10、(最終話)鉄平ちゃんと美咲
山中さんはお酒の飲めるいいお店をひとつも知らなかった。仕方なく、前に馬駒さんが言っていた立ち飲み屋に行くことになった。
パパぐらい歳が離れてるとはいえ、あたしが男の人をお酒に誘うのは初めてだった。彼氏でさえ自分のほうから誘ったことはない。
「かんぱーい」
「おう」
芋焼酎のお湯割りで乾杯した。
「あたしの奢りだからね、じゃんじゃん頼んでいいよ」
「バカ言え。後輩に奢られてたまっかよ」
山中さんはそう言って笑うと、すぐにぺこりと頭を下げた。
「っていうか、すまんかった。おまえの職場荒らしたお詫びだ。ここは是非おれに奢らせてくれ」
「あのね。これはお礼なんだよ」
「お礼?」
山中さんが目をパチクリとさせた。
「うん。あたしが苦しめられてた人をやっつけてくれて、どうもありがとうございます」
あたしは必要以上に深々と頭を下げた。
「あれでよかったのか?」
スッキリとした顔になり、山中さんは笑った。
「よかったんなら、奢られてやらぁ」
「よーし飲むぞー! 飲めよー!」
「っていうか、彼氏はほっといていいのかい? こんなジジイと飲んでてよ?」
「彼氏ね、別れた」
嘘を言った。
「あんまりにもガッカリすることばっかりだから」
それについては本当だった。彼は今回あたしが嫌な思いをした数々のことについて、心の支えにすらなってくれなかった。もう前々から思い悩み、決心がついていた。正しく言えば『明日にでも別れる予定』だったのだ。
「ふうん?」
山中さんが可哀想なものを見る目であたしを見た。
「なんか問題あったんなら相談に乗ってやったのによ?」
「ありがと、鉄平ちゃん」
「おいおい」
鉄平ちゃんは苦笑いして、顔の横で手を振った。
「鉄平ちゃんはやめろや」
「鉄平ちゃん、なんでボクシングのチャンピオンだったこと、黙ってたの?」
あたしは遠慮なく聞いた。
「みんながそれ知ってたら、バカにされることなかったのに」
「過去は過去だかんな」
鉄平ちゃんは教えてくれた。
「そんな過去で自分を飾るよりゃ、未来を見てぇんだ、おりゃ」
「えらいね」
あたしは彼の疵だらけの顔を見ながら微笑んだ。頬が紅くなっていたかもしれない。
「えらくなんかねぇ」
珍しく彼が昔話を始めた。
「おれ、40過ぎても慢心してたらよ、若いやつに負けたんだわ。王座、奪われた。引退を勧められたんだが、奪い返すことばっか夢見てよ」
「チャンピオンの座、50歳で奪い返したんだよね?」
頬杖をついて彼の横顔を眺めた。
「凄いじゃん」
「ああ、夢は叶えたよ。でもな……」
鉄平ちゃんの顔に、苦しみのような表情が産まれた。
「そのことばっか見て、家庭を省みんかった。収入がなくなって、それでも金使うことばっかりで、ガムシャラに王座奪回すっことばっか考えて……」
「それで別れちゃったんだ? 奥さんと」
「子供2人も捨てたようなもんだ。おれ、息子の顔も娘の顔も、ちっちゃい頃のしか覚えてねぇからな」
あたしは焼酎のお湯割りを口に運びながら、彼の話に耳を傾けた。
「わがままして叶えた夢だ。しかももう過去のことだ」
鉄平ちゃんは焼酎を一口コクリと飲むと、息を吐くように、言った。
「死ぬまでに自分のこと、好きになりてぇんだ。夢を叶えただけじゃ、まだ半分だ。もう半分残ってる。おれ、いい父親にもなりてぇんだ。あいつらに詫びる気持ちを示すために、一生仕送り続けてやりてぇんだ」
そう言ってから焼酎を飲み干すと、自嘲するような笑みを浮かべて、最後に呟いた。
「もう遅ぇかもしれんがな」
「鉄平ちゃん」
あたしは今思いついたことを口にした。
「あたしと2人で、運送会社興さない?」
「はあ!?」
抜けた前歯を丸見えにして鉄平ちゃんが驚いた。
「そうすればガバガバ稼げて、奥さんにもいっぱい仕送りできるよ? 今の会社に勤めてちゃ、稼げないし、幸せにもなれない」
あたしはだんだん本気になった。
「あたし、鉄平ちゃんと一緒だったら、いい会社作れると思う!」
「バカいえ。カネはどうすんだ」
冗談を聞くように、鉄平ちゃんは軽くあしらった。
「それにおれら、コネもねぇのによ。会社はあるけど仕事がござんせん、みてぇなことになるぜ?」
「パパに頼んでみる」
本気で言った。
「親から出世払いで借金する! それで土地と建物とトラックを買って、仕事は……」
そこで言葉が詰まった。
「若ぇうち、夢見るんはいいことだよな」
鉄平ちゃんは焼鳥をつまみ上げながら、笑った。
「でも無理はしちゃいけねぇ」
「いい会社できると思うんだけどなぁ……。鉄平ちゃんをエースドライバー兼社長にして……、あたしも運転だけならこう見えて自信あるし」
そう言ってから舌を出した。
「力仕事は全然ダメだけど」
「おれも社長って柄じゃねぇ」
鉄平ちゃんがハハッと笑った。
「でも何にしろ、あたし、この会社辞めるよ」
「そうか」
「ね、一緒に辞めない?」
「で、どうすんだ」
「だからぁ! 一緒に会社興そうよ」
「本気か、てめぇ」
「とりあえずさ、あたしのこと『後輩』とか『おまえ』とか『てめぇ』とか言うのやめてよ」
「はぁ?」
「『美咲』って呼んでいいからね」
「やめろや照れ臭ぇ」
「だってパートナーでしょ」
「何がパートナーだ、バカ」
そう言いながら鉄平ちゃんの顔はタコみたいに真っ赤っ赤になっていた。
「わぁ、星が綺麗」
外へ出ると、夜空を見上げてあたしは言った。
久しぶりに広い空を見た気がして、楽しい気分に自然に身体が踊り出した。はしゃいでいたら、縁石につまずいた。
「きゃあっ!」
悲鳴を上げて転びかけたあたしを、とても硬いものが受け止めた。鉄平ちゃんの胸は細いけど、鉄板みたいに硬くて、そして優しかった。
「気をつけろい」
あたしの肩を両手で支える鉄平ちゃんの顔が、すぐ近くにあった。あたしより少しだけ背が低い。
「ごめん。酔っ払っちゃった」
酔った勢いであたしは言った。
「ね、顔の疵、触ってみてもい?」
「ああ」
自慢げな笑顔で、そのまま動かないでいてくれた。
「触ってみろ」
指でなぞると、硬く刻まれているように見えていたそれは、ふよふよと赤ちゃんみたいに柔らかい。吸い込まれて行くみたいで、なめらかなクリームみたいで、気持ちよかった。思わず唇でも触った。
「おい。代行、呼ぶか?」
鉄平ちゃんが聞いた。
「どうする?」
「いや、その……」
「任せるよ?」
あたしが言うと、困ったように鉄平ちゃんは、すぐ近くでピンクのハート型の文字を光らせているホテルの看板を見つめた。
あたしは彼に運命の選択を任せた。鉄平ちゃんは奥さんとは『離婚した』と言っていた。あたしは『彼氏とは別れた』と告げてある。
代行タクシーを呼ばないのならあのホテルに2人で泊まる。そうなったほうが、あたしはきっと嬉しいだろう。でも、簡単に奥さんを裏切った彼にガッカリするのかもしれない。
代行タクシーを呼んだら今夜はここでお別れ。それぞれの部屋に帰って、別々に寝る。あたしはもう彼氏に連絡はしないだろう。寂しく1人の部屋で枕を抱きながら、でも心はホッとするかもしれない。
「……後輩」
鉄平ちゃんが口を開いた。
「『美咲』でいいってば」
「代行呼ぶぞ」
「らじゃ!」
そして次の日からも最低な会社であたしと鉄平ちゃんは変わらずクソみたいな仕事を続けるのだった。
(おわり)




