第6話:冬・残響のなかで
2月の終わり。東京に雪が降った日、陽はついに手紙を書き始めた。
アパートの小さな机に向かい、便箋に向き合う。右耳には、あの片耳イヤホン。みなみの「Half Song」が、静かに流れている。
『みなみへ
突然の手紙で驚かせてしまって、ごめん。
君の歌声を聞いた。「Half Song」、素晴らしい曲だった。6年たって、君の音楽はこんなにも深くなったんだね。』
陽の手が止まった。何を書けばいいのかわからない。
便箋を新しいものに変えて、もう一度書き始める。
『みなみ
僕は今、出版社で働いている。本を作る仕事。君のように、人の心に届くものを作りたくて選んだ道だった。でも、毎日の忙しさの中で、何のために書いているのかわからなくなることがある。
君の歌を聞いて、思い出した。言葉で人を感動させたいと思った、あの頃の気持ちを。』
また、手が止まる。何か違う。これは、自分のことばかり書いている。
陽は立ち上がり、窓の外を見つめた。雪は、まだ降り続いている。
3度目の便箋に向かう。
『みなみ
君が歌っていた。あの日々のことを。
僕も、忘れたことはなかった。図書館で初めて一緒に音楽を聞いた日。片耳ずつ分け合ったイヤホン。君の左耳に届けていた音楽を、今は僕一人で聞いている。
「Half Song」の歌詞を聞いて、君もまだ覚えているんだと知った。嬉しかった。でも、同時に申し訳ない気持ちにもなった。』
陽は、ペンを置いた。この手紙を送るべきなのかどうか、まだ迷っていた。
翌日、会社で高橋先輩に相談した。
「手紙、書いたのか?」
「書きました。でも、送るかどうか」
「なんで迷うんだ?」
「今さら感があって。それに、もしかしたら相手には迷惑かもしれないし」
高橋は、コーヒーを飲みながら陽を見つめた。
「蒼井、お前は優しすぎるんだよ。相手のことを思うのはいいけど、自分の気持ちを押し殺すのは違うだろう」
「でも」
「その人の歌を聞いて、お前はどう感じた?」
陽は少し考えてから答えた。
「懐かしくて、切なくて。でも、彼女が頑張ってることが嬉しくて」
「だったら、それを伝えればいいじゃないか。復縁したいとか、そういうことじゃなくても」
高橋の言葉に、陽はハッとした。復縁。自分は、それを望んでいるのだろうか。
その夜、陽は再び手紙に向かった。今度は、迷いを捨てて。
『みなみ
君の「Half Song」を聞いた。
あの頃のことを、歌にしてくれてありがとう。僕一人の胸にしまっていた思い出が、君の歌声で蘇った。
君は、音楽を「一番素直な手紙」だと言っていたね。その通りだと思う。君の歌からは、あの頃の君の気持ちが伝わってきた。優しくて、少し寂しくて、でも前向きな気持ちが。
僕たちは、高校生の時に別れた。お互い、違う道を歩むために。あの選択は、きっと正しかったんだと思う。君は夢を追いかけて、こんなに素晴らしいアーティストになった。僕も、自分なりに頑張ってきた。
でも、時々思うんだ。もし、あの時もっと上手に話し合えていたら。もし、遠距離でも支え合えていたら。そんな「もし」ばかり考えてしまう。
君の歌を聞いて、やっと気づいた。僕は、君に謝りたかったんだ。
あの頃の僕は、君の夢を心から応援できていなかった。君が東京に行くことを、素直に喜べなかった。君の才能を認めながらも、どこかで複雑な気持ちを抱いていた。それが、僕たちの間に壁を作ってしまったんだと思う。
ごめん、みなみ。君はただ、自分の夢に向かって頑張ろうとしていただけなのに。
今の君の活動を見ていると、本当に嬉しい。君が頑張って築き上げた世界を、遠くから応援している。
この手紙に返事をくれなくても構わない。ただ、君に伝えたかった。あの日々が、僕にとってかけがえのない時間だったこと。君という人に出会えて、本当によかったということ。
君の音楽が、たくさんの人に愛されますように。
陽』
手紙を書き終えた陽は、長い間座り込んでいた。6年分の想いを、やっと言葉にできた気がした。
翌日、陽は郵便局に向かった。みなみの住所は、所属事務所の公開情報から調べた。
封筒に手紙を入れ、宛先を書く。久しぶりに書く、みなみの名前。
ポストに投函する瞬間、陽の手が震えた。でも、投函した後は、不思議と清々しい気持ちになった。
1週間が過ぎた。返事は来なかった。
陽は、それでもいいと思っていた。伝えたいことは伝えた。それだけで十分だった。
2週間目の金曜日。陽の携帯電話に、見知らぬ番号から着信があった。
「はい、蒼井です」
「陽?」
その声を聞いた瞬間、陽の時間が止まった。
「みなみ?」
「うん。手紙、読んだよ」
6年ぶりに聞く、みなみの声。少し大人っぽくなっていたが、話し方は変わらない。
「ありがとう。突然ごめん」
「ううん。すごく嬉しかった」
電話の向こうで、みなみは少し笑っているようだった。
「実は、私も陽のこと考えてたの。『Half Song』を作った時も」
「そうだったんだ」
「あの頃のこと、全部覚えてる。一緒に音楽を聞いた時間。図書館での午後。夏祭りの夜」
陽の胸が熱くなった。
「僕も、忘れたことない」
しばらく、お互い無言だった。でも、嫌な沈黙ではなかった。
「陽、謝らなくていいよ」
みなみが口を開いた。
「あの時の私も、うまくできてなかった。陽の気持ちを考えずに、自分の夢ばかり話してた」
「そんなことない。君は間違ってなかった」
「でも、もっと二人で話し合えばよかった。お互い、遠慮しすぎてたのかも」
みなみの言葉に、陽は頷いた。
「今度、会わない?」
みなみからの提案に、陽は一瞬戸惑った。
「会って、どうする?」
「話したいことがあるの。電話じゃなくて、ちゃんと顔を見て」
陽は少し考えてから答えた。
「いいよ。でも、僕たちはもう」
「もう恋人同士じゃないってこと?わかってる。でも、友達として話したい」
その言葉に、陽は安心した。
翌週の日曜日、二人は渋谷のカフェで会った。
6年ぶりに会うみなみは、髪を短くしていた。でも、その笑顔は変わらない。
「久しぶり」
「久しぶり」
最初は、お互い少し緊張していた。でも、話し始めると、あの頃のような自然な会話ができた。
「陽の仕事、楽しい?」
「うん。君の音楽みたいに直接的じゃないけど、本を通して誰かに何かを伝えられてる気がする」
「素敵な仕事だね」
みなみは、陽の話を嬉しそうに聞いていた。
「『Half Song』、本当にいい曲だった」
「ありがとう。実は、あの曲書いてる時、陽のことをすごく思い出してた」
「どんなふうに?」
「あの頃、私たちは片耳ずつイヤホンを分け合ってたでしょ?でも、別れてからは片方だけになっちゃった。だから、『Half Song』なの」
陽は、その意味を理解した。
「僕も、ずっと片耳だけで音楽を聞いてた」
「本当?」
「うん。左耳が、なんとなく寂しくて」
二人は、しばらく笑い合った。
「でも、もう大丈夫」
みなみが言った。
「どういう意味?」
「私たち、もうそれぞれの道を歩いてる。あの頃とは違う人になってる。だから、過去に縛られる必要はないんじゃないかな」
陽は、みなみの言葉を深く受け止めた。
「そうだね。君は君の音楽を。僕は僕の仕事を」
「でも、あの頃の思い出は大切にしたい」
「もちろん」
カフェを出た後、二人は街を歩いた。特に目的地はなかった。ただ、話をしながら歩きたかった。
「今度、私のライブに来ない?」
みなみが提案した。
「いいの?」
「うん。友達として」
陽は微笑んだ。
「ぜひ」
夕方、二人は駅で別れた。
「今日は、ありがとう」
「こちらこそ」
みなみは、陽に小さなプレゼントを渡した。
「これ、新しいイヤホン。ワイヤレスじゃない、昔ながらのやつ」
陽は、その箱を受け取った。
「ありがとう」
「今度は、一人で両耳使って音楽を聞いて。きっと、新しい発見があるから」
電車に乗ったみなみを見送りながら、陽は思った。本当に、これでよかったのだと。
家に帰り、陽は新しいイヤホンを開封した。シンプルで、でも質のよいイヤホンだった。
両耳に装着し、音楽を再生する。久しぶりに聞くステレオサウンド。
音楽が、頭の中を豊かに満たしていく。
陽は、静かに微笑んだ。新しい季節が、始まろうとしていた。




