06_調子が狂ってしまいます
二人で並んで講義を受ける。エルヴィアナとクラウスは、長らく学園内で不仲説が出ていた。だから、並んで座る様子を見た他の生徒たちに「何があったんだろう」とひそひそ内緒話された。
けれど授業中、噂好きの生徒たちとは違う、熱っぽい視線を隣から感じた。
(気が散る……)
クラウスが授業そっちのけでこちらを凝視してくる。チラ見ではなく凝視だ。恍惚とした瞳の奥には古典的なハートマーク♡が浮かんでいて。これでは鬱陶しくて全く集中できない。
周りの生徒に聞かれないように、身を寄せて耳打ちする。
「前を見なさい前を」
「エリィと授業中に内緒話……」
「感激しなくていいから」
「すまない。勉強を頑張る君の横顔が綺麗で見蕩れた」
「はいはい」
ほのかに顔を赤くさせつつあしらう。今はこの人を相手にしている時間ではない。
「照れた顔も可愛い」
「そういうのいいから……本当」
赤い顔をペンを持った腕で隠し、目を逸らした。あまり甘い言葉をかけられると、今度は違う意味で集中できなくなる。彼はふっと笑い、ようやく講義に集中し始めた。
ノートに講義の内容を書き取るクラウス。紙に滑らせるペン先の音が聞こえてきて、少しだけ視線を向けて覗き見る。
こんなに近くで顔を見る機会はあまりない。彼は、気づかないうちに随分大人びていて。伏し目がちな瞳に長いまつ毛が影を落とすさまは色っぽい。
(真剣な顔……格好いい……――ハッ!)
我に返って首をぶんぶん横に振る。授業中に婚約者の横顔に夢中になってしまうなんて、とんだ体たらくだ。魅了魔法がかかっているならまだしも。
すぐに自分を諌める。でも、授業に意識を戻す前にもう一度だけ、ちらっと横を覗き見た。
(やっぱり、凄く格好いい)
……その瞬間。
「あまり見られていると、顔に穴が空きそうだ」
「!」
「――見蕩れたか?」
彼のつつじ色の瞳と視線がかち合う。不敵に上がった口角を見て、慌てて誤魔化す。
「自惚れないで。虫が……ついてたから」
「虫……」
顔をしかめて手で頬を撫で、「どこにいる?」と尋ねてくる彼。クラウスは虫が大の苦手だ。エルヴィアナは無視したまま、視線を下に落とした。
◇◇◇
授業が終わり、教室までの見送りは結構だからと言って、クラウスより先に講堂を出た。彼はあのあと、ずっと虫が気になっていたようで、エルヴィアナを見てくることはなかった。
「レディ! お待ちをー!」
「逃げないでくれ、愛しのレディ!」
(どこから湧いて出た!?)
クラウスがいなくなったのを目ざとく見つけた取り巻き美男子たちが、どこからか現れて追いかけてきた。まるで虫みたいだ。エルヴィアナはそれを走ってなんとか撒いた。
「はぁっ、はぁ……」
庭園の垣根の陰に隠れ、乱れた呼吸を整える。
(あの人といると、調子が狂う)
授業中にクラウスと目が合った瞬間のことが思い浮かび、顔に熱が集まっていく。火照った顔を冷ますように手で扇いだ。
今のクラウスといると、覚悟が鈍ってしまいそうだ。つい、悪女のフリを投げ出してしまいそうになる。抱えている事情を全部吐いてしまいたくなる。
頭を冷やすために、広い庭園をただ歩き続けた。
花壇に、赤いつつじがいっぱいに植えられている。露に濡れたみずみずしい花弁の赤紫色は、クラウスの瞳を彷彿とさせる。そっと手を伸ばし、花弁を指先で撫でたそのとき。
「――話が違うではありませんか。エルヴィアナさん」
石畳を踏むこつこつという靴音と、鈴を転がすような甘く可愛らしい声が耳を掠める。振り返るとそこに、王女ルーシェルが怖い顔をして立っていた。
「……王女様」
深く頭を下げて礼を執る。彼女は優雅にこちらに歩いてきて、身をかがめながら耳元で囁いた。
「クラウス様と別れてくださる約束でしたでしょう? それがどうして急に仲良くなっていらっしゃるの。わたくしへの嫌がらせですか?」
「申し訳……ありません」
(……って、なんでわたし、浮気相手に謝っているんだろう)
本来、不義理を働いているのはルーシェルの方だ。こちらが下手に出るのは妙だ。
……邪魔者の自分は身を引くつもりだった。本気で。でも、想定外に魅了魔法が発動してしまい、婚約破棄を失敗してしまった。それからというもの、甘やかしている婚約者に絆され気味である。
「……ひどいです。クラウス様はわたしのものなのに、お奪いになるなんて」
両手で顔を覆い、しおらしげに泣く彼女。 「わたしのもの」も何も、彼は一応エルヴィアナの婚約者であり、略奪しようとしているのは彼女の方で。奪うという表現はちょっとおかしい。
(クラウス様は本当にこの方のことがお好きなの……?)
自分本位でわがままな印象があるルーシェル。あまり理性的でない彼女のどこを気に入ったのだろうか。
そもそもクラウスは、婚約者がいるのに浮気をするような不誠実な人ではない。
ルーシェルの言葉を鵜呑みにして、勢い余って別れを切り出したが、真相は未だに闇の中。
(でも一応……王女様には本当のことをお話しするべきよね)
彼女が言うように、本当に二人が想い合っていたというなら。ルーシェルには魅了魔法の真実を知らせておくべきだろう。
「王女様にお話ししなければならないことがあります」
二人でベンチに座り、事の顛末を打ち明けた。家族とリジー以外には初めて話す。13歳の狩猟祭から今に至るまでを、包み隠さず全て伝えた。
「――つまり、その魔獣を見つけて退治すれば、クラウス様の魅了も解けるということ?」
「はい」
そうしたら、彼はルーシェルに惚れている心を取り戻すことになるだろう。エルヴィアナの元を離れて、彼女の元に行くのだ。
「まさか、あなたが悪女と言われてきた背後にそのような事情があったとは思いませんでしたわ。苦労されてきたのね」
「……ええ」
「ご自分の名誉を傷つけてまでクラウス様を気遣うだなんて……。そんなにあのお方のことを想っておいででしたの」
こくんと頷けば、彼女は呆れたように「不器用な人ですね」と漏らした。もっと違うやり方はあったのかもしれない。けれど、エルヴィアナはクラウスを守るために沈黙する道を選ぶことしかできなかった。
「協力いたしますよ。その魔獣の捜索」
「本当ですか?」
「二言はありません。王城の裏の森なら、城の者に指示しておきましょう。もちろん、呪いの件は口外しないとお約束しますわ」
すっとベンチから立ち上がるルーシェル。
「ありがとうございま、」
「――でも。もし魔獣が見つからなければ、あなたは死にますのよね? そう遠くないうちに」
感情の読めない表情を見たとき、背筋がゾクッとした。そこはかとなく狂気を感じてしまって。恐る恐る頷くと、彼女はにこりと天使の笑顔を浮かべながら、「そうならないように一緒に頑張りましょう」と優しく言い残して、踵を返した。
背を向けたルーシェルが、意地の悪い笑顔を浮かべているのを、エルヴィアナは知らない。
◇◇◇
王城にて。
ルーシェルは自室のチェストに置かれた檻を眺めながら不敵に微笑む。
「まさかあなたがエルヴィアナさんを呪った魔獣さんとはね? ニーニャ」
「ナー?」
檻の中には、白い毛をした愛らしい獣が。片目が青、もう片目が金のオッドアイで、きつねとねこのハーフのような風貌に、黒い尻尾をしている。この子は数年前に王城の裏の森で捕まえてペットにしたのだった。臆病で警戒心が強く、人に懐かないので檻に入れたまま飼育している。
ニーニャの特徴は、エルヴィアナが魅力魔法を解くために必死に探している魔獣の特徴と一致している。探しても見つからないはずだ。魔獣はずっと、ルーシェルの手元にいたのだから。幸いなことに、ルーシェルは噛まれて呪いを受けてはいない。そうなる前に先に知れて良かった。
(絶対にこの子を差し出してあげませんよ)
もし魅了魔法の呪いが解けてしまえば、エルヴィアナは悪女ではなくなってしまう。そうしたら、クラウスとの関係が修復してしまうかもしれない。それは絶対阻止しなくては。
クラウスは、ルーシェルが知る中で最も魅力的な青年だ。だが、どんなに口説いても少しもなびいてくれなかった。男をはべらせ裏切り行為を働き続ける婚約者を――嫌いになることができないらしい。エルヴィアナを不審に思いながらも、情の間で揺れていた。彼がどんなにエルヴィアナに歩み寄ろうとしても、彼女の方は冷たく突っぱねるばかりで、クラウスはいつも寂しそうだった。
「いい加減エルヴィアナさんとお別れしてはいかがです? 彼女はクラウス様のことなんて少しも想っていらっしゃいませんよ。それにあのような不実な令嬢と夫婦になったところで幸せにはなれません」
「そうだとしても、俺は彼女を嫌いにはなれない。別れるつもりもない」
「ね、もしよろしければ今度王城の庭園で一緒にお茶でもいかがです? 色々お話を聞きますよ」
「……気持ちだけ受け取らせていただく」
いつ話しかけても硬いガードであしらわれ、それが一層ルーシェルの心に火をつけた。王家とルーズヴァイン公爵家は密接な関係にあり、彼もルーシェルのことを無下にはできない立場。だから立場を利用してしょっちゅう声をかけた。特に、エルヴィアナが近くにいるときをあえて選んで、楽しそうに話してやった。その度にエルヴィアナが暗い顔をするのがいい気味だった。
しつこく話し続けてみて分かったのは、彼はエルヴィアナとの思い出を語るときだけは、笑顔になるということだけだ。よっぽど好きだったのだろう。
「もうすぐ狩猟祭ですね。何か狩猟祭にまつわる思い出などはありますか?」
「……昔、エルヴィアナがくれたお守りを今も大切にしている」
いつも仏頂面なのに、とても柔らかい表情をするクラウス。
(……また、エルヴィアナさんのお話)
それが気に入らなくて、エルヴィアナに「クラウス様、あなたのことがお嫌いなんですって」などという嘘を吹き込み、別れるようそそのかした。エルヴィアナは大勢の男と浮気しているくせにひどく悲しそうな顔をして、明らかに不本意そうに承諾した。
でも、エルヴィアナの一連の行動が呪いのせいだとしたら腑に落ちる。
「最後にクラウス様を手に入れるのは、このわたし」
ほくそ笑みながら呟けば、ニーニャが不思議そうに小首を傾げた。
エルヴィアナは呪いが解けなければ、生命力が吸い取られて死ぬ。そうしたら、婚約者を喪失したクラウスの弱い心に付け込み、慰めてあげるのだ。きっとそのときは、ルーシェルのことが好きになるだろう。
クラウスを初めて見たのは王立学園の入学式だった。その瞬間、恋に落ちた。氷のように冷たい美貌に、一瞬で心を鷲掴みにされた。
美しいものは好きだ。王女として蝶よ花よちやほやされ、ほしいものはなんだって手に入れてきた。だから今度も必ず手に入れてみせる。ルーシェルに手に入らないものなんて――この世界には存在しないのだ。