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第3話:夏・鼓膜より近い距離

6月の梅雨が明けた頃、陽とみなみは正式に付き合うことになった。


きっかけは、陽が勇気を出して誘った映画デートだった。上映中、暗闇の中で偶然触れ合った手。みなみは、陽の手を握り返してくれた。


映画館を出た後、二人は近くの公園のベンチに座った。夕暮れの空が、オレンジ色に染まっている。


「陽」


みなみが振り返った時、陽は自分の気持ちを伝えた。不器用な言葉だったけれど、みなみは静かに頷いてくれた。


「私も、同じ気持ち」


それから、二人の関係は新しい段階に入った。


夏休みに入ると、二人は毎日のように会った。陽の部屋で宿題をしたり、みなみの家で一緒に料理をしたり。そして、いつも音楽が二人の側にあった。


「この曲、知ってる?」


みなみが新しく見つけた曲を、陽に聴かせてくれる。City Signの「放課後スローモーション」。シティポップの軽やかなリズムに、甘い歌詞が重なる。


『斜め45度の君の横顔が、夏よりまぶしい』


陽は、その歌詞が今の自分の気持ちにぴったりだと思った。みなみの横顔を見つめながら、一緒に音楽を聴く時間が、何よりも幸せだった。


二人のプレイリストは、どんどん長くなっていった。お互いが見つけた曲を共有し、感想を交換する。時には、同じ曲に対して全く違う解釈をして、それについて長い時間話し込むこともあった。


「陽って、音楽を聴く時、何を考えてるの?」


ある日、みなみが尋ねた。二人は陽の部屋で、ベッドに並んで寝転がっていた。天井を見上げながら、さくらと猫の「goodbyeをやめた日」を聴いている。


「うーん、考えてるっていうより、感じてるかな」


陽は言葉を選びながら答えた。


「音楽って、言葉にならない気持ちを教えてくれる。悲しいとか嬉しいとかじゃなくて、もっと複雑で、でも確かにある感情」


みなみは陽の方を向いた。近い距離で見つめられて、陽の頬が少し赤くなる。


「私も同じ。音楽って、心の翻訳機みたいなものよね」


イヤホンのコードが、二人の間で小さく揺れている。陽は、この距離がたまらなく愛おしかった。


夏祭りの日、二人は浴衣を着て出かけた。人混みの中を歩きながら、みなみは陽の手をしっかりと握っていた。


「花火、始まるまで時間あるね」


「どこか静かなところに行こうか」


陽の提案で、二人は祭りの喧騒から少し離れた丘に向かった。街の明かりが見下ろせる場所で、二人は腰を下ろした。


「イヤホン、持ってる?」


みなみの問いかけに、陽は微笑んだ。最近は、どこに行くにもイヤホンを持参するようになっていた。二人で音楽を聴くために。


「今日はどの曲にする?」


「陽に任せる」


陽は音楽アプリを開き、最近よく聴いている曲を選んだ。Luneの新しい曲。まだ二人で聴いたことのない、特別な一曲だった。


片耳ずつイヤホンを分け合い、二人は夜景を見下ろしながら音楽に耳を傾けた。遠くから太鼓の音が聞こえてくる。もうすぐ花火が始まる。


「陽」


みなみが振り返った。浴衣の襟元から、うなじの白い肌が見える。


「ありがとう」


「何が?」


「こうやって、音楽を一緒に聴いてくれること。私一人だったら、きっと見つけられなかった世界がある」


陽の胸が熱くなった。みなみも、同じことを感じてくれていたのだ。


花火が打ち上がった。空に大きな花が咲き、二人の顔を照らす。みなみの瞳に、光が踊っていた。


「きれい」


みなみの言葉が、花火のことなのか、音楽のことなのか、それとも今この瞬間のことなのか、陽にはわからなかった。でも、どれでもよかった。すべてが美しかった。


夏の終わり、二人は文化祭の準備で忙しくなった。陽は文芸部で小説を書き、みなみは軽音楽部でベースを担当していた。


「今度、私たちのライブ見に来てよ」


みなみに誘われて、陽は初めて彼女の演奏を見ることになった。


体育館に響く音楽。ステージの上のみなみは、普段とは違って見えた。ベースを弾く姿は力強く、でもどこか繊細で。陽は、彼女の新たな一面を発見した気分だった。


ライブが終わった後、みなみは興奮した様子で陽に駆け寄ってきた。


「どうだった?」


「すごかった。みなみが、すごくかっこよく見えた」


陽の言葉に、みなみは嬉しそうに笑った。


「私、将来は音楽に関わる仕事がしたいの」


「音楽クリエイター?」


「そう。自分で曲を作って、歌って、みんなに届けたい」


みなみの目は、未来への希望で輝いていた。陽は、彼女の夢を全力で応援したいと思った。


でも同時に、小さな不安も芽生えていた。みなみの才能は本物だった。きっと、いつか遠い世界に行ってしまうのかもしれない。


文化祭当日、陽の書いた小説が文芸部の展示で好評を博した。みなみも、それを読んで感動してくれた。


「陽の書く文章って、音楽みたい」


「どういう意味?」


「心に直接響いてくる感じ。読んでると、メロディーが聞こえてきそう」


みなみの言葉が、陽にとって最高の褒め言葉だった。


文化祭の写真撮影で、二人は並んで写った。片耳ずつイヤホンを付けたまま、カメラに向かって微笑んでいる。


その写真は、後に陽にとって大切な宝物になる。二人が一番幸せだった瞬間を切り取った、永遠の記録。


夏が終わりに近づくにつれ、陽の心には漠然とした不安が広がっていた。3年生になれば、進路のことを真剣に考えなければならない。みなみの夢は明確だったが、陽にはまだ確固たる目標がなかった。


「陽は、将来何がしたいの?」


ある日、みなみに尋ねられて、陽は答えに困った。


「まだ、よくわからない」


「文章を書くのが好きなんでしょ?」


「好きだけど、それで食べていけるかどうか」


陽の不安を察したのか、みなみは優しく微笑んだ。


「大丈夫。陽なら、きっと見つかるよ」


その言葉に、陽は少し安心した。でも、心の奥で、何かが変わり始めていることも感じていた。


夏の最後の夜、二人は海辺でお互いを思いやった。波の音と、イヤホンから流れる音楽が混じり合って、幻想的な時間を作り出していた。


『手を離しても、心はまだ隣にいた』


さくらと猫の歌詞が、海風に乗って二人の耳に届く。陽は、この歌詞の意味を、まだ理解していなかった。


でも、いつかきっと、その意味を知ることになる。別れの痛みと共に。


今はまだ、隣にいるみなみの温もりを感じていれば、それで十分だった。夏の終わりは、同時に新しい季節の始まりでもあった。

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