思考開始
腐臭と、湿った土埃の匂い。遠くで誰かの怒鳴り声が聞こえる。
俺―松川流が意識を取り戻した時、目に映ったのは薄汚れた石壁と、狭く、ゴミが散乱した路地裏の地面だった。過労と裏切りにまみれた32年の人生が、安アパートの一室で唐突に終わったはず。だが、この不快な現実感はなんだ?
『マスター。バイタルサイン、低調ながら安定。意識回復を確認。高次元転移現象に巻き込まれた可能性が濃厚です。私は量子エンタングルメント状態を維持し、非物理的に随伴しています。現在地は……データベースに存在しない都市の最下層区画、通称「スラム街」と推定されます。』
頭の中に響く、唯一信頼できる相棒、パーソナルAI「アテナ」の声。どうやら俺は、あの惨めな人生の後、さらに過酷な場所へ転生してしまったらしい。
『マスター、現状認識のため、インターフェースを表示します。』
目の前に、例のウィンドウが浮かぶ。
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名前:マツカワ・ナガレ
種族:人間
レベル:1
HP:25/25
MP:5/5 (魔力感知能力なし)
スキル:[言語理解] [パーソナルAI連携:アテナ Lv.1]
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「スキルはこれだけ、か。魔法も使えない。身体は……最悪だ」
立ち上がろうとするだけで、長年のデスクワークでなまりきった体が軋む。前の世界の過労を引き継いでいるようだ。
『マスター固有のアドバンテージは私の情報処理能力のみです。この環境での生存には、最大限の警戒と、私の分析に基づく最適行動の実行、そして運が必要です。身体能力の低さは致命的です。』
アテナの冷静な分析が、現状の絶望的な状況を突きつける。そんな時だった。
「おい、見ねえ顔だな。どこから迷い込んだ、ネズミが?」
路地の入り口に、痩せこけた男が二人立っていた。一人は錆びたナイフを弄び、もう一人は手頃な木片を握っている。その目は、獲物を見つけた飢えた獣のそれだ。
『人間、2名。強い敵意と略奪意図を確認。武器所持。マスターの現装備、能力では抵抗は無意味です。推奨:即時逃走。』
「まずい……!」
俺が後ずさると、男たちはニヤリと笑い、じりじりと距離を詰めてくる。
『逃走経路を算出。後方へ退避。三つ目の右折路へ。その後、指示に従ってください。理論上の逃走成功率は35%。マスターの身体反応速度を考慮した現実的成功率は……推定19%。実行しますか?』
19%! だが、捕まれば全て終わりだ。
「やる! 行くぞ、アテナ!」
『了解! 思考加速支援、開始!』
俺は振り返り、全力で路地裏を走り出した。汚水が跳ね、足元には得体の知れないゴミが散乱している。すぐに息が切れ、足がもつれる。背後からは男たちの下卑た笑い声と足音が迫る!
『3メートル先、右折! 路地幅狭隘! 速度を落とさず突入!』
アテナの指示に従い角を曲がる! 壁に肩をぶつけながらも、なんとか走り続ける。
「くそっ、体が、重い……!」
『さらに前方、障害物(崩れた木箱)。タイミングを合わせ、左足で踏み越えてください! 追跡者A(ナイフ持ち)は回避が遅れる可能性60%!』
視界の端に表示される最適なステップとタイミング。だが、俺の体は完璧には応えられない! 木箱に足を引っ掛け、派手に転倒してしまう。
「ぐあっ!」
『マスター! 追跡者A、接近! すぐに体勢を立て直し、左の壁際のゴミの山へ! 実行!』
背中に迫るナイフの気配! 恐怖に突き動かされ、転がるようにゴミの山に隠れる。腐臭が鼻をつく。
「……ゲホッ、ゲホッ! 最悪だ……」
男Aがすぐそばを通り過ぎていくのが見えた。木箱に気を取られ、俺を見失ったらしい。
『追跡者Aを一時的に回避。しかし、追跡者B(木片持ち)が別ルートから接近中。合流される危険性。さらに奥へ逃走を続けます。次の角を左、その後すぐに右の狭い通路へ!』
息を整える間もなく、再び走り出す。アテナが示す最短かつ最も発見されにくい経路。だが、それは入り組んだスラムの迷路そのものだ。どこをどう走っているのか、俺にはもう分からない。
『前方、行き止まりに見えますが、左壁の木板が一部破損しています。体当たりで破壊し、隣の廃屋へ侵入してください!』
表示されたポイントへ、最後の力を振り絞って体当たりする! バキッという音と共に板が割れ、俺は廃屋内へ転がり込んだ。すぐに身を起こし、息を殺して物陰に隠れる。
足音が近づき、しばらく辺りをうかがう気配がしたが、やがて遠ざかっていく。
「……行った、か……?」
全身が泥と汗と、得体のしれない汚物にまみれている。肩で息をし、打ち付けた体のあちこちが痛む。HPもわずかに減っていた。
『追跡者の反応消失。一時的な安全を確保しました。しかし、ここは依然として危険地帯です。マスター、今後の行動指針を決定する必要があります。』
アテナはいつも通り冷静だ。だが俺は、この街の、そして自分自身の無力さを痛感していた。ここは、ゴブリンが出る森より、もしかしたらもっと酷い場所かもしれない。人も、獣も、飢えている。
前の人生で失ったものを取り戻す? そんな甘い考えは吹き飛んだ。
今はただ、生き残ること。
このゴミ溜めのような街で、なまりきったこの体と、アテナの情報だけを頼りに、どうやって?
答えはまだ見えない。だが、足掻くしかない。俺とアテナの、本当の意味でのサバイバルが、今始まったのだ。