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彼は突然その場で跪いた。
「カシウス!?」
「あなたがいなければ今の僕はいませんでした」
「それはどういう……」
「僕が子どもの身体から成長することができたのは、愛を知ったからです」
「え、ええ。それは以前あなたが教えてくれたから知っているわ」
「ではこれは知っていますか?僕が愛した女性があなただということを」
「え……」
以前彼は愛する女性はいるが、その女性は他の男性と結婚しているので気持ちを伝えてないと言っていた。
(その女性が私……?)
「やっぱり気づいていなかったんですね。この一年、僕はあなたに男として見てほしくて頑張ってきたんですよ?」
「っ!」
そう言われてみればこの一年で彼との距離がずいぶんと近くなったように感じていたが、それは彼がただ私に懐いてくれているからだと思っていた。それがまさか私に男性として意識してもらいたいがための行動だとは思いもしなかった。
「本当はすぐにでも気持ちを伝えたかったけど、あなたの弱みに付け込むようなことはしたくありませんでした」
「……それは私が離婚をしたばかりだったから?」
「はい。あなたが離婚したと聞いて僕は喜びました。ようやくあなたに手を伸ばすことが許されるのだと」
「……」
「でもあなたは僕の側からいなくなろうとした。その時に気がついたんです。気持ちを伝えたところであなたを振り向かせることができなければ何の意味もないと。だからこの一年、どうにかあなたに振り向いてほしいと願っていました」
夕焼け色に染まった彼の瞳は真剣そのものだ。だから彼の言葉が嘘ではないことは頭では理解できたが、心から信じることはできなかった。
「……どうして?私なんかより素敵な女性はたくさんいるじゃない」
私は彼より九歳も歳上だ。それに見た目だって特段優れているわけではなく、美しい彼とは不釣り合いだ。
「年齢は関係ないです。あなたより素敵な女性なんていません」
だが彼はそんなこと関係ないと言う。
「で、でも私は役立たずなのよ?こんな私を必要としてくれる人なんてどこにもいな」
「僕がいます」
「っ!」
「僕にとってあなたは太陽です。僕はもうあなたなしでは生きていけません」
「……」
「愛してくれとは言いません。でも僕の側からいなくならないでください」
彼のために離れようとしていたのに、彼は離れないでいてほしいと望んでいる。彼の切実な想いを聞いた私の心は揺らいでいた。
離婚して自由になったとはいえ、長年植え付けられてきた思考は一年が経っても消えることはなかった。どこかには私を必要としてくれる人が存在すると思いながらも、私なんかを必要とする人なんていないのだと落ち込むこともあった。
でもそんな時は必ず隣に彼がいた。
「僕にあなたを幸せにするチャンスをください」
「……!」
彼のその言葉を聞いて思い出した。一度でも愛した夫とその母親、そしてお腹を痛めて産んだ愛する我が子。私が家を出ていけば大変な状況になることはわかりきっていた。それでも家を出たのは、幸せになりたかったからだ。
「どうかお願いします」
彼の手が私に向かって差し出される。差し出された手を見ると微かに震えていた。
(……そっか。怖いのは私だけじゃないんだ)
私は過去に縛られ心のどこかで幸せになることを恐れた。そして彼は生きる意味を失うことを心から恐れた。それでも彼は勇気を出して私に想いを伝えてくれたのだ。それなら私も勇気を出して幸せになるための一歩を踏み出さなければ。
私は一歩彼に歩み寄り、そっとその手を握った。
「っ!」
「……ずっと幸せになりたいと願っていたわ」
「……僕があなたを幸せにします」
「でも私はあなたを愛しているかわからないし、もし愛したとしても同じだけの愛を返せるのかわからない。……それでもいいの?」
「はい」
「私はあなたの愛を利用する悪い女かもしれないわよ?」
「あなたにならどれだけ利用されても構いません」
「もしあなたに他に愛する人ができたら?」
「それは絶対にあり得ません。僕の心が求めているのはアナベルさん、あなただけです」
彼の目の奥に宿る熱に気づき、胸が熱くなる。思い返してみれば、元夫に対してこのような熱を感じたことは一度もなかった。もしかしたら気づかなかっただけで、いつの間にか私の心も彼を望んでいたのかもしれない。それなら後は今の想いを言葉にするだけだ。
「……私を幸せにしてくれますか?」
「~~っ!もちろんです!」
「きゃっ!カ、カシウス!?」
私は彼に抱き上げられていた。驚きと恥ずかしさから頬が熱くなるのを感じたが、この夕焼け色の世界では誰にも気づかれないだろう。
「この国で、いやこの世界で一番幸せにしてみせます!」
それに私の言葉に喜んでいる彼を見たらそんな些細なことはどうでもいいと思えた。
この選択が正解だったのかはわからない。それでも彼を受け入れる選択をしたのは、きっとそれが正解であってほしいと私自身も望んでいたからだろう。彼を愛しているのかどうかもまだわからない。だけど時間はたくさんある。だから焦らずにゆっくり進んでいけばいい。
それから夕日が沈むその瞬間まで二人手を繋ぎ、湖を眺めた。きっと私はこの景色をずっと忘れないだろう。彼と見た湖は信じられないほどの美しさだったから。




