★ 現在
店の扉が半開きになっている。
帰宅した温彩は玄関ではなく、店先からサト子に声をかけた。
「ただいまー」
「あ……、お帰りなさい、温彩」
「おっ。お帰り、温子」
いつもの掛け合いに、一人分プラスされた返事が返ってきた。
「ええっ、凌、お兄ちゃん?!」
カウンター前に佇んでいる人影に目を向けると、学校で別れたはずの凌一の姿があった。
目を皿のようにしたまま凌一に詰め寄る。
「んな、何やってんの、こんなところでっ!?」
「何って、家庭訪問?温子リアクション凄すぎ」
くしゃっと目じりにしわを作る凌一。
「一体どうしたって言うの?来るなら来るって、どうしてさっき言ってくれなかったの!」
「だから一緒に帰ろうって言ったじゃん」
「もう!何でいつもそうなのよ凌お兄ちゃんはっ。監督就任のことだってびっくりしたばっかりなのに」
両手を挙げて降参のポーズをとる凌一と、腰に手を当て凌一を叱責する温彩。
「で。家庭訪問なわけないし、家まで来た本当の理由はなあに?」
「監督に挨拶に来たんだよ。本当はもっと早く来たかったんだけど」
そう言いながらカウンターに目をやった。
温彩の好きな、薄桃色の八重咲きのチューリップの花束が置いてある。
「お父さんの……仏壇に?」
「にしてはちょっと、派手だったか?」
凌一はお決まりの笑顔を温彩に向けた。
凌一は温彩の父が亡くなったのをしばらく知らないでいた。
逃げるようにして海外に渡り、日本から離れた場所でサッカーに没頭していた。
何かを払拭するかのように、何年かの間は、後ろを振り返らない日々を送った。
しかし、まさか自分が発った後間もなくして、恩師が突然この世を去るなんて思いもしない。
温彩の父の死は凌一にも絶望をもたらした。
残ったのは、重たい後悔だけ。
色々と思い出されることがある。
凌一なりにまっすぐに走っていた学生時代。恵まれない環境に身を置きながらも、自分のサッカーを追い求めていた頃。
才能と人気、そして花のあった凌一。大学では嫉妬や確執、容赦のない憎念に見まわれ、自由を奪われた。
そんな時に菅波と出会った。『凌一、俺の手助けをしてくれないか――?』
その右手には、幼い温彩がいた。
燻った自分に勇気を与えてくれた、小さな小さな女の子。
現在。現実。
戻ってきた日本には、高校生になった温彩だけが残っていた。
自ら断ち切り逃げ出した場所。変わらずにある唯一の存在――。
「酷いよな、監督。こんなかわいい娘を残して逝っちゃうなんて」
凌一は、温彩の頭をくしゃくしゃと右手で掻きまわした。そしておどけた顔で笑ってみせる。
意図しない場面でも、微笑むことには慣れている。
冗談を言って、場を軽くすることにも。
「凌お兄ちゃん……急に消えたり、急に現れたり、あたしを翻弄して喜んでる?」
温彩が呟くように言った。凌一の作り出す空気には動じなかった。
動じなかったというよりは、心に抱えているものがそうさせなかったのかもしれない。
「あたし、本当に悲しかったんだよ、あの時」
上目遣いに凌一を見上げる温彩の目に憎悪こそなかったが、いい知れない気持ちが滲んでいた。
「温子?」
温彩は、お兄ちゃんのバカ……と呟くと、そのまま小さく俯いた。
サト子が、静謐な口調で2人に割り入った。
「凌一くん。温彩も帰ってきたし、お店もそろそろなの。急でもあったし、今日のところはお引取り願えるかしら」
「はい……分かりました」
さすがの凌一も引き下がることにした。
作った笑顔に溜息が混じる。
「ごめんな、温子」
それだけ言うと凌一は、サト子に一礼し、静かに店を出た。
「温彩、大丈夫?」
「うん。ごめん叔母ちゃん」
温彩は我に返ると、サト子に明るく舌を出してみせた。
「柄にもなくしんみりしちゃったね」
「ねぇ、温彩」
「うん?」
「凌一くんとは、学校以外ではあまり関わらないで欲しいの」
「え、どうして?」
「どうしても……」
不思議に思うも、浮かない顔のサト子に、それ以上問うことができなかった。
置き去りになった花束から、チューリップの花が香る。
戸惑う温彩に、カウンターに置かれた白い箱を、サト子が指した。
「そのケーキ、角で買ってきたんだって。せっかくだから頂くといいわ」
「お兄ちゃんが?」
温彩は箱を手に取った。「そうなんだ……」
箱の横にセロハンで作られた小窓があって、雛人形の飾りが付いたデコレーションケーキが見えている。
「やだ、大きなケーキ」
自分を未だに子供と思っているのか、それとも凌一の方が子供っぽいのか。
(変わってないな。凌お兄ちゃん)
ケーキの箱を開けると、ロウソクが12本、添えられていた。
「ごめんな、温子」と言った、凌一の顔が浮かんだ。