diary26 凌お兄ちゃんの影
本当に、色んなことのあった一日だった。
髪を乾かしてベッドに転がり天井を仰ぐと、また凌お兄ちゃんの顔が浮かんだ。
笑ってる顔だった。
いつもの笑顔のお兄ちゃんだ。笑ってる以外の顔は、印象に薄い。
昔からそうだった。
凌お兄ちゃんは本当にいつも笑ってて、底抜けに明るくて楽しくて、優しい人だった。
悲嘆とか嫌悪とか、そんな感情はあるのかしら?と、ちっとも変わっていない凌お兄ちゃんの面影に‘負の感情’を重ね合わせてみて、そしてやっぱり違和感に思った。
なのに……
今日の帰り際の、凌お兄ちゃんの寂しげな横顔。あんな顔、初めて見た。
凌お兄ちゃんもあんな表情をするんだと驚いた。
明るいを通り越した厚顔無恥ともとれるような振る舞いの裏には、計り知れない悲しみがあったりして。
ふと、そんなことを考えてみたりする。
それほどに、今日のお兄ちゃんの顔は、とても気になった。
サト叔母ちゃんの否定の言葉の数々も、さらなる疑念と不安をあたしにもたらす。
気になる。
ずっと気になっていたことが、更に気になる。
「あなたは知らなくていい」
いつになく突き放すように言ったサト叔母ちゃんの言葉が、頭から離れない。
お父さんと凌お兄ちゃんの間に、何かあったのだろうか。
それがお兄ちゃんの、いなくなった理由なのだろうか。
分からない。
「それにしてもあたし、なんだってあんなにもお兄ちゃんに噛み付いちゃうんだろ」
昔はあんな言い方や、激しい口調で当たったりしたことなんてなかった。
一度も。
優しくしてもらいたくて、遊んでもらいたくて、ことさらいい子でいようと心がけていたくらいだったのに。
凌お兄ちゃんが大好きだった。
兄弟も母親もいない、仕事で家を空けがちなお父さんと2人きりだったあたしの前に現れたお兄ちゃん。
サッカーの練習の前、サッカーの練習の後。サッカーがお休みの日、そうでない日。
凌お兄ちゃんはいつも一人ぼっちだった空虚なあたしに、笑顔と温かさを注いでくれた。
「あーつ子、今日監督遅くなるんだって。俺が飯作ってやるから一緒に食おうぜ」
「温子お、宿題やってから遊ばないと監督に怒られるって」
「明日から夏休みだろ?隣町の市民プール行こうか」
「どうしたその怪我はっ?!誰かにやられたのか!?こんにゃろう誰だ、温子に怪我させたのは!」
「ん?眠いの?よし、んじゃあおにーちゃんが子守唄を歌ってやる」
最高の存在。
いつもそばにいて甘えを許してくれる、たった一人の人――
あの時お兄ちゃんが歌ってくれた変な子守唄を思い出していたら、いつの間にか眠りについていた。
そして、浅い眠りに漂いながら夢を見た。
大きな荷物を持ったお兄ちゃんの影が、あたしを置いて遠のいてゆく。
「待ってよ凌お兄ちゃん?!どこに行くの?」
幼い頃に負った傷が、今も胸の底で疼いているのかもしれない。
それが反抗的な態度の裏返しだとすれば、あたしは今でも凌お兄ちゃんに執着しているのかな……
遠ざかる背中に手を伸ばしながら、足をもつれさせて転んでしまった。
顔を上げると、後ろ姿は消えている。昔何度となく、繰り返し見た夢。
今日は顔を上げる前に目が覚めた。
時計を見ると、まだ午前三時だった。
一階に降りて冷蔵庫を開けた。明かりを点けていない台所に、庫内灯の光が漏れる。
麦茶を取り出してコップに注ぐと、ほとんど一気に飲み干した。
喉がカラカラだった。
カラカラでひりひり。
ひりひりした喉を、冷たいお茶がつたい落ちてゆく。
その落ちてゆく感覚に、懐かしいような切ないような、一片の痛みを感じる。
断ち切った思いを、乗り切った悲しみを、それを思い出させられるのは、やっぱりちょっと辛い。
あたしは心のどこかでお兄ちゃんのことを、「許せない」と思っているのだろう。
「許せない」と思うほどに、感傷的になるほどに、凌お兄ちゃんのことを求めていたのだろう。
久しぶりに見た夢の切れ端に、見失った後ろ姿を探しあぐね、泣き疲れたあの頃の痛みが甦る。
もう一度ベッドに潜った。でもなんだか、眠れる気がしなかった。
凌お兄ちゃんの影は、私の心の影。
失うことをひどく恐れていたあの日と、幼かった自分の寂しさの残像。
でも、今となっては、全部全部昔のこと。
今手の中にあるもので、きちんと整理をつけなくてはいけない。
幼くて儚かった自分から、完全に抜け出さなくてはいけない。
だってあたしはもう、とっくに前を向いて歩いているのだから。
布団を深く被り、体制を整えた。明日も部活がある。
祈るように目を瞑ると、鋭くて強いケンゴの眼差しが浮かんだ。
まっすぐにあたしを見る、強くて優しいケンゴの目。
眼裏のケンゴの目が、静かに微笑んだ。
体からスッと力が抜ける。
体温で布団の中が温まってきた頃。
ケンゴの温もりに包まれるように、再びあたしは眠りに付いた。