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王妃に促され、イザベラは庭園を花を見る事もなく足を進めた。
行くように勧められたのは慰霊碑である。
この本を書いた貴女なら場所が分かるんじゃないかしらと言われたのは、かつて彼が建てたシルフィーの家の跡地であった。
イザベラは必死で足を前に動かす。
遂には高いヒールが邪魔になり、脱いで手に持って走った。
騎士団の訓練所が視界に入る。
庭園の隅に作られた小さな川が目に飛び込む。
彼が建てた温室も形は変わったがまだその場所に残っていた。
肩で息をしながら辿り着いた先に、かつて暮らした小屋は無かった。
その変わりに荘厳な慰霊碑が置かれている。
未だに誰かが訪れているのか傍らには花束が置かれていた。
イザベラは慰霊碑にしがみつく様に、側面に刻まれた文字に指を這わせる。
『キース・ジュゼット』
『アナベル・フォルシア』
『ガウル・アゼット』
『ミリア・モーガン』
『シルフィー・ヴィンター』
そして最期に指を這わせた名前にイザベラは崩れ落ちた。
「手を離せって…言ったじゃないすかっ………!!!!!!」
『レイモンド・ジュゼット』
イザベラはその名前を拳で殴り付ける。
喉の奥から嗚咽が漏れ、頬を涙が零れ落ちた。
「最期にごちゃごちゃ言い逃げって…!!!!
馬鹿じゃないんすか!!!!
何で逃げないんすか!!!!!!
生き延びられたのに!!!!!!!!
その為に全部渡したのに!!!!!!!!
なんでっ……!!!!
なんでっ!!!!!!!!!!!!」
信じたくなかった。
生きていて欲しかった。
最期の言葉を生まれ変わってまで覚えているなんて呪いだとしか思えなかった。
記憶違いで、生き残ったと言って欲しかった。
あの時。
自分の魔素を火の魔素以外全てレイモンドに渡したのだ。
ーー彼の身体が修復出来る様に。
あの時。
自分の寿命をほぼ全て渡したのだ。
ーー聖剣を持っても、彼が消滅したりしない様に。
途中で手を離してくれれば良かったのだ。
そうすれば彼だけでも生きられるはずだったのに。
「何で………あんな事言ったんすか…」
地面の土を掴み歯を食い縛る。
頬を滑り落ちた涙が地面に落ち、土へと吸い込まれた。
「あんな事言われてっ……私はどうしたら良いんすか!!!!!
あんたを引きずって生きろと!?!!
えぇ生きてますよ!!!!!!
これで満足ですか!!!!!!!!
何で忘れる事すら許してくれないんですか!!!!
忘れて前を向く事さえ出来ないんです!!!!!!
あんたの顔が消えてくれない!!!!
あんたの声が耳から離れてくれない!!!!!!
なのにそのあんたはいやしない!!!!!!
私にどうしろってんですか!!!!!!
どうしたらいいんですか…っ!!!!!!」
イザベラは土の付いた指先で服が汚れる事も構わず自身の胸に爪を立てた。
ーー酷く痛むのだ。
ーー目を覚ましてからずっと痛み続けるのだ。
消えてくれないそれはまるで膿んだ傷の様にジクジクと胸の奥を蝕むのだ。
まるで決して忘れてなどなるものかと言わんばかりに。
そこには傷など無いというのに。
ーーずっと心が痛むのだ。
「……痛いんです。
ずっとずっと痛いんです…っ。
ずっと傷を抉られてるみたいに痛いんですっ。
この感情を……私はどうしたら良いのかなんて知らないんです…っ!!!!!!
この激痛を癒す方法を…私は知らないっ!!!!!!
ずっと消えてくれないんですよ!!!!
吐き気がする程に痛むこの感情の受け止め方も!!!!!!
咽び泣きたくなる位に苦いこの感情の名前もっ!!!!!!
こんな感情を私は知らないっ!!!!!!
あんたがこの感情を教えたんです!!!!!!
…何も…分かんないんすよ…!!!!!!
あんたがいなきゃ…何も分からないんです…!!!!!!
あんたが教えてくれなきゃ……私は何も分からないのにっ……」
イザベラの瞳から絶え間なく涙が零れ落ちる。
小さな子供の様に声をあげてイザベラは泣いた。
どうしたら良いのかさえ分からなかった。
この痛みが何なのかさえ分からなかった。
目が覚めた時の混乱も。
記憶を戻した時の絶望も。
本を書いた時の希望も。
それが無意味だった時の失望も。
孤独を思い知った時の空漠も。
これを『悲しい』と言うのだと誰かが言った。
だがそんな言葉で現して欲しくないと思ってしまうのだ。
この反吐が出るような感情を、一番大切な何かを握り潰された様な感情を、そんな四文字の言葉で現して欲しくなんてなかった。
いや、どんな言葉でも足りなかった。
自分の苦しみが、ただの言葉で現せるはずがないと思った。
この痛みを表現出来る言葉なんて知りたいとすら思えなかった。
土を握り締め、慰霊碑に向かって投げ付ける。
まるで自分の悲しみの全てをぶつけるかの様に。
「何で逃げなかったんですか!!!!
それなら私は誰かを救えたんだと思えたのに!!!!
自分を慰められたのに!!!!
何で最後にあんな事言ったんですか!!!!
こんな感情抱えなくて済んだのに!!!!
こんな痛みを抱えなくて済んだのに!!!!」
ヒックヒックと嗚咽を漏らしながらイザベラは怒鳴る。
だが誰もその問いに答えは返さない。
分かっていた。
そんな事自分が一番分かっていた。
それでも問いたかった。
答えが欲しかった。
声が聞きたかった。
顔が見たかった。
嗚咽を必死で堪え、零れ続ける涙をイザベラはグイッと袖口で拭った。
「……多分ですけど、分かんないですけど。
約束した感情は持てたんじゃないかと思います。
自分より、あんたに生き延びて欲しいと思えたんで多分…。
この国を守れるなら…何でも出来ると思えたんで…。
これが愛情なんじゃないかと思うんです。
…これが愛情でないなら、私には愛情が分かりません。
残念ながら生まれ変わっても忌み子だったもんで答え合わせは出来てないんですけど。
……これが私の答えです」
この答えで良いだろうかと自問自答しながら言葉を紡ぐ。
ぐちゃぐちゃで文章には上手く出来ないけれど、零れ落ちる本音を糸を紡ぐかの様にただただ織り込んで行く。
これが作文だったら全て紙屑となってしまったであろう。
綺麗な言葉じゃない。
気の利いたセリフでもない。
ただそれでも届けば良いと思った。
届いて欲しかった。
誰かを守りたいと。
誰かを大切だと。
そんな感情をくれた貴方に。
宝物をくれた貴方に。
一番に宝物を見せたかった貴方に。
最後まで気が付けなかった馬鹿な自分の本音を届けたかった。
「………300年越しになってしまいましたけど。
一緒に旅が出来て幸せでした。
誰かと共に歩めて光栄でした。
皆と一緒にこの国の未来を守れた事は私の誇りです。
…私を連れて行ってくれて本当にありがとうございました」
イザベラは土が付く事も構わず深々と頭を下げた。
300年越しになってしまったが。
彼との大切な約束を果たしたくて。
大切な宝物を見て欲しくて。
ボタボタと落ちる雫が地面を濡らす。
長い間堪えていたそれは、止め方さえ分からなかった。
そんな彼女の背中に柔らかい低音の声が掛けられる。
「じゃあさ、もう一度旅をしないかい?」




