1、山中さん、馬駒さん、そして青井さん
あたしは人生を無駄にしたのかもしれない。わずか人生25年目にしてそう思っていた。
医者の家に産まれ、しかし医者だけにはならないぞと誓って生きて来た。寄って来る医者のたまごの婿候補たちも蹴っ飛ばして来た。それは今から思えば大嫌いな父親に反抗していただけだったのかもしれない。
そしてあたしが何になったかといえば、トラックドライバー。職業に貴賎はないというが、お金に不自由するようになると、さすがに思う。医者になっとけばよかったかな、なんて。もう遅い。
遅すぎる。
父への反抗だけではなく、元々の性格のせいもあり、勉強をあまりにして来なかった。高2の時には図らずも学年最下位さえゲットした。3流大学を5年で卒業し、なんとか拾ってもらった会社の事務の仕事を「つまらないから」の理由で1年で辞め、車の運転が好きだったのでトラックドライバーになった。
一応夢見て入った運送会社。赤いキャビンも黒い制服も格好良かった。颯爽と大きなトラックを走らせてバリバリ稼ぐかっこいい女の子になれると思って入ったのだが、現実はひどく違っていた。せっかく大型1種免許を取ったのに4トントラックにしか乗車させてもらえず、給料は手取りで19万ほどだ。まぁ最初の仕事よりは少しだけよくなったけど、そのぶんお金を使う。100%自炊が不可能なので、外食が多くなってしまうのだ。
何よりこの会社の先輩ドライバーさんたちがひどかった。あたしのトラックドライバー像を無惨にも打ち砕いてくれた。30人近くいて、ほとんどがオーバー40歳のおじさんだったのだが、プライドばかり高くて運転がひどい。同じようなエリアの中で仕事をするので走っているところをよく見かけるのだが、いきなりのウィンカーと車線変更で後ろからやって来ていた乗用車をクラッシュさせかけたり、真っ暗な片側2車線の長いトンネルの中を無灯火で延々追い越し車線を走っていたりと、見かけるたびに説教したくなる。
おまえらプロなんかじゃねえ! ただ運転に慣れてるだけのど素人だ! あたしのほうが運転うまいぞ!
そう言いたくてたまらなかったが、もちろん言えるわけはなかった。
そんな中で1人だけ、あたしの尊敬するドライバーさんがいた。
歳は聞いたことないけど、たぶん60歳は超えている。山中さんという人で、社内で最も見下されている人だった。
背の低いひょろりとした人で、顔が不自然に険しい皺だらけで、でも笑顔は可愛かった。前歯が2本、欠けていた。
山中さんの大型トラックの助手席に乗って何度か仕事を手伝ったことがある。彼の運転に惚れ惚れしたものだ。これぞプロの運転だと思った。
先を予測してとてもスムーズな運転をする。荷物に優しく、周囲の交通に超然として溶け込んで、助手席のあたしを心地よく眠たくさせた。
無口だけど明るくて、他のドライバーさんがこぞってするような過去の自慢話とかもしなかった。
「俺、力仕事がしたいんだけどよう」
にこにこしながら助手席のあたしにそう言った。
「俺にゃ無理だって、させてくんねーんだ。こんな時間きつくて金にならねー仕事ばっかさせやがってよう」
「山中さんのこと気遣ってくれてるんじゃないの?」
あたしはタメ口だった。
「年配の人に体力仕事は無理だって思って、パレット積みパレット降ろしの楽な仕事を回してくれてるんだよ」
自分の父親とそう変わらない歳ながら、山中さんはあたしにとって友達みたいな存在だった。
「そんなならいいんだけどな」
笑顔をずっと崩さず、山中さんは言った。
「絶対そうじゃねえ」
ある日、あたしは自分の4トントラックが故障して、他のドライバーさんに迎えに来てもらわなければならなくなった。
山中さんが来てくれたらいいなと思っていたのだが、やって来たのは4トン平ボディー車の乗務員で、馬駒さんという51歳の小さいおじさんだった。
「おい美咲ちゃん。待ったか?」
運転席の窓を開けて顔を覗かせた馬駒さんは、白い手袋をした手をハンドルに置きながら、気取ったような言い方で、似合わないサングラスを夕陽に輝かせた。
「ありがとうございます。お願いします」
そう言って助手席に乗り込もうとしたあたしの動きが止まった。シートの上に敷かれた座布団の上に、コンドームが一袋、ぽんと置かれていたのだ。
「ふふふふふ」
馬駒さんはそれをわざとらしく片づけながら、言った。
「心配しなくても何もしやしないよ」
乗らないと帰れないので、仕方なく横に乗った。
付き合っている彼氏がほんとうにいるので、釘は刺してある。それでも明らかに嫌らしい目をあたしに向けて来る。
「美咲ちゃん、大卒なんだって?」
運転しながら、あたしのお尻のあたりを見ながら、馬駒さんが聞いて来た。
「それで何だってトラックドライバーやってんだ?」
「あっ。車が好きだからですよー」
あたしは自分の不安を愛嬌で吹き飛ばすように笑顔で言った。
「そのうち大型に乗務させてもらえるようになったらハイウェイの一番星になるんです」
「ハイウェイの? 一番星?」
バカにするように笑われた。
「今どきそんなもん存在しねーよ。俺らただの会社員だぜ?」
横断歩道に手を上げている小学生がいた。馬駒さんは無視してアクセルを踏み増した。
「今、歩行者いましたよ?」
あたしが注意すると、馬駒さんは笑いながら、怒ったような声を張り上げた。
「ああ!? 先輩に何注意してんだ? 大型乗ったこともないくせに」
「山中さんはいつも止まりますよ?」
「山中ァ!?」
馬駒さんの顔が笑顔のまま怖くなった。
「あんなジジイ、とろくせえだけだよ。みんなバカにしてっだろうが」
「なんでバカにしてるんですか?」
「ああ、美咲ちゃんは入る前だったから知らねーんだよな」
親切に理由を教えてくれた。
「あのジジイ、こういう仕事初めてだったらしいんだけどな、何もできねーくせに、横乗りで仕事教えてくれてた青井さんに文句言ったらしいわ。自分が仕事できねーくせに」
「入りたてだったら仕事できなくて当たり前じゃないですか?」
「偉そうによ、『あんたの教え方が悪い』みたいなこと言ったらしいんだよ。自分がミスしといて」
「見習いのうちのミスは教育者のミスだと思いますけど」
「やたらかばうなぁ、美咲ちゃん!」
馬駒さんが痰を飛ばすような笑い方をした。
「あんなジジイに惚れたか? 欲求不満か! ヤリてーのか? コレ使わずに俺がヤってやろうか? どっかに車停めるか?」
そう言いながらコンドームで、黒い制服を着たあたしの肩をぴしぴし叩いて来る。
セクハラで訴えるのもバカらしく思え、あたしは助手席の窓を半分開け、顔に風を浴びながら、いつ辞めようかなとばかり考えていた。
「うぅ……」
馬駒さんは気弱そうに呻くと、それ以後黙り込んだ。
あたしが無視したので、それ以上のセクハラは怖くてできなかったようだ。
修理が終わった自分のトラックを取りに行く時には、山中さんに送ってもらえた。
あたしが笑顔で会話できるのは山中さんだけだったから嬉しくて、車内では会話が弾んだ。
自分でもどういうつもりだったのかよくはわからない。本当にただ相談したかったのか、それともあまりにもあたしのことを女として見ようとしない山中さんを試したかったのか。とにかくその時、あたしはちょっと刺激的な相談をしたのだった。
「彼氏が最近、色んな体位を試したがって、うざいんですよー」
「ハハハ」と山中さんは笑った。
「全然集中できないし、気持ちよくないし。ポジション変えるたんびに醒めちゃうし。どうしたらいいんですかねー?」
「好きにさせとけ」
山中さんは笑い飛ばすように言った。
「そのうち飽きる」
「なるほど……」
動揺ひとつ見せない山中さんの横顔をまじまじと見ながら、あたしは聞いた。
「山中さん、奥さんと暮らしてるの?」
「おれっちが44の時、別れたあ」
少し山中さんの表情が寂しそうになった。
「おれぁ自由すぎるでよ。だから結婚には向かんかった。息子と娘が1人ずついるんだが、おれのわがままで苦労させた。だから、仕送りだけでもしてやんねぇとな」
「まだ仕送りしてるの?」
「んだ」
「子供さん、何歳?」
「息子が19、娘が17かな」
「ぼちぼち手が離れる頃だね」
「んだな。でも、おれっちが死ぬまで仕送りは続けるつもりだ」
「何が原因で別れちゃったの?」
「おれが夢ばっか追って、家庭をほったらかしすぎた。それでだ」
「夢って、どんな?」
「さァてな」
山中さんはまた笑い飛ばした。
「忘れた」
別の日、また山中さんの横に乗って仕事をすることになった時、あたしはクッキーを焼いて持って行った。
「食べる?」
助手席であたしがタッパーを開くとバターの匂いが車の中に広がった。
「ああ、くれ」
伸ばして来た山中さんの手にクッキーを渡した。鉄みたいに固い手だったから少しびっくりした。
山中さんはクッキーを一口噛むと、断面を楽しそうに見ながら「うまい」と言ってくれた。あたしはすぐに相談をもちかけた。
「この会社……、辞めようかと思ってるんだ」
「なんでだ」
「思ってたのと違ったっていうか……」
「ハハハ。それならおれもだ」
「給料安いし、時間きついし。何よりみんな運転ヘタクソなくせに偉そうで……」
セクハラのことは言わなかった。
「うまいんじゃなくて、あいつら変な風に慣れちまってんだよな」
山中さんは笑いながらうなずいてくれた。
「おれっちも早くからこの仕事やってたら、ああいう運転になってたかもしれねぇ」
「山中さんは運転うまいよ」
あたしは心のままに褒めちぎった。
「この会社で一番上手だとあたしは思う。でもあの人達から見たらヘタなんだよね。自分達と違う運転してる珍しいやつはヘタだと思われちゃうんだ」
「いや、トラック乗ったことなかったから、最初のうち、何度もぶつけた」
クッキーを持った手で自分の額をコツンと叩きながら、笑う。
「ちっちゃいのばっかりだったけどよ。バックでコツン。隣のトラックのミラーにコツン」
「でも今は上手いじゃん」
「そん時ぶつけすぎたんだな。だからいつまでも『会社1のヘタクソ』で通ってる」
苦笑する。
「あー。そういうのって、なかなか汚名返上できないもんだよね」
「汚名返上……」
山中さんがなんだか考え込んだ。
「難しい言葉知ってんな、おまえ」
思わずアハハと笑わされ、バラしてしまった。
「一応、医者の娘だからね」
「へぇ? おまえの親父さん、お医者かァ」
意外そうにでもなく、普通に言った。
「色んな人生、あらァなぁ」
それから何日か経った後、あたしはようやく大型に乗せてもらえることになった。初めのうちは先輩ドライバーさんが横に乗って指導してくれる。誰が教えてくれるのかなと思っていたら、当日になって横に乗って来たのは青井さんだった。山中さんが初乗りの時に指導を受けて喧嘩した、あの人だ。
「よろしくお願いします」
シートベルトを締めながら、あたしがぺこりとすると、青井さんは優しく笑いながら、「緊張しないでね」と言った。
青井さんは55歳のベテランドライバーだ。なんとなく小学校の時の社会科の先生に似てる。とても四角い顔に、青ひげが名前に似合っている。
「僕、読書が趣味でね」
助手席でシートを倒し、足を前に上げて寛ぎながら、青井さんが言った。
「小説を読み出したら止まらなくなるんだ。歴史小説が特に好きなんだけどね。池上章太郎とか、笹澤紗穂とか」
「いいご趣味ですね」
「だから仕事の流れだけ教えといて、僕は読書をしていてもいいかな? 悪いけどね」
「あっ。いいですよ〜」
問題ないと思って、あたしはうなずいた。
「何でも自分でやらないと覚えないし。お好きにしててください」
仕事は中国から輸入した衣服の積み込みだった。バーコードをハンディーの機械で読み取って、荷台に積み込む。自分でフォークリフトを運転してパレットに乗せた段ボール箱の荷物を上げ、備えつけられたローラーで奥まで転がして行けるので、何も難しいことも苦しいこともなかった。
青井さんに教えられた通りのことをあたしは一人で黙々とこなした。その間、青井さんは隣のスーパーマーケットのイートインスペースに行っていて、コーヒーを飲みながら読書をしていた。
夕方になり、あらかた荷室が満載になった頃、青井さんがニコニコしながら帰って来た。
「どう? 困ったことはなかった?」
「あ。大丈夫ですよ」
あたしも笑顔を返し、言った。
「簡単な仕事なんで、何も問題なかったです」
「え?」
青井さんの顔色が変わった。
「簡単な仕事? おまえ、仕事舐めてるのか?」
「あ……いえ」
様子が急変した青井さんに、あたしはしどろもどろになった。
「簡単じゃなかったです。ごめんなさい……」
「まぁ、いいよ。じゃ、PDT締めて?」
「えっ?」
「その君が今、手に持ってるそのハンディーのことだよ。鳴いた総数を出して、センターに送信するの」
「あ、教えてください。どうするんですか?」
「ああっ! もう、面倒臭いな! 貸して?」
「あっ……」
青井さんはあたしの手からハンディーを奪い取ると、慣れた手つきでさっさと操作し、電源を消してしまった。
「じゃ、積んだ荷物を降ろしに行こう。出発」
青井さんは教えるのが簡単なことは全部あたしにやらせて、教えるのが面倒臭いようなことはすべて自分でさっさとやってしまう人だった。これじゃ仕事を覚えたことにならない。
慣れない大型トラックで狭い倉庫の構内をギクシャクと走り、あたしは広い道に出た。
「腹減ったなぁ」
助手席で青井さんが言った。
「あ。クッキー焼いたの持って来てるんですけど、よかったら食べます?」
ちょうど信号で停まったので、あたしはバッグからタッパーを取り出した。
「いらないよ、そんなもの」
青井さんの表情がまた厳しくなった。
「もしかして、僕がスーパーに行ってる間、おまえ、それを食べたのか?」
「あ。暇になった時、ちょっと食べましたけど……」
「お客さんの敷地内だぞ!」
青井さんの声が大きくなった。
「遊びに来てるんじゃないんだ! ピクニックじゃないんだぞ! おまえ、いい加減にしろよ?」
自分はスーパーでコーヒー飲んで小説読んでたくせに……と思ったけど、あたしは黙っていた。
しばらく黙って運転していると、窓の外を不機嫌そうに眺めていた青井さんが、言った。
「おい。なんで左車線を走ってるんだ」
「え」
意味がわからなくて、あたしはこう言うしかなかった。
「キープレフトしてるだけですけど……」
「バカか! 急いでるんだぞ? 片側2車線あったらずっと右側を走れ! 右のほうが速いんだから!」
「でもあたし、初心者ですよ?」
あたしはつい口答えしてしまった。
「追い越しすら怖くてできないんだから、ずっと左側を走るべきだと思いますけど?」
「おいおい!」
青井さんは前方を見ながら、話を変えた。
「何やってんだ! 信号が赤になるぞ! 突っ込め! 早く!」
今にも赤に変わりそうだったので、あたしはスピードを緩め、赤になるのに合わせてブレーキを踏んで停まった。
「なーにやってんだ!!」
青井さんが激怒した。
「急いでるって言ってるだろうが!!」
「急いでる時ほどゆっくりしろって、山中さんが言ってましたよ?」
「山中ァ!?」
こちらを勢いよく振り返った青井さんに、あたしは殴られるかと思って身を竦めた。
「俺より山中なんぞの言うことをおまえは聞くっていうのかァ!?」




