第4話:秋・イヤホンが抜けた日
高校3年の秋。二人の関係に、初めて小さなひびが入り始めた。
進路の話が現実的になるにつれ、陽とみなみの将来への思いは、次第に違う方向を向いていった。
みなみは、東京の音楽系専門学校への進学を決めていた。一方の陽は、地元の国立大学の文学部を第一志望にしていた。安定した道を選びたかった。
「東京か、遠いね」
陽がつぶやくと、みなみは振り返った。
「でも、やりたいことがあるから」
図書館での会話。いつものように片耳ずつイヤホンを分け合っているが、なぜか音楽が心に響かない。二人の間に、見えない壁ができ始めていた。
「遠距離になるけど、大丈夫だよね?」
みなみの問いかけに、陽は頷いた。でも、その頷きは、自分自身への言い聞かせでもあった。
秋が深まるにつれ、二人が一緒に過ごす時間は少なくなった。みなみは専門学校の準備で忙しく、陽は受験勉強に追われていた。
会える時間が限られているからこそ、以前にも増して一緒にいる時間を大切にしたかった。でも、なぜかうまくいかない。
「最近、音楽聴いてる?」
ある日、みなみが陽に尋ねた。
「あまり時間がなくて」
「そっか」
みなみの表情が、少し寂しそうに見えた。音楽は、二人を繋いでいた大切なものだった。それさえも、日常の忙しさの中で薄れていく。
10月のある日、みなみから連絡があった。
「今度の日曜日、時間ある?話したいことがあるの」
陽の胸に、嫌な予感が走った。
日曜日、二人はいつもの公園で会った。紅葉が始まった木々が、秋の深まりを告げている。
「陽、聞いて」
みなみは少し興奮した様子で話し始めた。
「この前、専門学校の体験入学に行ったの。そこで、すごい先生に出会って」
みなみの目は輝いていた。自分の将来について語る時の、いつもの表情。
「その先生が、私の作った曲を聴いてくれて、すごく褒めてくれたの。もっと本格的に学べば、プロになれるかもしれないって」
陽は微笑んで聞いていたが、心の奥で何かが冷えていくのを感じていた。
「それで、来年の春から東京に行くことになった」
「うん、知ってる」
「でも、実は」
みなみは少し躊躇してから続けた。
「冬の間にも、短期のレッスンがあるの。年明けから、月に何回か東京に通うことになりそう」
陽の表情が変わった。
「受験の時期に?」
「そう。でも、これはチャンスだから」
陽は何も言えなかった。みなみの夢を応援したい気持ちと、置いていかれる寂しさが、胸の中で混じり合っていた。
その日から、二人の会話は少しずつぎこちなくなった。みなみは東京での新しい体験について話し、陽は受験勉強の愚痴を言う。かみ合わない会話が増えていった。
11月の文化祭。去年は一緒に楽しんだイベントも、今年は違って見えた。
「陽、元気ないね」
クラスメイトに指摘されて、陽は初めて自分の変化に気づいた。いつの間にか、笑うことが少なくなっていた。
みなみの軽音楽部のライブを見に行った。彼女の演奏は、去年よりもずっと上達していた。でも、陽には、みなみが遠い世界の人に見えた。
ライブの後、みなみは友達に囲まれていた。東京の専門学校の話で盛り上がっている。陽は、その輪に入ることができなかった。
「お疲れさま」
陽が声をかけると、みなみは振り返った。
「ありがとう。どうだった?」
「よかったよ」
短い会話。以前なら、もっと長い時間をかけて、演奏について語り合ったはずなのに。
帰り道、二人は並んで歩いていた。でも、会話が続かない。
「イヤホン、聴こうか」
みなみの提案に、陽は頷いた。久しぶりに、片耳ずつイヤホンを分け合う。
でも、流れてきた音楽は、なぜか二人の距離を縮めてくれなかった。同じ曲を聴いているのに、違う世界にいるような感覚。
『左耳は、まだ君がいる場所』
Amber Waltzの歌詞が、皮肉に響いた。左耳にはみなみがいるのに、心の距離は遠くなっている。
12月に入ると、二人の連絡も減った。みなみは東京での短期レッスンの準備で忙しく、陽は受験勉強に集中していた。
たまに送られてくるメッセージも、事務的なものばかり。
「今度の日曜日、会える?」
「ごめん、模試があるんだ」
「そっか。頑張って」
そんなやり取りが続いた。
クリスマスイブの夜。陽は一人で部屋にいた。去年は、みなみと一緒に過ごしたクリスマス。今年は、お互いに忙しいという理由で会わなかった。
携帯電話を見ると、みなみからメッセージが届いていた。
「メリークリスマス。体調に気をつけて」
短いメッセージ。陽は、返事を書こうとして、何度も消した。何を書けばいいのかわからなかった。
結局、同じような短いメッセージを返しただけだった。
年が明けて1月。センター試験が近づいてきた。陽の生活は、完全に受験モードになっていた。
みなみは、約束通り東京でのレッスンを始めた。週末になると東京に向かい、月曜日に帰ってくる生活。
二人が顔を合わせる機会は、ほとんどなくなった。
ある日、陽は廊下でみなみとすれ違った。お互いに気づいたが、軽く会釈するだけ。立ち止まって話すこともなかった。
陽は、自分でも驚くほど何も感じなかった。悲しいとか寂しいとかではなく、ただ無感情だった。
でも、家に帰って一人になると、胸の奥に重いものがあることに気づいた。
2月のバレンタインデー。去年は、みなみから手作りのチョコレートをもらった。今年は、何もなかった。
陽も、何もしなかった。
その日の夜、みなみから久しぶりに電話があった。
「陽、話がある」
声のトーンで、陽は察した。
翌日の放課後、二人はいつもの公園で会った。冬の寒さが、頬を刺す。
「陽」
みなみは、陽の目を見つめて言った。
「私たち、お疲れさまにしない?」
陽は、その言葉を静かに受け止めた。
「そうだね」
二人とも、もうずっと前から感じていたことだった。
「嫌いになったわけじゃないの。でも、何か違う方向に向かってる気がして」
みなみの目に、涙が浮かんでいた。
「僕も、同じことを考えてた」
陽の声は、思ったより冷静だった。
「ありがとう、今まで」
みなみは、陽にイヤホンを差し出した。左耳用の、彼女がずっと使っていた方。
「これ、返すね」
陽は、それを受け取った。手のひらの中で、小さなプラスチックが冷たかった。
「最後に、一緒に聴こうか」
陽は、右耳用のイヤホンを取り出した。二人は、最後のひと時を共有するために、片耳ずつイヤホンを分け合った。
流れてきたのは、二人が初めて一緒に聴いた曲。Luneの「空、もうすぐ雨」。
『ふたりの声が重なったら、きっと雲も泣いてくれる』
本当に、空から雪が降り始めた。
曲が終わると、みなみはイヤホンを外した。
「さよなら、陽」
「さよなら、みなみ」
みなみは振り返らずに歩いて行った。陽は、彼女の後ろ姿が見えなくなるまで、その場に立っていた。
手の中には、二つのイヤホンがあった。もう、一緒に音楽を聴く相手はいない。
陽は、右耳用のイヤホンだけを自分の耳に付けた。左耳には、何もない。
片耳だけで聴く音楽は、とても寂しかった。でも、それが今の陽にはふさわしい気がした。
雪は、一晩中降り続いた。