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え?と思い振り返ると袖を引いたのはアナベルであった。
何か用だろうか。
「…少し、良いかしら」
「はぁ…?」
歩きながら話しましょうと言われ、シルフィーはゆっくりと足を進めた。
話しましょうと言ったっきり無言だったが、シルフィーは気にせずに廊下から見える領地を見下ろしていた。
街には誰もいない。
誰も助けられなかった。
間に合わなかった。
魔族も倒せなかった。
自分は一体、何をしに来たのだろう。
何も出来なかった事が酷く虚しい。
虚しくて悔しい。
「…馬車の中でずっと後悔していたわ」
「……へ?」
「貴女に言葉をぶつけるだけぶつけて。
酷い事を言ったままだった事。
…私達はいつ死ぬか分からない身なのに、何故あんな心残りになる様な事をしたのかって悔やんだわ。
……本当にごめんなさい」
アナベルの言葉にシルフィーは首を傾げた。
酷い言葉など言われた記憶がない。
「謝る必要なんてなくないっすか?」
「……え?」
「だって私達は意見を言い合っただけじゃないすか。
私はこう思う。
だけどアナベル様はこう思う。
それが違ったからと言って謝る事ではないんじゃないすかね?」
「…でも私は貴女に理不尽な苛立ちをぶつけただけだわ。
それに貴女の生き方を否定した。
貴女の考えを否定した。
それは間違ってたと思うもの」
アナベルの言葉にシルフィーは目を瞬かせた。
そして同時に思う。
この子凄いなと。
自分の発言を振り返り反省し謝罪する事は大人にだって難しい事なのに。
「それを言ったら私もアナベル様の環境を考慮しないままに否定しましたから。
お互い様ですよ」
「でも」
「それに確かになあって思いましたもん。
私には上に立つ人間の重圧なんて想像出来ませんし、無理だと言えない立場だってあるんだとアナベル様の言葉で気が付かされました」
「………」
「まあでも。
私にはその生き方は出来ませんし、それが正しいとは思いません。
だって現にアナベル様がそれで苦しんでいるんですし」
「そう…」
「反対にアナベル様にとっては私の生き方は出来ないでしょうし、間違った生き方なんだと思います。
でもそれって悪い事ですか?」
「……」
「上に立つ人だと…そうですね。
例えば政治でもそうでしょう。
右翼だ左翼だなんて言いますがどちらが欠けてもダメなんです。
鳥は両翼が無いと飛べないんですから。
どちらかが正義でなければならない、異なる考えが許せないと言うのは分断を招きます。
逆に別の考えを言わず皆が口を噤めば腐敗と独裁を招きます。
だから謝らないで下さい。
貴女は間違っていない。
けれど私も間違っているとは思わない。
それで良いんですよ」
アナベルは唇をギュッと噛み締めた。
ーー初めてだったのだ。
異なる意見をぶつけ合った時、間違っていると言われなかったのは。
「父様は…」
「え?」
「お父様はいつも言うのよ。
…お前が悪い。
出来損ないだ。
出来ない事は悪だ。
お前が間違ってるって」
「……」
「だから私は必死で努力したわ。
間違ってはいけないと。
正しくなければならないと。
正しいとされる行動を出来るようにしなければならないと」
「……」
「でも変よね…。
貴女が羨ましくて仕方がないの。
貴女が眩しくて仕方がない。
目障りなのに、目を逸らしたいのに、そう出来ないの。
貴女は間違っているはずなのに。
貴女は正しくないはずなのに」
アナベルの瞳からスっと一筋の涙が零れ、陶器のような頬を滑り落ちた。
「…本当は…私が間違っていたのかしらね」
その声はあまりにも痛々しかった。
自分の信じていた物が全て無くなってしまったかの様なそんな声だった。
シルフィーは必死で選びながらぽつりぽつりと言葉を紡いだ。
「…間違っていたと思うなら、変えたら良いんです。
自分が正しいと思える事が正解なんですから。
ただアナベル様が過去の自分を間違っていたと切り捨てるのはやめた方が良いです。
貴女だけは、貴女を否定してはいけないんです。
貴女だけは、貴女を肯定してあげて下さい。
貴女だけは、貴女の味方であって下さい。
誰に何を言われようとも、味方がゼロであったとしても、貴女だけは貴女を守って良いんです」
「でも…私は…結局何も出来ていなくて…」
「今出来てないから駄目なんですか?
今出来ていないから過去の貴女を否定するんですか?
努力してきた貴女を、歯を食いしばって歩んだ貴女を否定するんですか?
…それでは……否定された過去の貴女があまりに救われない」
俯いてしまったアナベルの頭にそっと手を乗せた。
そのままぐしゃぐしゃと掻き回す。
幼い頃、一度だけ師匠がシルフィーにそうした様に。
ーーよく頑張った。
貴女は頑張ったのだ。
足りないと思うならこれからも頑張れば良いだけだ。
ーー誇って良い。
胸を張れば良いのだ。
積み重ねた努力は確かに貴女が歩んだ跡なのだから。
アナベルの頬をボロボロと涙が落ちる。
ーーふと思い出す。
レイモンドを好きになった日を。
課題が出来ないと木の影に隠れて泣いていた幼い彼女に、レイモンドは頭を撫でて言ったのだ。
「こんなに頑張れるなんて、君は凄いね」と。
あの時のレイモンドと目の前のシルフィーが何故か重なって見えた。
自分はどうだっただろうか。
自分は誰かの努力では無く、いつだって結果ばかりを見ていたんじゃないだろうか。
何故見分けられないとレイモンドを酷く責めたてたあの日。
レイモンドはどんな顔をしていただろうか。
悲しいのは自分なのに、レイモンドの方が泣きそうな顔をしていなかっただろうか。
彼は見分ける努力をしていなかった?
…していた。
知っているのだ。
彼が皆の特徴をノートに書きなぐっていた事を。
知っていたのだ。
彼が自分の持っているドレスの色を全て記憶しようとしていた事を。
知っていたのだ。
誰かに気が付けない度に酷く苦しげな顔をしていた事を。
ーーそう知っていたのだ。
知っていたのに、自分は責めたのだ。
何故出来ないのかと、結果を責めたのだ。
だからだ、とストンと何かが胸の中に落ちる。
結果を見るアナベルと、過程を見るシルフィー。
誰かに期待されまた誰かに期待をしてきたアナベルと、誰にも期待せずまた誰からも期待されなかったシルフィー。
正しいとされる事が善であり間違ってはいけないと思うアナベルと、自分が正しいと思うならばそれは間違いじゃないと言うシルフィー。
レイモンドにとって心地良かったのはシルフィーなのだろうと。
どちらが正しいと言う訳じゃない。
彼にとって居心地が良かったのがシルフィーなだけなのだろうと。
…悔しいがその気持ちは何となく分かる。
彼女に頭をぐしゃぐしゃにされながら、涙が止まらないのだから。
本格的にアナベルを泣かせてしまい、またキースに叱られたのは10分後の事だった。
その光景を見て思わず笑ってしまったアナベルの顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。
でも今まで見た中で一番綺麗な笑顔であった。




