3、本城さん
青井さんという人に会社で悪い噂をばら撒かれ、肩身の狭い思いをしていることは、彼氏にだけ話してあった。
でも彼氏はセックスにしか興味がないのか、そういう話を振ると面倒臭そうな顔をした。
口では申し訳なさそうに言う。
「俺も仕事で結構辛い目に遭ってるんだよね。美咲だけじゃないんだよ。そんなこと俺に話されても、俺はどうしようもしてやれないし。ごめんね」
聞いてくれるだけでいいんだよ。
それだけであたしの中の何かが少しはスッキリするから、それで産まれたエネルギーを使って、あとはあたしが自分でなんとかするのに。
別れようかな、と何度目かのことをまた思った。
青井さんが辞めた代わりの新入社員が入って来た。あたしにとっては初めて出来る後輩だった。歳はあたしより21歳上だけど。
山中さんがやっている集配の仕事を受け継ぐことになり、山中さんの横に乗って出て行くのを見かけた。清潔な感じの、少年みたいに素直そうなおじさんで、名前は本城さんというらしかった。
2週間ぐらいして、今度はあたしが本城さんを横に乗せることになった。もしかしたらあたしか山中さんが辞めることを想定していて、会社は本城さんにどちらの仕事でも後を継げるようにしておきたいのかもしれなかった。
「山中さんって、運転うまいよね」
少年みたいなワクワクした声で、本城さんはあたしにそう言って来た。
「あんな上手な人に教えてもらえて、俺、感激したよ」
「トラック乗るの初めてなんですか?」
あたしは聞きながら、『かわいいおじさんだな』と思って微笑んだ。
「うん、前は自分で事業興してたんだけど、潰しちゃってね。急いで大型免許取って転職したんだ」
「初めての先生が山中さんでよかったですね」
心から言った。
「うん。あの人、凄いよ。踏切では対向車が待たなくていいように手前で停まって、パッシングでわかりやすく先に行かせるし、直前で信号が赤に変わっても余裕で停まるしさ」
感動した映画を語るように本城さんは目を輝かせていた。
「こんなところに入れるわけがないってぐらい狭いところに、バックで一発で入るしさ。やっぱりプロドライバーって凄いよ。みんなあんなに上手なものなの?」
自分が褒められるみたいに嬉しかった。
「山中さんは特別ですよ。是非、手本にしてください」
「うん。あんなドライバーに俺もなりたいよ。頑張る!」
本城さんはその日、目を輝かせていた。
それから会社に馴染むにつれて、その目が変わって行った。
それから3ヶ月ぐらい経ったある日、あたしは山中さんと一緒に仕事をするため、事務所から出るとそれぞれのトラックに向かって歩いていた。
そこへちょうど自家用車で出勤して来た本城さんが、歩きながら声を掛けて来た。
「おい、山中」
見下すような表情でこっちを見ていた。
「気をつけて運転しろよ。ぶつけて帰って来んなよ」
猿のように歯を剥いて笑うと、背中をこちらに向けて事務所のほうへ歩いて行った。
山中さんを見ると、傷ついたように、でも何も言わずに笑いながら、ただ自分のトラックのほうを見ていた。
「何かあったんですか?」
あたしはたまらず聞いた。
「あの人、山中さんのこと、褒めてたのに」
「会社のやつらから色々聞いただけだろ」
山中さんはこちらに顔を向けずに、言った。
「別に気にしちゃいねえ」
人は情報に流されやすいものだ。自分の目で見たものよりも、大勢の人による噂話にたやすく流される。
少なくともあたしの周囲はいつもそうだった。他の人の現実は違っているのだろうか。
山中さんはトラック初心者の時に小さな接触事故を頻繁に起こしたらしい。それをいまだに会社の人達から言われていて、ヘタクソ呼ばわりされている。
本城さんもそれを耳にして、それを信じ込んでしまったのだ。
会社に馴染んでいない山中さんを尊敬し続けることよりも、みんなの輪の中に入るほうを選んだのだ。そしてみんなと同じように、山中さんのことを見下しはじめた。
火のないところに煙は立たない。何かのきっかけがなければ噂にはらならい。
しかし、その火が放火の悪い炎だろうと暖炉の暖かい炎だろうと、同じように煙は立つ。
私はそれがどんな火なのかを自分の目で確認する人でありたい。
でもあたしはそう思うだけで、何もすることは出来なかった。
あたしも山中さんと同じように、青井さんのばら撒いた噂のせいで、会社内で見下される存在になっていた。
あたしがどれだけ山中さんを弁護したところで、何にもならないだろう。
『山崎美咲と山中は仲良し』
『山崎美咲は山中の仲間』
『山崎美咲と山中はデキている』
そんな風な目で見られ、また噂をばら撒かれるのがオチだ。