diary32 昔のヒーロー
進路指導の日。三者面談を終えて帰宅するサト叔母ちゃんを校門まで見送った。
「叔母ちゃん、今日はありがとう」
「どういたしまして。でも、結局進路の決定は先送りね。焦らずにとは言えないけど、あなたにとって最善の選択をしてちょうだい」
「うん、分かった」
叔母ちゃんが帰った後も、あたしはしばらくその場に佇んでいた。
あれから明確な未来について、真剣に考えようとした。
しかし、考えなければいけないのに、行く先だって見えたはずなのに、なぜかピタリと立ち止まってしまっている。
あれ以来ずっと、漠然とした虚無に襲われている。
サト叔母ちゃんが帰って気が抜けたのか、脱力してしまい足元がふらついた。
校門沿いのブロック塀に手をつくと、あたしはそのまま壁を伝って樹木の下を歩いた。
こうやって木陰を歩いていると、足元の黒に引きずり込まれそうになる。
「――あり?温子?」
どこからともなく声がした。後ろを振り返ったけれど誰もいない。
あたしは思わずきょろきょろとした。
「お、やっぱ温子だ。あーつ子、ここここ!」
続けて呼ばれる。
その呼び方と声――凌お兄ちゃん?……そう思って周りを見渡すけれど、前にも横にもやっぱり誰もいない。
木陰から校舎を見上げてみたけれど、窓には生徒の姿が疎らにあるだけ。
その時、上に茂る桜の葉からざわざわという音がした。木から塀へと飛び移った何かが、『ドン』という着地音を立てて目の前に降ってきた。
トレードマークのパーマ頭とサンダルが、足元の黒い影を吹き飛ばす勢いで突如現れる。
「うわ、ひゃ!」
思わず目を瞑った。
「ほい、何やってんだ?まだ部活には早いぞ?」
舞い起きた小さな風の中に、十代の生徒にも負けない純度の高い笑顔が一つ。
(凌お兄ちゃん……)
凌お兄ちゃんはくたりとしたシャツに破れたジーンズを履いていた。そしてサンダルのつま先からは裸足の指が覗いている。
格好といい木の上から現れた様といい、まるでトムソーヤに出てくるハックみたいだと思った。自由で気ままで、陽気なハックだ。
「凌……じゃなくて……、高下監督。監督こそ、こんなところで何やってるんですか?」
「俺?俺はねえ、あれ見てたの」
27歳のハックが指差した方を見てみると、塀のはるか上、桜の枝の間に小枝の絡まったような塊があった。
「……?」
「すずめの巣だよ。何かピロピロ動いてるなと思って見てたんだけどさ、なんとまあヒナが落ちかけてんの。そこで、The・救出」
「救出……?」
「うん。くちばし開けてピーピー鳴いててさ、まるで昔の誰かさんみたいだったぞ?」
そう言って凌お兄ちゃんは、少年のような笑みを湛えた。
「ほんと泣きべそだったよなぁ、小さかった誰かさんは」
続けて久しぶりに、いくつかの思い出話しが出た。
嬉しげに楽しげに、終始笑顔で話す凌お兄ちゃん。あたしはそんなお兄ちゃんから視線を外し、少し距離を取った。
そして河原でケンゴが言った「オレはくだらない」という台詞を思い起こし、反芻する。
そう。あの日以来、あたしはケンゴの‘告白’を戒めに、凌お兄ちゃんとの余計な接触を避けているのだ。
部活中、あたしは警戒しすぎるほどに凌お兄ちゃんを警戒した。そして常にハナちゃんを間に挟み、マネージャー業務に没頭した。
だからこうやって凌お兄ちゃんと面と向かうのは久しぶりだった。
「しかしほんとよくピーピーと泣いてたよな。寂しがり屋だし気は弱いしでどうにもならなかったねぇ」
クスクスと笑いながら凌お兄ちゃんは、あたしの取った距離を無意識のうちに縮める。
「そうそう温子、覚えてる?肝試しが怖いからって理由で、学校のキャンプ休んだこと――」
「い、いいえ……」
「うそぉ。あの時監督に内緒でさ、キャンプに行ったふりして俺んちに泊まりに来たじゃん?」
「覚えてません……」
「えー!あの一宿一飯と、学校に嘘電までした俺への恩を忘れちゃったのー?そりゃひでー!」
だから、近い……。何度離れてもいつの間にか間合いを詰められてしまう。
どうしてこんなにも安気なんだろう。
こっちは接近を避けながら、話しを打ち切ろうと必死だというのに。
気を取り直し、もう一度距離を取った。
「やめて下さい……子供の頃の話なんて」
すると、憮然とするあたしに凌お兄ちゃんは、つんと口を尖らせた。
「あーあ、あの頃の温子ちゃんは俺のこと、‘正義のスーパーヒーロー’とかって言ってくれてたのにー」
否定はしない。
確かにお兄ちゃんはヒーローだった。あたしはいつも凌お兄ちゃんに助けられてばかりだった。
筋金入りのドジだったあたしを、お兄ちゃんはいつも庇ってくれた。
それこそ巣から落ちそうになっていた、すずめのヒナ鳥のように。
「温子さ、俺のこと嫌い?」
突然顔をのぞきこまれた。
急にジャブが来た感じで、あたしは思わずたじろいだ。
お調子者ではあるけれど、真顔で黙っていると凌お兄ちゃんはかなりのフェロモン系だ。
間近に迫られると、そういう意味でも圧迫感を感じる。
「おっ、見て見て温子!親鳥が帰ってきたぞ?」
こちらはまだあたふたしていたというのに、凌お兄ちゃんはすでにすずめの巣に気を移していた。
頭上を仰ぎ、嬉しそうにすずめの親子のさえずりを聞いている。
凌お兄ちゃんの横顔に薄く汗が滲んでいた。梅雨入りの近い午後の蒸し返りの中、すずめを助けたい一心で木登りなんてしたからだろう。
ヒーローは現役で、無邪気なとこも相変わらずで、凌お兄ちゃんはちっとも変わっていない。
(嫌いとかじゃないよ……)
でもある日、この無邪気なヒーローはいなくなってしまった。
突然、何も告げずに姿を消した。
みんなそうやっていなくなるんだ。みんなあたしを置いていなくなるのだ。
凌お兄ちゃんが消えて、お父さんが消えて、あたしは空っぽになった。
その後優しく包んでくれたサト叔母ちゃんも、もうすぐいなくなってしまう。
あたしはまた、独りになってしまうんだろうか。
恐怖にも似た孤独。忘れかけていた喪失と絶望の闇。思い出す。
がくがくと体中に震えが走り、身の毛がよだつほどの悲しさを味わったこと。
「お兄ちゃん……」
「およ?なに温子?今日は‘お兄ちゃん’って呼んでくれるんだ?」
「……」
「どした温子?ちょっと変だね、お前」
木の間をすり抜りぬけ聞こえる小鳥の声が、ざわめく木の葉と一緒になって踊る。
巣に戻れて良かったねと、鳴いている。
置き去りの記憶の中に蘇るのは温かいぬくもり――?それとも冷たい、闇――?
気の遠くなりそうなイヤな感じがして、凌お兄ちゃんにしがみついた。思わず胸元を掴んでしまった。
しかし、すぐにハッとする。
「ご、ごめんなさ……」
凌お兄ちゃんはすかさず、離れようとするあたしの肩を両手で掴んだ。
「いやいいよ、なんかあった?」
「……」
「どーした、言ってみ?」
返答するにふさわしい言葉が見つからなかった。どうしようもなく、そのまま押し黙ってしまった。
特に何があったというわけではない。
人一倍苦労をした叔母が幸せを掴もうとしている。あたしはあたしで進学にしろその先にしろ、贅沢なほどの選択肢や道が光を湛えて待っている。
むしろ良いこと尽くめなのだ。
「温子、肩の力抜け。なんかあるなら話してみ?」
そう言って、掴んだあたしの肩をゆっくりと揺らした。その揺れに正気が戻り、あたしはすぐさま凌お兄ちゃんから離れた。
「すいませ……大丈夫です……高下監督」
いけないいけない。
こんなことで、自分からケンゴの気持ちにそむくようなことしちゃいけない――。
「へんな片意地張るなよ」
そう言うと凌お兄ちゃんは、今度はどことなく悲しげに笑った。
「ヒーローとまではいかなくてもさ、2人の時くらい‘お兄ちゃん’って呼んでくれたっていーじゃない?」
あたしは首を振った。
「ううん……ダメ。2人きりになることだって、もうそんなにないでしょ」
その言葉に、思いがけない沈黙が走った。凌お兄ちゃんは離れたあたしを追わず、顔だけをこちらに向けた。
「許せない?俺のこと……」
どんな時でも笑顔だった凌お兄ちゃんの顔に、落胆の色が落ちた。