25_枯れてしまった花
クラウスの誕生日会のあと、王城に帰ったルイスは真っ直ぐにルーシェルの部屋を訪れた。
「きゃあっ!」
「しっかりなさってください、王女様!」
重厚な扉の奥から、物音と使用人の悲鳴が漏れ聞こえた。
(……またか)
小さく息を吐けば、中から二人の使用人が辟易した様子で出てきた。彼女たちはルイスの姿を見つけて仰々しくお辞儀をする。
「お、王子様……」
「王女の様子は?」
「……相変わらずでございます。感情の起伏が激しく、物を投げたり壊したり……。それから、使用人のことを度々『クラウス様』とお呼びになって……」
「そう。いつもすまないね」
「い、いえ。仕事ですから」
部屋にそっと入る。カーテンを閉め切った薄暗い部屋の、天蓋付きの寝台の上で、ルーシェルは膝を抱えて座っていた。抜け殻のようになってしまった彼女。陶器のようだった白い肌は荒れていて、絹のようだった髪も艶をなくして乱れている。俯いたままぶつぶつと独り言を言っているかと思えば、ルイスの存在に気づいてにこりと笑った。
「ようやくわたくしの元に来てくださったのですね。――クラウス様」
ルイスは肩を竦め、彼女の元に歩み寄った。
「遂に兄のことも分からなくなったかい? 僕はルイスだよ」
しかし、ルイスの言葉は彼女の耳には入らない。するりと痩せた腕が伸びてきて、頬を撫でられる。落ち窪んだ目を恍惚と細める表情に、背筋がぞくりとする。
「あの女はようやく死んだのですか?」
「…………」
「あの女――エルヴィアナさんのせいで、今までわたくしにはつれない態度を取られていたのでしょう? 本当はわたくしがお好きなのに……」
ルーシェルは現実と妄想の区別もつかなくなってしまった。
「わたくしのものになってくださるのでしょう? クラウス様。あんな悪女よりわたくしの方がよっぽど愛されるのにふさわしいですもの」
(君は……それほどクラウスのことを……)
一体いつの間に、クラウスにこうなるまで心酔していたのだろうか。
違う。彼女は多分、孤独を癒したかったのだ。小さなころからなんでも手に入り、甘やかされて育った。けれどどこか乾いていた。両親はルーシェルをそれなりに可愛がっていたが、問題を起こしたルーシェルを簡単に見捨てるような人たちだった。
ルーシェルは本当は愛情に飢えていて、クラウスに縋ることで救いを求めていたのだと思う。
(羨ましかったんだね。君は……エルヴィアナ嬢のことが)
どんなに評判が悪くても、どんなに嫌われ者でも、クラウスはエルヴィアナを愛していた。そういう揺るがない愛情を自分も欲しかったのではないか。焦がれていたのではないか。
でもエルヴィアナとルーシェルは決定的に違う。他人のことを気遣うエルヴィアナと、自分を満たすことばかりを考えるルーシェルでは。
するとルーシェルははっとして、元々蒼白な顔を更に青白くさせた。そしてわなわなと震えながら、両手で顔を覆った。
「嫌っ……見ないでくださいませ。今のわたくしはとても醜いから……っ。鏡、鏡を……! セレナ! 鏡を持ってきなさい!」
「セレナさんはもうここにはいないよ」
セレナはルーシェルに対する忠誠心や敬愛は元々持ち合わせておらず、こんな状態のルーシェルに見切りをつけて城を去っていった。それすらルーシェルは忘れてしまっているらしい。
顔に怪我を負ってから、ルーシェルはやたらと鏡を欲するようになった。しかし、以前の美しい顔から変貌してしまった姿に絶望し、鏡をすぐ割ってしまうのだ。その度に手に怪我をしてしまうので、割れ物は渡さないようにしている。
彼女は両手で顔を隠したまま、ぐすぐすと泣き始めた。
「うぅ……見ないで、クラウス様。醜いわたくしを見ないでくださいまし……」
彼女は事件から心を病んでしまった。幻覚や幻聴症状があり、訳の分からないことを言ったりしたりする。自業自得だと言ってしまえばそれまでだが、彼女は実の妹だ。変わり果てた姿を見る度に胸が苦しくなる。
「可哀想なルーシェル。君はどこで道を間違えてしまったんだろうね。もっと違う生き方もできただろうに」
「ふふ、クラウス様……ふふ」
つい少し前までは泣いていたのに、今度はまた、遠いところを見つめながらぶつぶつと呟き始めた彼女。ルイスは顔をしかめた。
王家は、エルヴィアナに対して謝罪をした。そして、王女が魔獣を使役していたことは決して口外しないようにと頼んだ。エルヴィアナは聡い人なので、全て許して要求も受け入れた。王家は地位を守ることしか頭になく、ルーシェルが心を病んでしまっても、これでもう問題事を起こすこともないだろうとどこか安心している様子だった。ルイスはそれに失望した。
ルーシェルはエルヴィアナを見殺しにしようとしていた。だがエルヴィアナはルーシェルを責めたりせず、「彼女は十分すぎる罰を受けたから、もういい」と言った。彼女は両陛下との謁見後、変貌したルーシェルを見て涙していたのだった。
……昔からルーシェルはわがままで、下女たちに執拗に嫌がらせをし、社交界でも揉め事ばかり起こしていた。今、その報いを受けているのだ。
(ルーシェル。僕は……兄失格だ)
実の妹がこんなことになっているのに、同情しきれない自分がいる。ルーシェルのために涙すら流せない自分は、兄として失格かもしれない。ルーシェルを哀れに思って泣いているエルヴィアナを見てから、そんなことを思った。
◇◇◇
ルーシェルは入学式のとき、とても麗しい青年を見かけた。調べてみると、彼は公爵家の嫡男、クラウス・ルーズヴァインというそうだ。ルーシェルはアカデミーには通っていなかったし、デビュタントもまだだったので、彼と面識はなかった。
(格好いい人)
最初はただの憧れだった。ルーシェルは、彼のことを目で追うようになった。クラウスは基本的にいつもひとりで行動していた。ほとんど笑わないし、他人との交流が極端に少ない。彼は一体何に関心を持ち、何に心が動くのだろう。気になって観察していれば、彼の鉄面皮が唯一、崩れる瞬間があった。婚約者のエルヴィアナと話すときだ。
エルヴィアナはいつも目尻を釣り上げているような人で、可愛げがない人だった。それにいつも、美男子を取り巻きにしていて嫌われていて、評判も悪い。
学園の敷地内で、取り巻きを引き連れたエルヴィアナと、そこに遠慮がちに声をかけるクラウスを見かけた。
「エルヴィアナ。次の園遊会のことで話があるんだが」
「ごめんなさい、今急いでるからまた今度にして」
クラウスはエルヴィアナに冷たくあしらわれると、普段はぴくりとも動かない眉を、悲しげにひそめた。エルヴィアナはそのまま取り巻きたちとどこかに消え、取り残されたクラウスの背中は哀愁が漂っていた。
でもまた別のとき。エルヴィアナが少しでも優しさを向けると、クラウスは露骨に嬉しそうにした。
どうして。どうして嫌われ者のエルヴィアナのことを愛せるのだろう。ルーシェルは、一途に婚約者のことを恋い慕うクラウスのことが眩しく見えた。
(……エルヴィアナさんが、羨ましいですわ)
ルーシェルはいつしか、エルヴィアナからクラウスを奪う方法ばかりを考えるようになったのだった。自分もあんな風に誰かに深く愛されてみたい、と。