった。だが、こんな誰でも調べられそうなことで取材といっても、相手にされそうもない、もっと詳しい情報が必要だ、と純は思った。その思いには、純自身の興味も入っていることは分かっていた。
とはいえ、これ以上は、誰か、そういったことに詳しい人間に聞いてみるか調べてもらう必要があった。純にそんな知り合いは殆どいない。以前、組織がらみの仕事で、情報を調べて貰った者がいて、ハッキングもお手の物というその男なら頼めば調べてもらえそうだった。
早速、依頼のメールを書いた純だったが、送信する段になってちょっと躊躇した。頼めば恐らく引き受けて貰えるだろうが、無報酬で働いてくれる訳ではない。高額の金銭を要求される訳でもなかったが。
――まあ、なんとかなるでしょ。
メールを送信し、再び資料に目を通していると、スマートフォンの着信音がした。会社から貸与されている方のスマートフォンだった。発信者は、“小満”。つい先ほどメールを送信した相手だ。
「藤田です」
『ジュンジュン、久しぶりー』
能天気な声。オネエっぽい口調。正直、純はその声が苦手だったので、メールで連絡したのだったが。
「メールの件、引き受けて貰えるんでしょうか?」
『もう、直ぐ仕事の話? 時候の挨拶とか無いの?』
「無いです。で、どうでしょうか?」
『んー。そうね。何か面白いものある?』
純は、机の引き出しを開ける。
「キャバクラで働いていた時に、テレビ局の社員て人から貰ったパズルがありますけど。魔法少女なんとかっての。非売品らしいですよ」
『あ、それいいわね。もうちょっと何か無い?』
純は引き出しを掻き回した。
「あとは、秋葉原に行ったときに貰ったやつが。潰れたメーカーの販促グッズとかで、安っぽいフィギュアがありますけど。HDコニーって書いてある」
『え、それテンガロンハットの?』
「そうですけど」
『うそ、それレアものよ。ジュンジュンすごい!!』
耳元で大声を出されて、純はスマートフォンを離した。
「じゃあ、これで引き受けてもらえるでしょうか?」
『OKよ! 何時もの所に送っといて! 何か調べて判ったら直ぐ連絡するから! じゃあねー』
通話を切って、知らず溜息が漏れた。相手をするのは疲れる男だったが、純が頼れる少ない情報源でもあった。
時計を見ると、午前2時。急に疲れと眠気を感じて、下調べはとりあえず切り上げることにした。
※ ※ ※
東京近郊の駅前の風景というのは、どこも変わり映えしない眺めだ。時折、それに変化をつけるためなのか、奇妙なオブジェが置かれていたりするが、それが却って周りの没個性的な雰囲気を引き立たせているように思える。
純は、そんなオブジェを喫茶店から眺めていた。駅からは、帰宅する高校生が出てくるところだった。部活をせず、授業が終ればそのまま帰ってくる、所謂、帰宅部という生徒たち。そのなかに、五月女百合子の娘、遼子がいた。3人で連れ立って歩いてくる。途中、二人とは手を振って分かれた。二人は道を渡って純のいる喫茶店の方へ歩いてくる。遼子はそのまま道なりに歩いていった。
純はそれを喫茶店の窓越しに横目で追って、時計を見た。午後4時15分。遼子の学校の場所から電車通学であることを調べ、帰宅時間を想定して待っていたが、ほぼ予想通りの時間だった。五月女家はここから10分ほど歩いた住宅街の一角にある、文化住宅と言われた古めかしい家だった。五月女百合子の叔父が住んでいた家で、五月女博士の死後に親子二人で移り住んだのだった。その場所は、既に調べてあった。貸し自転車に乗って、のんびり散策、という雰囲気で。
今日は下見にやって来ただけで、これから何か始めようというわけでは無かった。”小満”からの情報も今日あたり届くはずで、それを見てから対応するつもりでいた。
純はこういう風に何時も事前の準備をしてから行動することにしていた。それが何度も会社から仕事を受ける理由なのだろう。純以外にも依頼されて仕事をするものはいたが、長続きする者はあまりいないようだった。
一度、こういったことなら、正社員がそのままやれば無駄な経費など出ないし、素人を使う必要もないだろう、というようなことを純は田川に対して言ったことがある。
田川は、素人でも出来るようなことに正社員の手を煩わせることも無いからだ、と言った。それに、警備員では、相手に対してある種の威圧感を与えるため、素人っぽい委託社員の方が相手もさほど警戒しないからだとも。
そういう意味では、純は適役だということだった。人当たりの良い若い女性。特に純は童顔で柔らかな声にも特徴があって、昔から親しみやすいと言われていた。本人はそれを欠点と見做していたのだが。
外で食事も済ませ、ウインドーショッピングという訳でもなく街をぶらついてから帰宅した純は、着替えもそこそこにパソコンを起動した。パソコンのことなどよく分らなかったので、“小満”に聞いて適当な値段でそれなりの性能のものをネット注文して買ったものだった。
パソコンが起動すると、メールをチェックした。“小満”から頼んでいた『サン・グレーザー計画』に関する情報が届いていた。
早速読んでみる。わざとらしい時候の挨拶の後に、本題に入って『サン・グレーザー計画』について詳しい情報が書かれていた。
多くは、田川から貰った資料と内容は被っていたが、中には初めて知るものもあった。五月女博士は、国立電算機研究所の所員ではなく、オブザーバーとして計画に参加していたこと。博士と後に結婚する埴科百合子は教え子で前妻が存命のころから不倫関係にあったという醜聞の類。博士の主導の下、探査機に使われた生体コンピュータは、事故で亡くなった娘、瑠璃をモデルにした人工知能で、音声データを実際に瑠璃の声からサンプリングして作っていた、などというものもあった。
そして、『サン・グレーザー計画』の、表には出ていない別の側面。探査機には、計測機器の他に、嘗ての地球外探査機のように地球や人類の文化に関する資料を搭載していたとされているが、実際に載っていたのは、人間のDNA情報、具体的には、冷凍保存された精子と卵子を載せていたというのだった。それにどんな意味と目的があったのかは不明だということだった。
それから二十年経って、軌道を変えた彗星の一部が再び太陽に接近し、地球に近い軌道を通る彗星として天文関係者や一部のマニアの間で話題になっていた。その彗星には、『サン・グレーザー計画』の探査機が乗っている。探査機からは意味不明な通信が届いていたが、彗星自体は太陽に飛び込む軌道なので、探査機も一緒に消滅してしまうことだろう。
“小満”の考えでは、これら、表に出ていない部分に多くの国や国際的な企業が関与した、特殊な宇宙計画があり、五月女博士が深く関わっていた可能性が高いということだった。
――つまり、計画の内容を知ってそうな五月女百合子に黙ってて欲しいってこと。彗星と一緒に探査機が消えるように、忘れて欲しいってこと。ジュンジュンがすることって、要するに遠まわしな脅迫みたいなもんよ?――
遠まわしな脅迫、か。
純は娘に会って伝えるだけで良い、という意味がようやく分った。
純は予定通りに、下調べをした喫茶店で五月女遼子を待った。今日の純は、黒いスーツにハイヒール、メイクも多少きつめにして、眼鏡も縁無しをかけていた。
五月女百合子には、取材の件で電話したが、留守版電話に繋がっただけで、その後返事は無かった。その翌日も電話したが結果は同じ。純は、“小満”に言われた言葉が引っかかっていたが、娘の遼子に会うことにした。脅迫だとしても、純自身はべつに遼子に危害を加えるわけでもない。そう思い直して。
喫茶店のガラス窓の向こうに駅から吐き出される人込みが見えた。電車が到着したのだろう。セーラー服姿をその中に探す。連れ立って歩いてくる高校生。数人連れ立って、または一人で、次々やってくる。いた。今日は一人のようだった。純は、伝票を手にして席を立った。
外に出ると、五月女遼子を目で追った。五月女遼子は駅から続く通りから、路地に曲がっていった。やや遅れた純は早足で歩いて追いかける。純が同じ路地へ入ると、五月女遼子が若い男二人にに左右から挟まれて歩いている。親しそうな雰囲気ではない。遼子が小走りで先へ行くと男二人も追いかけて何やら言い寄っている。
ナンパか?
純は、ちょうどいいチャンスだと思った。ヒールの音が響くようにコツコツと歩いて三人の後についた。
「ちょっと、あなた達!」
少し、大きな声で純が言うと、三人とも振り返った。男二人は思ったよりも若かった。高校生かもしれなかった。
「女の子を誘うにしては、乱暴過ぎやしない?」
「誰だよ、あんた?」
「さあね。がきっぽいけど、あんたたち補導される歳? 逮捕される歳?」
「な、なんだよ補導って」
一人は見た目に可笑しいくらい動揺している。
「ただ声かけただけだろ!」
声を荒げた方も、遼子から数歩離れて先へ歩きだした。二人とも振り返りながら悪態をつきつつも去っていった。純はその姿に笑いがこみ上げてきたが、正直、ほっとしてもいた。
「あ、あの、ありがとうございます」
遼子が純に礼を言った。
「いいえ。たいしたことじゃないわ。五月女遼子さん」
「え?」
遼子は目を見開いて純を見詰めた。
「母に取材、ですか?」
遼子は、そう言って、心なしかほっとしたような顔をした。路地裏にあった、古びた喫茶店。純は遼子と差し向かいで座っていた。他に客もいない。
「そうなの。電話で何度か連絡とろうとしたんだけど。聞いてないかな?」
「いいえ」
「私は、こんど刊行されることになった科学雑誌の記事を書くことになって、あなたのお母様の関わった仕事を担当することになったの」
言いながら、純は名詞を渡した。名詞には、ラカーユ出版、エディター・夏目杏子とあった。
「あなたの家へ向う積もりだったんだけど、途中であなた達を見たものだから。私も会ってくれませんでした、じゃあ、仕事にならないんで、ちょっと迷惑かもしれないけど、お話を聞きたくて」
「はあ」
遼子は、写真で見るよりずっと可愛らしい顔立ちだった。黒目勝ちな目、髪は染めているのか地の色なのか、栗色をしていた。
「サン・グレーザー計画って、聞いたことあるかしら?」
「いいえ」
「あなたのお父様とお母様が関わっていた宇宙計画なんだけど。資料が少なくて良くわからないの」
純は遼子の顔を覗う。
「母は、今は、植物園みたいなところで働いてて、昔のことは話さないし、私もよく知らないんです」
「お父様のことは?」
「父は、私が小さい頃に亡くなっているので。良く知らないんです。お役に立てなくてすみません」
純の質問を嫌がっていると言うより、本当に知らないので恐縮しているといった面持ちだった。
「いえ、こちらこそ、時間をとらせてごめんなさいね。じゃあ、取材の件、お母様に伝えておいてもらえないかしら?」
「はい。わかりました」
「ありがとう。じゃあ、宜しくね」
喫茶店を出て、遼子と別れる。遼子は軽くお辞儀をして歩いていった。
「うん。なかなか、真面目そうで良い娘だわ」
純は一人ごちた。
「そうなのか?」
不意に聞き覚えのある男の声。振り返ると、近くの車のなかから、田川が顔を覗かせていた。
「びっくりしたあ。何時からいたんですか?」
「強引過ぎやしない、ってとこから」
純は田川を睨み付けた。
「監視してたわけですか?」
「いいや。今日、彼女に会いに行くと君から連絡があったんでな」
「そんな連絡しましたっけ?」
「メールを寄こしただろう?」
定期的に連絡はするようにしていたのでメールを送ってはいたが、田川に来てもらうようなことは書いていないはずだった。
「それにしても、男二人に気風の良いことだな」
「いいじゃないですか、上手く行ったんだし」
田川は、純の顔を見て、曖昧に笑った。
「まあ、これで君の仕事も切り上げてもいいぞ」
「え、こんなもので良いんですか?」
「ああ。五月女百合子の娘にサン・グレーザー計画のことを伝えたんだろう? ショーマンを使って情報を集めるのはいいが、これ以上この件に首を突っ込まなくてもいい」
田川は、“小満”のことをショーマン、と英語っぽく発音した。
「わかりました」
純はアパートに帰って、シャワーを浴びると、気持ちも落ち着いてきた。これで仕事も終わりなら、それはそれでかまわない筈だった。さして難しくもない仕事で報酬も得られるし。そう思っても、どこか引っ掛かりが残ることも確かだった。
パソコンを起動した。仕事の資料を眺めたところでどうかなるわけでもなかったが、まだ気持ちは整理できていない、そんな思いがあった。
メールが届いているというポップアップが上がる。メールソフトを開く。表題は、”サン・グレーザー計画について”。知らないメールアドレス。宛先のメールアドレスは、昼間に五月女遼子に渡した名刺に記載したもので、転送されて純に届いたのだった。純は緊張してメールを開いた。
”明日、十七時に衛生研究所付属植物園の喫茶室で待っています”
と、それだけ書かれていた。署名は、五月女百合子。娘から純に会ったことを聞いたことはこれではっきりした。しかし、五月女百合子から連絡があるとは思っていなかった。
田川に、首を突っ込むなとは言われたが、これは、向こうからの指定だ。会うことも仕事の続きということだ。そう純は考え、自分を納得させて、五月女百合子に了解のメールを送った。
昼は上着を着て歩いているとじっとりと汗ばむくらいの陽気だったが、陽も傾いて涼しい風が吹いていた。昨日と同じ黒のスーツ姿の純には有難かった。
植物園は十八時には閉園となるようで、入館する際に時間が無いが構わないか? と係員に尋ねられた。純は植物には用は無い。五月女百合子に会えればそれで良かった。今日、五月女百合子と会うことは、田川に伝えようか迷ったが、植物園に向う頃になって、メールで一報を入れておいた。
喫茶室というのは、植物園の資料館で、入場受付のある建物と渡り廊下で繋がっている温室なども付属した施設の最上階、五階の展望フロアにあった。純はまっすぐそこへ向ったが、平日の午後、閉館時間前ということで、純以外に人もいなかった。そのせいか、寒いほど冷房が効いていた。展望室からは植物園全体が見渡せて、植物園の周りに植えられた銀杏並木に向って夕日が沈んでいこうとするところだった。
喫茶室は、カップの飲み物の自動販売機が二台ほど置いてある、丸テーブルが四つ程置かれた、どこの企業にでもありそうなリフレッシュルームという雰囲気のものだった。その丸テーブルの一つ、窓際に置かれたものに、女性がいた。他には誰もいない。
純は緊張しつつ、そちらへ向って歩いていった。
「五月女百合子さんですね?」
女性は、純が入ってきたときから純を目で追っていた。
「あなたが、夏目杏子さん? てっきり、国立電算機研究所の関係者かと思ったけど。そうじゃないのかしら?」
五月女百合子は、すこし怪訝そうな表情でそう言った。
「私は、依頼されて仕事をしているだけです」
国立電算機研究所のことなど純は名前しか知らない。
五月女百合子は四十代後半くらいか。少し白いものの混じった髪を後ろで丸く纏めていた。顔立ちは娘とよく似ている。娘と違うのは細い、少しきつい感じの目元だった。
「サン・グレーザー計画についてお話があるそうですが? 娘と会ったそうね。あなたは、どれだけ知っているのかしら?」
値踏みするように純を見つめる。
「五月女博士の主導で探査機のコンピュータが作られたこと。そのコンピュータは亡くなった娘を真似たこと。探査機には、何の目的か、冷凍保存された人間の卵子と精子が積まれていたこと。そんなところです」
百合子はゆっくりと純から顔を逸らすと窓の外へ目をやった。
「冷凍保存された卵子云々は、別の計画だったはずよ。実際に行われたかどうかは知らないけど。探査機のAI、人工知能を作り始めた時には、あの人の娘はまだ生きていたわ。事故で死んだのはその後。実際に探査機に積まれたものに関しては、私も良くは知らない」
前妻の娘とはいえ、あの人の娘、という言い方に、百合子のと関係が垣間見えた気がした。
「あなた、国立電算機研究所の関係者じゃないって、言ったわね? あなたからは、そうね、邪気のようなものが感じられないわ。身のこなしも訓練された人間じゃないみたいだし、隙が多いっていうのかしら?」
純は人から気楽な、能天気な人間に見られることも多かったので、ここで言われても腹も立たなかった。
「探査計画の実際の目的は何だったんですか?」
「本来の目的? 口止めされるようなことだけど、あなたは知りたいの?」
そういうことに純は考えが至らなかった。返事がすぐには出てこない。
「まあ、あなたのことを私が心配する義理もないわね」
百合子は、紙コップのコーヒーを一口飲んだ。
「探査計画は表向きは彗星の観測が中心。接近しての観測と彗星の核への着陸。そしてそのまま彗星から観測情報を送り続ける予定だった。探査機が無事だったらね。
実際は、太陽系の公転軌道面の北極方向に探査機を送り込んだのは、太陽の観測をするため。他にも、あと三つ、別の目的に偽装された探査機が太陽を回る軌道に送り込まれているはずよ。合計四つの探査機で太陽を四角錐で取り囲む、テトラゴンプロジェクトと言われていたのが、本来の目的。失敗したサン・グレーザー計画の後に、代替の探査計画も行われて、そちらは成功しているんじゃないかしら。私は関わっていないけど」
「その、テトラゴンプロジェクトというのは・・・」
純が尋ねる。
「太陽の観測よ」
「太陽の観測?」
怪訝な顔で純は問い返した。
「太陽活動の変動を長期間精密に観測するため。将来、太陽は大きく活動が変化するということらしいわ。地球の気候が激変するくらいの。もしかすると、生命が存続できないくらいに」
太陽活動の激変、と言われても純にはぴんとこなかった。
「それは、人類が滅びるとか、そんなことなんですか?」
自分で言っていて、現実味のない台詞だった。
「そうね。そういうことも起きるのかもしれない。ただし、私やあなたが生きている間は、それほど、いえ、まったくと言っていいくらい影響は出ないそうよ。千年や二千年ではね」
「それなら、別に隠しておかなくてもいいんじゃないですか?」
「世間の人が全て、千年や二千年で影響がでないからと、気にしなければね。個人はそれでいいとしても、国とかのレベルになってくるとそうはいかないでしょうね。それにこういうことは悪い方へ考えがちなものよ。千年や二千年ではなくて、十年や二十年じゃないかとかね」
百合子は教師が生徒を諭すように淡々と話した。
「あなたは、それを聞いて本当のことだと信じられたんですか?」
「私は天文学や物理学が専門では無いし、興味があったわけでもないわ。でも、具体的な研究結果やデータを見たし、説明されたことに矛盾は感じなかった。それに、影響がでるのは数万年というスパンでのこと。人類の存続なんて程の影響が確実に起きるというわけでもない。それも可能性の一つとなったら。毎日、研究や開発に追われているとそんなことは気にならなくなるものよ」
「あなたはそうかもしれませんが、そうじゃない人もいるんじゃないですか?」
「そうね。だから、秘密にされているんじゃないの? 公にして騒ぎにならないように。それを守るのが、あなたたちの役目なんでしょ?」
皮肉を込めた笑みを浮かべて百合子は純を見つめた。その通り。純には返す言葉が無かった。
「当時も他言無用だと言われたけど、計画が失敗して終わったことだと思っていたのに。いまさら、探査機が連絡してくるなんてね」
百合子は笑って純を見つめた。
「探査機の人工知能は、博士の娘さんを真似ただけなんですか?」
「そうよ。当時の技術で出来る限りのことをしていたわ。彼は、あの娘を溺愛していた。傍から見ているよりずっとね。そのせいか、死んだ娘を実験体にしたなんて、馬鹿げた噂がたったこともあったわ」
純は、ポケットから、紙片を取り出した。
「これは、どういった意味があるんですか?」
百合子に渡す。
「……私は此処にいます、か。これだけ? 他に数値とか無かった?」
「私が知っているのはそれだけです」
「そう。これ自体にはたいして意味はないわ。探査機が空間座標を連絡するときに送る信号よ。いくつかパターンがあって、これはあの人が娘と話すみたいにしたくて作ったもの。悪趣味よね。話しかけるように、連絡をよこすのよ。探査機は今地球に接近しているんでしょう? 彗星と一緒に」
「ええ。でも、太陽への衝突するコースを取っているとか」
百合子は窓の外へ視線を移した。口元に笑みが浮かぶ。
「そう。全て消えてなくなるのね」
口元は笑っているが、目にはどことなく淋しげな表情が浮かんでいるように見えた。
「もういいでしょう? 私にも、私の娘にも会う必要はないわよね? そう、伝えておいて。放っておいて欲しいって」
静かな口調だったが、表情からは強い、拒絶の意思が伝わってきた。
「わかりました。伝えておきます」
純の言葉を聞いて、百合子はそそくさと立ち上がった。テーブルを離れて、歩み去ろうとして、ふと立ち止まった。少しためらいがちに振り返る。
「あなた、お幾つ?」
「え? あの、今年で二十五ですけど」
唐突に言われて、純は正直に答えていた。
「若いわね。こんなことをしていないで、普通に働いた方がいいわ。抜け出せなくなってからでは遅いわよ」
百合子はそれだけ言って、踵を返すとつかつかと去って行った。純はその後ろ姿をあっけにとられて見送っていた。
冷房の効いた建物から出ると、陽の沈みかかった頃とはいえ、肌にまとわりつくように蒸し暑く感じた。植物園を出ると、黒のクーペが止まっている。
「来てたんですか」
ドアの前に立つ。田川が運転席から顔を見せた。
「五月女百合子さんからの伝言です。私たちのことは放っておいてって」
「ああ。今回だけだ。これから先は俺たちに仕事が回ることもないだろう」
淡々と話す田川。
「私に何か言うことは?」
「何時も通りだよ。仕事で知ったことは他言無用。忘れてくれ」
「それだけですか?」
「それだけだよ」
純は顔を上げて空を仰いだ。夕日がまぶしい。
「あの探査機って、放っておくんでしょうか?」
「そうするしかないだろうな。自力で動くことも出来ないし、惑星軌道でのランデブーとか、技術的にも難しいだろう。それほどの価値もあるとは思えんし、そんな時間ももう無い」
「そうですか」
――その方が都合がいいものね。
純は口のなかで呟いた。
※ ※ ※
十九時になっても、夏至が過ぎたばかりの六月の空はまだ陽の名残を残していた。アパートの屋上へ向かう階段に座って、純は双眼鏡を夕闇の迫る空へ向けていた。周りから見えずに、視界は空だけに開かれていた。屋上は閉鎖されていて、純の部屋の横にある階段を上がってくる者はまずいない。純は時々ここに腰をかけてぼんやりと空を眺めていることがあった。
今日は、探査機を載せている彗星が確認できるはずだった。小さいながら、軌道の関係でかなり地球に接近するために、ほんの数日だけ、双眼鏡で確認できるくらいには明るく見えると言うことだった。
「んー、これかな?」
双眼鏡の視野に、青緑色のぼんやりとした球体を捉えた。気のせいかと思えるほど、微かに尾のようなものも見えていた。
これに探査機も乗っているのか。
ワタシハイマココニイマス、イマココデス。
そうやって、誰も返事を返すこともない通信を送り続けているのだろう。今も、この時も。
純は、彗星が次第に地平に近づいて、都会の夕靄の中へ見えなくなるまで双眼鏡から目を離さなかった。
了




