16_罠にかかったのは
クラウスは咄嗟に、エルヴィアナにバルコニーに隠れるよう促した。エルヴィアナはカーテンの隙間から様子を覗き見ながら、耳を澄ませた。
(王女様は何をお考えなのかしら)
ルーシェルは優美に微笑み、つかつかとクラウスの近くまで歩んだ。
「館の使用人にクラウス様がこちらにいらっしゃると伺ったのですが……。エルヴィアナさんは?」
「ここにはいない」
「そうですか。まぁ、あの方にはもうクラウス様に合わせる顔はないでしょうね」
ルーシェルは、クラウスをうまく騙せたと勘違いしているようだった。自分が騙されているとは夢にも思っていないだろう。
「あなたにお伝えしたいことがありますの」
彼女はクラウスの胸元に手を添えた。うっとりと目を細め、クラウスの顔を愛おしむように眺めた。
そして、玲瓏と告げる。
「クラウス様。わたくしと結婚しましょう」
一瞬、耳を疑った。仮にも婚約者がいる相手に求婚するだなんて、常識がない人だと。ルーシェルは切なげに目を伏せた。
「先程の騒動、気の毒でしたわね。まさかエルヴィアナさんが、第七王子まで篭絡していらしたなんて。わたくし、クラウス様が不憫でいても立ってもいられませんでしたの」
クラウスはルーシェルの身体をそっと引き剥がした。彼女は面白くなさそうに顔をしかめた。
「あの方はクラウス様にはふさわしくありませんわ。わたくしと婚約し直せば、誰も文句は言わないでしょう。彼女の振る舞いは、婚約破棄に十分値します。――そうだ」
ルーシェルは人差し指を唇の前に立てた。
「今日この夜会で――公開断罪する、というのはどうでしょうか」
ルーシェルは、クラウスがエルヴィアナに冷めていると思っているようだ。彼は、ルーシェルにずいと詰め寄り、表情ひとつ変えずに返す。
「殊勝なことだな」
「え……」
「同情で籍まで入れるというのか。君は」
ルーシェルはしおらしげに上目遣いで頷いた。
「……はい。わたくしはクラウス様がお気の毒で……。だから力になりたいのです。でも同情だけでこのようなことを申し上げたのではありませんわ。もうお気づきでしょう? わたくしはあなたのことが好きなのです。ひと目見たときから……」
「俺は君を好きではない」
そう言って、にべもなく斬り捨てる。嘲笑がクラウスの薄い唇を掠め、ルーシェルは萎縮して一歩後ずさる。
「あなたは演技の才能だけでなく、俺を怒らせる才能もお持ちのようだ」
懐からエルヴィアナの作った飾り紐を取り出した。
「ルイス王子の所持していた飾り紐は、エルヴィアナの贈り物ではない。彼女は昔から器用だ。あのような粗末なものは作らない」
「…………」
「俺からもあなたに言いたいことがある。あなたが昔から飼っている白い獣を差し出してください」
「…………!」
はっきりと告げるクラウス。ルーシェルはあからさまに青ざめて、目を泳がせた。
「知りま――せん。ニーニャはただの外来種のきつねで……。エルヴィアナさんの呪いとは無関係です!」
「エルヴィアナの呪い? そんなこと一言も言っていないが」
「…………っ」
「墓穴を掘りましたね」
すると、客室の隣のサロンからもう一人男が現れた。爽やかな人好きのする美貌の彼は――ルイス第七王子。
「ルーシェル。その辺にしておけ」
「お兄……様」
さっきまでエルヴィアナに惚れて理性を失った演技を完璧にこなしていた彼だが、今はいつもの穏やかな様子だ。
「まさかお前が魔獣まで飼っていたなんてね。魔獣を使役していると世に知れたら醜聞になることが分からないのかい? あまりに王族としての責任がない」
魔獣はこの国にとって穢れの象徴とされている。それを王族が飼っているとなれば、世間から非難されることは間違いない。浅はかな行動のせいで、王家の権威さえ揺るがされてしまうかもしれないだろう。それをルイスは危惧していた。
「違うわっ、ニーニャが魔獣だったなんて、最近まで知りませんでしたの。これは本当よ……っ」
「肝心なのは魔獣を飼っていたという事実だけさ。それに……王家の分家であるルーズヴァイン公爵家次期当主の想い人を貶め、あまつさえ婚約者の座を奪おうとしたことは、どう言い訳するつもりだい? 王女であっても許されることではないよ。お前のことは国王陛下に報告する」
ルーシェルは拳をぎゅっと握り締め、悔しそうに唇を引き結んだ。けれど直後、何かいたずらを思いついたように口角を上げた。
「いいのですか? わたくしから魔獣を取り上げたら……エルヴィアナさんは決して手に入らなくなりますよ?」
「そうだとして、僕に困ることは何もないね。彼女が大事な人と結ばれるなら、それが何よりだ」
「!」
そもそもルイスが好きなのはリジーだ。けれど、ルーシェルは、ルイスが魅了魔法に当てられていると勘違いしている。
「どうして……エルヴィアナさんのことが好きなんでしょう?」
「ああ、大好きだよ。……友人としてね」
「! お兄様、まさか……」
ルイスはふふ、と軽薄そうに笑った。
「残念。僕は魅了魔法にはかかっていないよ。主演男優賞ものの名演技だっただろう? おかげで妹の醜態が見られたよ。最悪の気分だ」
これには、ルーシェルもあんぐり。ルイスはルーシェルの飾り紐を本人に返し、別の飾り紐を剣の柄に結び直した。
「……僕にも想い人がいるんでね」
剣の柄に揺れたのは、エルヴィアナがリジーにあげた材料で作られた飾り紐。
(……リジー。ルイス様にちゃんと渡せたのね)
自分のことはいいのだとエルヴィアナのことばかり優先していたリジーだが、好きな人に飾り紐を贈れたなら幸いだ。
「お前も次に好きな人ができたら、渡してやるといい」
ルーシェルは眉間に皺を寄せて、自分の作ったお粗末な出来の飾り紐を床に投げ捨てた。
「魔獣は……ニーニャは渡してあげません。隠し場所も教えません。エルヴィアナさんはずるい。あんな人、死んでしまえばいいのよ……!」
彼女はそう言い残して部屋を飛び出して行った。
「妹が無礼を言ってすまない」
「王宮の教育は一体どうなっているんだ?」
「蝶よ花よと皆で可愛がったものだからね。まさかここまで歪んでしまったとは思わなかったけど」
クラウスは呆れたようにため息をつき、すぐにバルコニーまで歩いてきた。そっとカーテンを開く。バルコニーでエルヴィアナはうずくまっていた。
「すまない。待たせたな――」
「うっ…………」
「エリィ!?」
そのとき、右腕の呪いの痣が激しく痛んだ。まるで、鋭利な刃物で突き刺されているかのような鋭い痛みに顔を歪ませる。
「しっかりしろ! おい! エルヴィアナ!」
何度もクラウスに呼びかけられ、身体を揺すられる。けれど彼の声はすぐ近くにいるのにどんどん遠ざかっていった。エルヴィアナはそのまま気絶した。