22 シモン
「お久しぶりですね」
「お前は、カリス・モートン……!」
扉の前に立っていたのは、あのカリス・モートンだった。
「私などの名前をあなた様に覚えていただけていたなんて光栄ですね。私は誰かのつまらない嫌がらせのせいで、商会での居場所がありませんでしたから」
「っ、誰が嫌がらせなど!そもそもお前が」
「はて?私は誰がとは申し上げておりませんが、あなた様はご存じなのですか?」
「あっ、いや……」
「まぁまぁそれくらいにして、モートン君もこちらに来て座りなさい」
「はい」
カリス・モートンは当然のようにスルス商会長の隣に座った。この男がなぜここにいるのかと疑問に思っていると、心を読まれたかのようにスルス商会長が話し出した。
「まぁ知っているとは思うが一応紹介しよう。彼はカリス・モートン君。一週間前からうちで働いてもらっている」
「は?何を言っているんだ?こいつはうちの従業員だぞ?俺は退職を認めた覚えはない!」
商会の従業員は、商会長の許可なく退職することができない。許可なく退職できてしまえば、商会の重要な情報が簡単に外に出てしまう恐れがあるからだ。退職する際には誓約書を取り交わす必要があり、誓約書には商会の機密は洩らさないなどのいくつかの条項がある。もしどれか一つでも条項を破れば、商会は退職した元従業員に対し罰を与えることが許されていた。
けれどカリス・モートンと誓約書を交わした覚えなどなく、退職を許可していないのだからあいつがスルス商会で働けるはずがない。なぜなら組合の規則で一人の人間が二つの商会に所属することは禁止されていて、破れば罰を受けることになるからだ。だから間違いなくあいつは今でもうちの従業員のはずなのだが、なぜかあいつとスルス商会長の表情は落ち着いていた。
「君は知らないのかい?商会長が認めなくても退職できる方法はあるんだよ」
「……なに?」
「私たちには従業員を守る義務がある。だが中には従業員を守らずに苦しめるやつもいてね。……例えば故意に仕事を与えなかったり、給料を支払わなかったり」
「っ!」
「それでも従業員は私たちの許可なく勝手に辞めるわけにもいかない。だからそんな理不尽から従業員を守るために特例があるんだよ。商会長の許可なく退職することができる特例が」
「なん、だと……?」
「ただ今までその特例を使う人なんて一人もいなかった。組合から特例に該当すると認められれば、その従業員が所属する商会を組合が公表することになっているんだ。もし公表されれば、その商会は客も信用もすべて失うことになる。だから私たちは従業員に特例を使わせないように色々と気をつけているんだよ。だけどつい先日、この特例が初めて行使されたんだ。そして組合からある商会の名前が公表された。その商会は……エバンス商会だ」
「う、嘘だ!」
特例の存在は知っていたが、ただ存在を知っていただけで、自分には関係ないからとそれ以上知ろうとしなかった。まさかそのようなものだとは思いもしなかったのだ。
「嘘だと思うのなら組合に確認すればいいさ。私がわざわざ嘘をつく必要などまったくないけどな」
「うっ……」
「そういうことでモートン君はもうエバンズ商会の従業員ではないんだよ。それに彼が他の商会じゃなくうちで働いてくれているのは、アナベル殿の提案なんだ」
「提案……?」
「うーん、提案というよりは条件と言った方が正しいかな?化粧水の権利を無償で譲り渡す代わりに、三つの頼み事をされてね。その一つが彼を雇うことだったんだよ。まぁこちらとしても商品に詳しい者がいた方がいいからね。喜んで彼を受け入れさせてもらったよ」
「アナベル様は仕事も給料も与えられず、孤立していた私に声をかけてくれたんです。そして私にやりがいのある仕事とその仕事に見合う報酬を与えてくれました。感謝してもし足りないほどです」
「君もアナベル殿に感謝した方がいい。今まで化粧水をエバンス商会で売ることができたのは、彼女が善意で権利を貸してくれていたからだ。本来ならすべての利益が彼女のものだったのに、あなたの妻として商会を支えるため多くの利益を手放してきたんだぞ」
「……」
「それに彼女の善意はそれだけではないぞ?化粧水の販売を始めるのは権利を譲り受けてから一ヶ月後、というのが二つ目の頼み事だからな」
「どういうことだ……?」
「君に理解できるかはわからないが、権利を譲り受けてから一ヶ月後というのは昨日のことだ。そして一昨日の時点でエバンス商会の化粧水の在庫はゼロ。これはきちんと調べさせたから間違いない」
「そ、それがなんだって言うんだ?在庫がないことが善意?意味がわからない!」
「要するに昨日、化粧水の権利が正式にアナベル殿から我が商会のものになったということだ。もしも昨日エバンス商会が化粧水を販売していたら、我々は賠償金を請求することができたんだよ」
「なっ!」
「だが彼女はそこまで計算済みだったのだろうな。彼女の善意のお陰で、君は賠償金を請求されずに済んだということだ」
「……」
「さすがに私も驚いたよ。そこまで見通せる人などそうはいない。できることなら彼女と一緒に仕事がしたかったよ」
「商会長。アナベル様はようやく自由になれたのですから……」
「ハハハッ!わかっているさ!ただ彼女がいかに優秀で、そんな彼女を逃したことは大きな損失だということを彼に言いたかっただけさ」
「そういうことでしたか」
なにやら目の前の二人は楽しそうに会話をしているようだが、俺の頭の中はそれどころではなかった。
(妻は役立たずではなかったのか……?)
「……」
「あぁ、あと君に一つだけ教えてあげよう」
「え?」
混乱する俺に、スルス商会長は更なる追い討ちをかけてきた。
「君はアナベル殿を妻と言っていたが、もう既に離婚しているのだろう?離婚した相手を妻と偽るのは信用に関わるぞ」
「なっ!なぜそれを……」
「離婚したことを隠していたようだが、商人の情報網を甘く見てはいけないよ。……っと、君も商人だったな!」
「ぐっ……」
「まぁ私が持っている情報網がすごいというのは否定しないが、君が離婚したという話はそんな情報網がなくても簡単に知ることができたぞ。君の離婚を嬉々として吹聴している輩がいたからね」
「なんだと!?一体誰が」
「君の母親さ」
「は……?」
「やはり知らなかったんだな。まぁ離婚したところで、君が浮気相手に入れ込んで妻を蔑ろにしているというのはこの辺じゃ有名な話だったからね。みんなアナベル殿に同情しているよ」
「え?は?」
「要するに君は何も知らなかった、ということだ」
「っ……」
(もしかして俺は何かを間違えたのか……?)
スルス商会長が最後に言った。
「あぁ、そろそろ商会に戻った方がいいんじゃないか?特例の件でもうすぐ商会に組合の捜査が入るはずだからね」
そうしてここから転げ落ちるのはあっという間のことだった。




