diary36 ケンゴのサッカー
助手席の窓から外を眺めていたけれど、それもやめた。
膝の上に置いたバッグとつま先の間に視線をやって、しばらくぼんやりとした。
さっきからずっとそんな調子。
咥えてた禁煙パイポを口から外した凌お兄ちゃんが、あたしの顔を覗き込んできた。
「なになに温子、もっと楽しそうにしてよ」
ハンドルにうつぶせるようにして、首を捻っておどけて見せる。
「お墓参りなんだし、楽しむ必要もないでしょ……」
無表情でそう返すと、今度は「うわ」と大仰に顎を引いた。
「これまた温子ちゃん冷た」
それでもあたしが黙ったままでいると、凌お兄ちゃんはやれやれと姿勢を戻し、無言であたしの頭をぽんと一つ小突いた。
運転を続ける凌お兄ちゃん。口数が減り静かになった。きっと今、そっとしてくれている。
なんだかちょっと悪い気がしてきた。
「ねえ、凌お兄ちゃん」
「うん?」
「あたしが乗ってるから我慢してるんでしょ? 煙草」
いつになくYシャツを着込み、シックな装いの凌お兄ちゃん。‘ブラックフォーマル’っていうのかな。誰に会うわけでもないお墓参りに、律儀にも正装でやってきた。
「んーまあ、グランドでも吸えないからさ、随分慣れたよ。パイポがあればこれくらい平気」
「いいよ、吸っても」
「そう言うなって。これでもレディに気ぃ使ってんだぞ?」
「あたしに気なんか使わなくていい」
「まーたそんな言い方」
分かってる。
あたしはまた凌お兄ちゃんに八つ当たりをしているのだ。
そして凌お兄ちゃんも、多分それを分かっている。
昨日の部活中、サト叔母ちゃんからメールが入っていた。練習が終わってからメッセージを確認すると、内容はこうだった。
――温彩へ
今日はお店をお休みにしまーす。あ、でも早く帰ってきてね。今晩哲也くんを呼んであるから、3人水入らずで食事しましょう! 腕によりをかけてご飯を作るので、ケンちゃんと寄り道せずに帰宅してね!
「週末なのにお休みするんだ……」
最近、サト叔母ちゃんは気分で店を閉める。この間の哲也さんの休みの日にもお店を休んだ。
気のせいか、このところうちのお店は急激に活気がなくなってしまった。
看板に明りの灯っていない店先を見て、落胆して踵を返すお客さんも何度か見かけた。
反対にサト叔母ちゃんは、益々はつらつとしている。哲也さんと過ごす時間が幸せでならないといった様子。
2人は変わらずあたしを気にかけ、良くしてくれる。
特に叔母ちゃんは「家族」という言葉を度々出しては、温かい団欒を過ごそうと奮起している。
哲也さんを加えた、『新しい形』を位置づけようと、叔母なりに頑張っているらしい。
でも……裏腹にあたしの気持ちは、どんどん沈んでゆく。
叔母の作った料理に箸を付けつつ、笑顔を心がけた。
心がけないと笑顔になれない自分に驚きながら、ふと考えた。
叔母の中ではもう、今まで切り盛りしてきたお店も、過去のものになりつつあるのかな……そしてお店と同じように、あたしのことも、過去のことになっちゃうのかな……
それからはまた同じだった。落ち込んだまま、しばらく上がれなかった。
寝る前に鏡を見た。思いつめてはいないけど、それなりに行き詰った表情。酷い。
なんだかつい最近、どこかで見たような顔だとも思った。
(あ……ケンゴの顔だ……)
昨日の授業の中休みに、三年になってから別々になってしまったケンゴのクラスを覗いた。
ケンゴは窓際の席から外を見ていた。身動きもせず、グランドの方をじっと見ていた。
車はじきに町に入った。今日は靴を履いている凌お兄ちゃんが、鼻歌をまじえてアクセルを踏む。その運転席に顔を向けた。
「ねえ凌お兄ちゃん。聞きたいことがある」
「俺のスリーサイズか? 現役の頃と変わってないぞ?」
「上代くんのポジション変えのことなんだけど」
「スルーしないで構ってね」
あたしは、疑問に思ったことなどをお兄ちゃんに言った。
そしてこれまであたしが見てきたケンゴのことを話した。
しばらく夢中になって、あたしなりに考えたケンゴのことや、サッカーに対するケンゴの意識の高さなどを勝手に代弁した。
初めてお兄ちゃん相手に、ケンゴのことを諤諤と語った。
最後に、近頃のケンゴの様子を伝えようと口を開こうとした時、黙って聞いていた凌お兄ちゃんがスッと手を上げた。
思わずハッとする。
「悪いな温子、やっぱちょっと吸うわ」
そう言って胸ポケットから煙草を取り出した。
(あ、あたし、少し一方的に喋りすぎたかな?)
急にどぎまぎした。少々興奮していたことに気付き、気まずい気持ちになる。
お兄ちゃんはと言うと、窓を開けて煙草に火を付け、初めの一口をゆっくりと外に向かって吐き出した。
「あのさ、温子」
「う、うん」
「お前さ、そんだけあいつのこと見てて、他に思うこととかってない?」
「ほ、他に思うこと?」
お兄ちゃんは再び、煙を吐き出す。
「んー。ちっと質問変えよっか。あいつのサッカーを一言で言い表したら何?」
「一言で言い表す? ケンゴのサッカーを?」
「うん。要するに『スタイル』だよ。小さい頃温子、俺のサッカー見てピエロみたいだって言ってたじゃん。お兄ちゃんは自由自在だから、ピエロみたいだって」
確かに言ったことがある。そして覚えてる。のびやかでいて、隙のない凌お兄ちゃんのプレー。
お父さんも言っていた。「凌一のサッカーは、とても人を楽しませるんだ」と――。
落ちると見せかけて落ちないピエロ。相手を欺き、軽々と身を翻すピエロ。
ピッチでのお兄ちゃんは、いつも人をドキドキさせた。何でもできる華やかで煌びやかな、ピエロみたいな選手だった。
「で、上代は? あいつのサッカーは何?」
ケンゴのサッカー……今日まで見てきたケンゴの姿、ケンゴのプレー。
意識しなくても、色んな場面が次々と溢れかえる。
初めは粗削りだった。でも、猛り、鋭さを増す一方で、研ぎ澄まされてゆくケンゴの姿が、あたしの中にも刻み込まれている。
「野性?」
ポツリと答えた。ケンゴを思わせる、純然たる二文字。
「ケンゴのサッカーって作られたものじゃないって思うの……なんていうか、そのまま。ケンゴそのものって感じ。だから、彼のサッカーは、野性」
あたしはぽつぽつと、感じたままを紡いだ。
「オッケ。それでいい」
咥え煙草のお兄ちゃんが楽しそうに笑った。