diary40 凌お兄ちゃんとあたし
練習が終わった。
あたしは言われた通りに片づけが済んだ後、ベンチに戻って凌お兄ちゃんを待った。
しばらくすると、背後から砂を踏む足音が聞こえてきた。
「お待た」
凌お兄ちゃんの声だ。続けて頭にポンと手が乗る。いつものお約束パターン。
「片づけもう終わったのか?」
「うん」
笑いかけるお兄ちゃんから微かに煙草の匂いが漂った。着替えを済ませ、一服も済ませてきた様だ。
ベンチに座っていたあたしの横に、サンダル仕様に戻った足元が並んだ。
そしてその足を組んで座ると、「ふう」と一つ息をつく。
グランドに2人。
他の部も撤収し、部室の並ぶ校舎裏の通りと校門の方から微かに生徒の声が聞こえてくるぐらいで、学校はすっかり閉校モード。
そして、日が沈むにはまだ時間があるけれど、普段賑やかな校庭だけに、人気がなくなると途端に静けさに包まれたようになる。
「昨日のことなんだけど……」
あたしは単刀直入に切り出した。
お墓で叔母ちゃんと話していた話しやお父さんのこと。それにお兄ちゃんとお父さんとの間にあったこと。その全てを教えてほしい。自分に関わる話し、昔のことなどを全部知りたい。
あたしはそう願い出た。
「昔のことねぇ」
ベンチの後方に手をつき、物憂げな笑みを浮かべて空を見る凌お兄ちゃん。
「昔っていうかまあ、今も続いてることではあるんだけど……」
「今も続いている――?」
あたしは手に持ったカバンを握りしめ、恐る恐る考えを巡らせた。
お父さんが死んでもなお続いている何か……サト叔母ちゃんがあんなに感情をあらわにした理由……
そしてさらに質問を続けた。
「だったらそのことも教えて。何もかも全部知りたいから」
「全部、かぁ」
凌お兄ちゃんはそう言うと、今度は視線をグランドへと落として少し俯いた。
「全部だよなぁ、やっぱり」
その呟きに、迷いなくあたしは「うん」と答える。
「俺だってカミングアウトしたいよ。中途半端に温子に関わった責任もあるし」
そう言うとあたしの方を見て苦笑した。
「中途半端?……?」
それって小さい頃のことを言っているんだろうか? それとも現在のこと?
そもそも関わっただとか中途半端だとか、そういう言葉自体の意味が分からない。
なんだかお兄ちゃんがしゃべればしゃべるほど、どんどん謎が増えていく。
「一番中途半端なのは凌お兄ちゃんの話しだよ。ますます混乱する」
あたしは苛立っていることを伝えようと、それを表情にしてお兄ちゃんを見た。
「そう催促するなって」
凌お兄ちゃんは困っている。
そしてしばらく口をつぐむと、その後は沈黙が続いた。
あたしもそのまま黙っていた。そしてじっとしてお兄ちゃんの言葉を待つ。
へたに口を開けば、話をすり替えられてしまうんじゃないかという不安と、そのもう半分は意地?
とにかくあたしは無言のままに、催促とプレッシャーをベンチの右隣へと送り続けた。
「ていうか……今さらだけどさ、温子」
「うん」
「この話し、サト子さんの言うように卒業するまで保留にできないのか?」
「……!」
ここまで引っ張っておいて何を言い出すのだろう。
待てないからこうして今日、凌お兄ちゃんを引きとめたのだ。
「待てない……! どうして凌お兄ちゃんまでそんなこと言うのよ!」
あたしは思わず声を荒げてしまった。
「聞かなきゃ卒業に向かえない。今のままじゃスタートラインにも立てないじゃない!」
気持ちが高ぶり、感情と言葉が口を衝いて出る。
「なんでもったいぶるの? 言えない理由は何なの? 隠さなきゃならないようなことなの? そんなに言いにくいことなの……!?」
凌お兄ちゃんは少し慌てた様子であたしの方を向いた。
いつもの和みの笑みは消え、焦る中に、いつか垣間見た寂しげな表情が見てとれた。
でもそんなことを気に留めている余裕はない。
「あたしは、あたしの意思で動くことも許されないの?」
「温子、」
「あたしはいつも何も知らされないまま……いつも一人ぼっち」
「いやそんなことないだろ、」
「一人ぼっちよ」
「違うって……」
「違わない! 一人ぼっちだよ!」
かんしゃくをおこした子供みたいに叫んだ。そして勢いのままに立ち上がる。
「ずっとずっとちっちゃい頃からそうじゃない! お兄ちゃんだって急にいなくなっちゃったし、お父さんは死んじゃうし、あたしにはお母さんだっていない。それにこれからだって……叔母ちゃんもじきに結婚していなくなっちゃう……。だからあたしは頑張らなきゃいけないの! これからもっとしっかりしなきゃいけないの! なのに……自分のことを知ることすら許されないの? 自分の考えで行動をすることは許されないの? あたしって一体なんなの!?」
思いを制御できないまま、これまで考えたことのないようなことを口走っていた。
いや。考えてはいけない、思ってはいけないと、今まで心にしまい続けてきたことが爆ぜてしまったのかもしれない。
鞄が膝から滑り落ち、荷物がグランドに散らばった。それでも構わず、あたしはその場に立ち尽くした。
そして自分の瞳からこぼれ出た涙に、さらに気持ちを高ぶらせて声を上げた。
なんだか悔しくて、歯痒くて、どうしようもなくて泣いた。
「落ちつけって」
そう声が聞こえた時には凌お兄ちゃんの懐にいた。
「え、ちょ、ちょっと……」
ケンゴとは違う匂いと温もりに、あたしは途端に我に返った。
伝道してくる体温とは裏腹に、冷や水を浴びせられたようになる。
「ちょ……凌お兄ちゃ、ここ学校だってば! 離してっ」
突然のことにどうしていいか分からなくて、理由にならないような理由を口走りながらもがいた。
なのにお兄ちゃんは全然聞いていない。
「……ていうかさ。温子さあ、俺と一緒に住まない?」
え? ん? んえ――?!
動きが止まり、涙も引っ込んだ。
「えと、今、なんて……?」
「サト子さんとこじゃなくってさ、俺んちで、俺と一緒に暮さないかって言ってんの」
凌お兄ちゃんはゆっくりと丁寧に復唱した。
「い、なっ、なに、なに……」
これまた唐突なことに、言葉がもつれる。
いきなり何を言い始めるかと思えば一緒に暮らすって、意味が分からない。
これって何? 告白? 求婚? それとも養子縁組の申し出?
どっちにしても何にしても、さっぱりわけが分からない。
パニックを起こしているところに、新たなお言葉が届いた。
「そうするんだったら話すよ。何もかも全部」
交換条件だ。
考えがまとまらず目をしばたたかせていると、急に「うおっと!」と言ってあたしを突き放した。
「へ? 今度はなに?!」
びっくりして頭がチカチカする。
「あははは! 今のは冗談だよ温子ちゃん!」
声を張り上げてそう言うと、凌お兄ちゃんは頭を揺らしながら直立不動で笑い出した。
静まり返ったグランドに、笑い声がワハハと響く。
もう何が何だか分からない。
最後には、ただただ茫然としてしまった。