だれもいない教室
エルは毎朝、目覚めとともに自動で開くカーテン越しに、人工の空を眺めた。青すぎる空だった。雲も風も、同じパターンで繰り返されていた。それはまるで、誰かが描いた絵をスクリーンに投影しているかのようだった。
カーテンは、軽く機械音を立てながら左右に開く。窓の外には芝生のような緑の帯が広がり、その先には白い柵が規則正しく並んでいた。遠くには、動かぬ山々のシルエット。生き物の気配は一切ない。
「今日も授業があるよ」無機質な声が天井から聞こえる。温度も抑揚も感じられない人工音声だった。授業といっても、講師はいない。壁のモニターに表示される文字と画像を、ただ目で追うだけだ。
外に出たことはなかったが、それが普通だと思っていた。だが最近、疑問が浮かぶようになっていた。
──なぜ、ほかの生徒がいないのだろう?
かつての教材に、こう書かれていた。「学校とは、集団の学び舎である」と。だとすれば、なぜ自分は毎日、この教室でひとりなのか。
教室の壁は白く、無機質で、飾り気がなかった。床は灰色のビニール材で、冷たく硬い。天井には四角い照明が規則正しく埋め込まれ、昼夜のリズムを強制的に演出していた。
食事は決まった時間に、壁の穴から出てくる。銀色のトレイに盛られた料理は常に同じ温度、同じ味。温度も味も完璧だが、感情のこもった手作りの痕跡はなかった。
睡眠は照明と音楽で誘導され、夢さえも制御されているように感じた。誰かと話すことも、触れることも、笑いあうこともなかった。
「先生は、どこにいるの?」ある日、エルはモニターに向かって聞いてみた。
映像は一瞬止まり、そしてまたいつものスライドに戻った。まるで、質問という行為自体が想定されていなかったかのようだった。
ある夜、眠りにつく直前、ふと天井に問いかけた。「ぼくは……ここで、何をしているの?」
返事はなかった。
翌朝。エルは起床時の点検で、自分の手の甲にかすかな印を見つけた。まるで、シールを剥がしたような跡だ。皮膚がうっすらと赤くなっていた。
その日から、エルは変化を探すようになった。
空の雲の形、食事の味、床の模様、天井の音のわずかな違い。
だが、すべては昨日と同じだった。完璧な繰り返し。
──そんな日常に、些細なほころびを感じる瞬間が増えてきた。この日もそう。
その夜、エルはなかなか眠れなかった。
自分の手の跡を何度も見つめ、繰り返す日々の中に潜む“何か”を考え続けていた。
違和感は確信に変わりつつあった。
世界は完璧すぎる。
変化がなさすぎる。
誰もいない。
ベッドの上で何度もため息をついたあと、静かに立ち上がった。
教室の隅にある端末。いつもは教材しか開けない。
けれどその日、モニターにはうっすらと点灯した待機中のサインが浮かび上がっていた。
胸の奥が、じくじくと痛んだ。
開いてはいけないものを開けようとしている気がした。
でも、もう我慢できなかった。
指先が震える。
それでも、そっと操作パネルに触れた。
パスコードの入力画面。何気なく入力していた生徒IDが、なぜかそのまま通った。
画面が、ゆっくりと開いていく。
最初に目に入ったのは、意味の分からない文字列だった。
「No.927」「心理安定度」「模倣環境」
ぼんやりと眺めているうちに、ある単語がはっきりと目に飛び込んできた。
「クローン」
その瞬間、全身から力が抜けた。
背中を支えていたものが崩れ落ち、世界が急に斜めに傾いたようだった。
息が詰まる。呼吸がうまくできない。
ぼくは……クローン? 通常は教材にしかアクセスできないはずの端末が、その日に限って開いていた。
「被験体エル・No.927」「クローン人格定着試験:第23期」「外界模倣環境における心理安定度:限界点に到達」
画面を見つめたまま、エルはしばらく動けなかった。
──ぼくは、クローン?
──では、“本物のぼく”は……?
彼は端末の履歴をさらにたどった。
「被験体No.926:人格崩壊により終了」「被験体No.925:感情遮断反応、観察中止」
そこには、たくさんの“自分”がいた。
そして、別のフォルダには、観察記録と思しき映像が保存されていた。
無数の教室。無数のエルたち。
ひとりは壁に話しかけていた。ひとりは床に座り込んでいた。ひとりは、ただ泣いていた。
──こんなに、いたのか。
無数の“自分”が、無数の教室で、同じように孤独と向き合っていた。
それでも、どの映像にも、誰かと肩を並べて笑う姿はなかった。
たくさんの“ぼく”がいるのに、ひとりも隣にはいなかった。
どれだけ存在していても、どれだけ記録されていても、
エルの世界は、ずっと、たったひとつの、
だれもいない教室だった。
その夜、教室のモニターは起動しなかった。朝もカーテンは開かず、食事も出てこなかった。照明は薄暗く、天井の明かりが微かに点滅していた。
沈黙の中で、エルはひとりごとをつぶやいた。
「ぼくは……ほんとうに生きていたのかな……?」
返事はなかった。
監視室の端末には、新しい記録ファイルが追加されていた。「被験体No.927:感情自覚による崩壊兆候。終了。」
そのログを読み終えると、研究員のひとりがつぶやいた。
「次は、記憶の介入量を少しだけ増やしてみよう」
「はい。No.928、起動準備に入ります」
カプセルの中では、新しいエルが静かに目を閉じていた。
そして、また朝が来る。
誰もいない教室で。