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「それはどういうことですか?契約を終わりにするって……」
彼は突然の話に戸惑っているようだ。それもそうだろう。手紙のやり取りは続けていたが、会うのは五年ぶりになる相手からいきなりこんな話をされたのだ。すぐに理解できなくても仕方ない。だけどこれは私のためでもあるが、彼のためでもある。優しい彼をいつまでも私に縛り付けたままにするわけにはいかないのだ。
「その言葉の通りよ。今までは私があなたの窓口になっていたけど、もうやめたいの」
「ど、どうしてですか!?僕が何か気に障るようなことでも……」
「あなたは何もしていないわ。……悪いのはすべて私なの」
「アナベルさんが悪いわけ」
「私があなたに契約を持ちかけたのはね、お金が必要だったからなの」
「っ……」
「契約をしないかとあなたに持ちかける前日にね、私は心に決めたことがあったの」
「……何を、決めたのですか?」
「あなたに嘘はつきたくないから正直に言うわ。……私ね、家族だと思っていた人たちからずっと役立たずって言われてきたの。あの頃は毎日が辛くて本当は早く離婚したかったけど、息子がいるからなんとか堪えてきたわ。だけど息子からも役立たずだって言われて、もう頑張れなくなっちゃってね。息子が成人を迎えたら離婚して家を出るって心に決めていたの。でも離婚して家に帰るわけにもいかないし、それなら一人で生きていかないといけないでしょう?そのためにお金が必要だったの。だからお金を稼ぐためにあなたに契約を持ちかけたのよ」
彼の才能を私欲のために利用したのだ。だが当初の目的を達成した今、これ以上彼を利用し続けたくなかった。
「……」
「もちろん仕事はきちんとこなしていたから安心して。それに今回のことで使ったお金は必ず返すわ」
「……」
「あなたの才能は間違いなく本物よ。あなたの絵に心奪われたと言った言葉は嘘じゃないわ。ただ、あの頃の私は心が弱かった。だからこれからはお金のためじゃなく、あなたのその才能のために力になってくれる人の方がいいと思うの。あなたは今や世界屈指の画家だもの。きっとすぐにでもあなたを心から想う人が見つかるはずだわ。だから私との契約は終わりに」
―――ガタン!
「カシウス……?」
今まで黙っていた彼が突然立ち上がった。その反動で椅子は倒れてしまったが、彼はそんなこと気にもせず、私に近づいてくる。今度は私が戸惑ってしまった。先ほどの理由を聞けば、私との契約を終わりにしたいと思うはずだと考えていたが、彼の表情は私の話を受け入れていないように思えた。
そうして戸惑っている間に彼は私の手をとって跪いた。
「っ!カ、カシウス?」
「……んです」
「え?」
「僕はあなたがいいんです!」
そう言った彼の手は微かに震えていた。昔と変わらない絵の具のついた手。指には長年筆を握ってできたであろうタコができている。この手は絵にひたむきに向き合ってきた人の手だ。でも昔と違うのは、彼の手が私の手を包みこんでしまうほどに大きくなっていたということ。
「……私はあなたを利用していたのよ?そんな人間はあなたのそばにいるべきじゃないわ」
「それでも構いません!あなたにだったらどれだけ利用されたっていい」
「っ……」
「あなたは僕の太陽です。人は太陽が無ければ生きていけません。……だからどうか、僕のそばからいなくならないでください」
「カシウス……」
ここまで言われてしまっては、今すぐ説得するのは難しいだろう。彼から必要とされていることは嬉しく思うが、やはり私が彼のそばに居続けるわけにはいかない。彼も冷静になればきっと受け入れてくれるはずだ。だから今はもう少し時間が必要だと思った。
「……わかったわ」
「っ!」
「一年」
「え?」
「一年だけ、ひとまずあなたとの契約を停止させてほしいの」
「ど、どうしてですか?」
「……私ね、いつか自由になったら絵を見に世界中を旅したいと思っていたの。そしてようやく“役立たずの私”は自由になれた。わがままだってことはわかってる。もちろんあなたに迷惑をかけることもね。だけどこの気持ちを抑えることができないの。だからどうか一年だけ私に時間をもらえないかしら」
嘘は言っていない。これは正真正銘、私の本心だ。その一年の間に彼が冷静になってくれればと願ってはいるが。
「……わかりました」
「っ!あ、ありがとう!それじゃあ契約の話はまた一年後に」
「一緒に行きます」
「……え?」
「僕もアナベルさんと一緒に行きます」
「な、何を言っているの!?一年よ?そんな長い時間、ここを空けるわけにはいかないでしょう?」
「問題ありません」
「旅先じゃ満足に絵を描くこともできないのよ?」
「ちょうど新しい作品のために、色んな景色を見に行きたい気分だったんです」
「でも」
「その旅で使うお金もいつか僕に返すつもりなんですよね?」
「うっ……そうよ。一年たったら返すようにするから……」
「返さなくていいです。その代わり僕も一緒に行きますから」
「カシウス!」
「よし!そうと決まれば準備をしなくちゃいけないですね。すぐに用意しますので少し待っていてください」
彼はそう言ってすぐに準備を始めてしまったが、本気で私に付いてくるつもりのようだ。旅に行くのは元から決めていたことだが、私が一年と言ったのは、彼に考える時間を与えるためだ。それに私は元いた国に戻るつもりはなく、旅の途中で気に入った国があれば、そこでこれからの人生を生きていこうと考えていた。だから実際にはどれくらいの期間旅をするかは決めていないのだが、あの様子からして止めるのは難しそうだ。
それにさっきの彼の表情には見覚えがあった。
『あなたのために絵を描きます』
強い意思を宿した目で私の目を見つめながら、契約を結んだあの日と同じ。
彼は何かを決意した、そんな目をしていた。




