第2話:春・片耳ずつの距離
高校2年の春。陽がクラスで成瀬みなみと初めて言葉を交わしたのは、図書館でのことだった。
放課後の静寂に包まれた図書館で、陽は一人で宿題をしていた。いつものように、小さな音でイヤホンから音楽を聴きながら。それは彼にとって、周りの世界との間に作る、薄い膜のようなものだった。
「あ、それ、Luneの新しいアルバムじゃない?」
振り返ると、茶色の髪をポニーテールにまとめた女の子が立っていた。成瀬みなみ。クラスでは活発で、いつも友達に囲まれている印象だった。陽とは正反対の存在だと思っていた。
陽は慌ててイヤホンを外した。
「あ、うん。そうだけど」
「私も好きなの、Lune。特に『空、もうすぐ雨』が」
みなみは隣の席に座り、陽のスマートフォンの画面を覗き込んだ。音楽アプリには、確かにその曲名が表示されている。
「今、それ聴いてた」
「本当?すごい偶然」
みなみの目が輝いた。陽は、彼女がこんなにも身近に感じられることに驚いていた。
「よかったら、一緒に聴かない?」
気がつくと、陽はそう言っていた。自分でも驚くほど自然に。
みなみは少し戸惑ったような表情を見せたが、すぐに笑顔を返した。
「でも、イヤホン一つしかないよ?」
陽は無言で、イヤホンのコードを手繰り寄せた。そして、右耳用を自分に、左耳用をみなみに差し出した。
「こうすれば」
二人の間に、白いコードが架け橋のように伸びている。顔と顔の距離は、30センチほど。お互いの呼吸が感じられるほど近い。
音楽が始まった。
『ふたりの声が重なったら、きっと雲も泣いてくれる』
歌詞が、二人の鼓膜に同時に響く。陽は、みなみの表情を盗み見た。彼女は目を閉じ、音楽に身を委ねている。長いまつげが、夕日の光を受けて揺れていた。
曲が終わると、みなみはゆっくりと目を開けた。
「なんだか、不思議な感じ」
「どんな?」
「音楽って、一人で聴くものだと思ってたけど、こうやって誰かと一緒に聴くと、全然違って聞こえる」
陽は頷いた。確かに、いつも聴いている曲が、まるで初めて聴くもののように新鮮だった。
それから、二人は毎日のように図書館で会うようになった。最初は宿題をしながら、そのうち音楽の話ばかりをするようになった。
「この曲、どう思う?」
みなみは、陽に新しい曲を教えてくれた。陽も、自分の好きな音楽を彼女に紹介した。二人の音楽の趣味は、少しずつ重なり合っていった。
ある日、みなみが陽に言った。
「今度、一緒にレコード店に行かない?」
陽の心臓が、一拍飛んだ。
「いいよ」
その返事は、陽の中で何かが変わった瞬間だった。
休日の午後、二人は街のレコード店を回った。みなみは、陽が知らないアーティストのCDを次々と手に取り、試聴コーナーで聴かせてくれた。
「これ、すごくいいよ。聴いてみて」
Amber Waltzというアーティストの「イヤホン越しの君へ」という曲。ポップスらしい軽やかなメロディーに、どこか切ない歌詞が乗っている。
『左耳は、まだ君がいる場所』
陽は、その歌詞が妙に胸に響くことに気づいた。
「この人、まだ新人なんだって。でも、歌詞がすごく繊細で」
みなみの解説を聞きながら、陽は彼女の横顔を見つめていた。音楽について語る時の彼女は、いつも以上に生き生きとしていた。
「音楽って、みなみにとってどういうもの?」
陽が尋ねると、みなみは少し考えてから答えた。
「一番素直な手紙かな。言葉では伝えられないことも、音楽なら届けられるような気がする」
その言葉が、陽の心に深く刻まれた。
帰り道、二人は並んで歩いていた。陽は、みなみとこうして時間を過ごすことが、こんなにも自然で心地よいことに驚いていた。
「今度は、陽の好きな場所に連れて行ってよ」
みなみの提案に、陽は戸惑った。自分の好きな場所。そんなものがあるだろうか。
「考えておく」
陽の答えに、みなみは微笑んだ。
その夜、陽は自分の部屋で音楽を聴いていた。今日買ったCDの中から、Amber Waltzの「イヤホン越しの君へ」を選んだ。
でも、片耳だけで聴く音楽は、どこか物足りなかった。左耳に、みなみの存在を感じていたのだ。
陽は、自分の気持ちに気づき始めていた。これは、ただの友情を超えた何かだった。
窓の外で、桜の花びらが舞い踊っている。春の風に乗って、新しい季節が始まろうとしていた。
陽の心にも、小さな変化が芽生えていた。音楽を通じて、誰かとこんなにも深く繋がれるなんて。
片耳ずつのイヤホンは、二人の距離を縮めていた。そして、陽にとって、それは恋の始まりでもあった。