16 ココア
「はぁ……」
セイは廊下の、玄関側の隅に腰を下ろし、溜め息を吐いた。
明日どころか、今日の夜までナツキと一緒に居られると嬉しくなっていた自分。だというのに偶然にも、アカネという幽霊を、自分をキッカケに悪霊化させてしまった。けれど、ナツキの手助けもあって成仏させてあげられることができた。それは良かったと思うけれど、ナツキに、逆に心配をかけてしまった。その上、自分を心配してくれた彼女は、顔を寄せてきて、自分の頬に、手を添えて。
あれは、あの顔は、本当に自分を気遣ってくれている顔だ。もう何百年も見ていない顔だ。
「……クソッ」
悪態をついても、頭の中の混乱はなくならない。感情がめちゃくちゃだ、とセイは髪をかき回す。
アカネのもの言い、そしてナツキがアカネを宥める時に言った言葉。ナツキはアカネがどんな目に遭っていたのか、予想していたか知っていたのだろう。その、アカネの記憶の断片が、自分の中で渦を巻く。……思い出したくないのに、その記憶に蓋をしたいのに、ドロリとした、腐った記憶が蘇りそうになる。
「この……軟弱野郎が……」
怒りと諦めが混じった声で呟く。
早く頭の中を整理して、普段通りに戻らなければ、あの人を心配させてしまう。
「……はぁ……」
セイはまだ重い心のまま、溜め息を吐いて、髪の毛を手ぐしで整え、立ち上がる。
リビングからは、ナツキの声とミケたちの鳴き声が聞こえてきた。
「っ……」
瞬間、怯えるように、足を止めてしまう。
あの、明るい場所に、自分は相応しいのだろうか。あの人の側に居て、良いのだろうか。
「セイ、ちょっといい?」
「っ、あ、はい……」
扉の向こうからの声に、反射的に肯定してしまった。けれど、今の自分は、彼女の前で上手く笑えるだろうか。
「あのね、ココアを作ってきたんだよ」
扉を少し開けてひょいと顔を出したナツキは、甘い香りと湯気を漂わせる白いマグカップを見せてきた。
「ココア……?」
「うん。ずっとそこにいるとさすがに寒いでしょ? まだこっち来れないなら、せめてって思ってさ」
マグカップを持っている手の反対の腕には、ブランケットがかけられている。
「あ、ココア苦手?」
「いえ……大丈夫、です……」
「じゃ、よかったら飲んでね。あ、残しても大丈夫だからね。それと、コレ」
ナツキは、ココアのマグカップと一緒にブランケットを差し出した。
「良かったら使ってね」
「は、い……」
セイがそれらを受け取るのを見てから、
「じゃ、戻るから。待ってるね。ゆっくりでいいからね」
これが当たり前のことであるような笑顔を、眩しいくらいの笑顔をセイに向けて、ナツキはリビングへ戻っていった。
「……」
セイは立ったまま、ココアに口をつけ、
「…………甘い……あったか……」
そう呟くと、さっきの場所に座り直し、ココアを少しずつ、ゆっくりと飲んだ。
*
「すみません。お手数をおかけしました」
廊下から戻ってきたセイに、頭を下げられてしまった。
「いいよいいよ。それよかもう大丈夫?」
「はい。落ち着きましたので」
「そっかそっか」
私はセイからマグカップとブランケットを受け取ると、ブランケットは一旦ソファに置いて、空になっていたマグカップを洗ってラックに置いた。
「で、ご飯どうする? メニュー変更する? それとも食べない方がいい?」
「いえ、食べられると思いますので。決めた通りで大丈夫です」
「ん、分かった。じゃあ、肉じゃがとほうれん草のおひたしとお味噌汁を作りましょうかね」
言いながら、私が棚に引っ掛けてあったエプロンを渡すと、
「……が、頑張ります……!」
セイはエプロンを受け取りながら、深刻そうな顔をして言う。
「うん、肩の力を抜こうね。セイには簡単かつ基本的なことだけしてもらうから、てか覚えてもらうだけだから、大丈夫」
「は、はい……」
メニューを決める際、セイに色々と質問し、料理のレベルはざっくりと把握してる。
『セイ、大さじと小さじがどのくらいか分かる?』
『……えっと……』
『一カップが何CCか分かる?』
『……』
『野菜、切り方に何種類かあるの、知ってる?』
『……すみません……! もう、なにも……!』
と、こんな感じだったので、セイは本当に超がつくほどの初心者だと思って接した方がいい、という結論に至った。
「ご飯は炊けてるから、そのままでいいよ」
「炊けてる、んですか」
セイが炊飯器に目を向けながら言う。
「うん。いつも日曜のうちに平日分のご飯も合わせて炊いておくの。だから一人暮らしだけど、四合炊ける炊飯器なんだよね」
「えっじゃあ、今日僕も食べてしまったら……」
「大丈夫大丈夫。まだ予備の冷凍ご飯もあるから」
申し訳無さと慌てたものが混ざったカオをされるけど、本当に問題ないので、証拠としてそれを見せることにした。
「ほら、これだけあるんだよ」
冷凍室から、ラップで四角く包んだご飯を五個出し、戻す。
「だから憂うことなどないのさ」
「……なるほど……?」
セイが分かったような分からないような顔をするから、
「うん、つまりね。さっきも言ったけど、あれは予備のご飯なの。疲れてご飯を用意できなかった時とか、単純にめんどくさい時とか、そういう時に活躍するんだよ」
「……なるほど……」
今度は少し理解してくれたようなので、私は冷蔵庫から離れて、調理台に戻る。
「で、セイ。肉じゃがと、おひたしと、お味噌汁。どれを一番最初に作ったほうがいいと思う?」
試しに聞いてみる。
本当は計算して同時進行させながら作るのがやりやすいんだけど、今はなんちゃってお料理教室だし。
「え、そ、」
セイがあわあわしだす。
「え、え……と……にくじゃが?」
「ある意味正解」
「ある意味……?」
「んー、我が家流の正解はね。どれでもいい!」
「え?!」
「になるんだなー」
「え、え、な、なんかズルくないですか……?」
にひひ、という顔を、少し不満そうにしてるセイヘ向ける。
「肉じゃがもおひたしも、お味噌汁も温め直せるでしょ? 特に肉じゃがは、作りたてを食べるより、粗熱が取れて味が染み込んだもののほうが美味しい」
「そうなんですか?」
「そうなんですよ。だから、慣れていないうちはゆっくり、自分のできることから始めて、少しずつ完成させていく。それで結局同時に完成しても良いけど、ま、そういうことは滅多にないし。まずは一つのことに集中したほうがいいと思うから──」
私は言いながら、ほうれん草の袋を開け、水を張った大きめのボウルへ、ほうれん草の根本を浸しながら言った。
「味噌汁を作ろうか」
 




