diary24 背中越しの
凌お兄ちゃんに足止めされていた数分の間に、ほとんどのみんなは帰宅していた。
ケンゴを探してはみたけど、すでに校内にはいないようだった。
一緒に帰る約束をしていたわけじゃなかったけど、今日のことが気になっていたから、なんとなくそわそわする。
取り合えず河原に向かうことにした。
暗黙の待ち合わせ場所になっているいつもの場所に、ケンゴがいることを祈った。
学校を出て大通りを過ぎ、河原へ続く脇道を一気に抜けた。
視界が開けて草の匂いがしてくる。冷たい季節を越えた芽吹きの匂いだ。
橋げたのふもとの広場に降りるための、一番奥の石段へと向かう。
見慣れた景色が近づくと、ボールの音が聞こえてきた。
良かった。土手下で馴染みのある音が響いている。
あたしは安堵の溜息で呼吸を整えると、石段に向かって再び歩を進めた。
ケンゴの後ろ姿を視界に捉えた。
ブレザーを脱ぎ、カッターを腕まくりした袖口からは赤いリストバンドが見えている。
軽く体を動かしているだけのようで、ポケットに手を入れたまま簡単なリフティングと壁打ちを繰り返している。
もしかして、あたしを待っていてくれたのだろうか?
石段を下るあたしに気づいたケンゴが、ちらりとこちらに顔を向けた。
膝から足先にボールを移すと、ボールだけに集中させていた意識を二分させ、そのまま壁に向かってボールを打ち始めた。
いつもそうなのだけど、あたしがそばに行くまでの間、ケンゴは壁打ちシュートを繰り返す。あたしはそんなケンゴの後ろ姿を見るのが好き。
そして、年々迫力を増してゆくケンゴの動きと、そのフォームの美しさにも心を奪われる。
今や名実共に、バリバリの高校サッカーの選手なのだ。
選手権後に発売された某サッカー雑誌の拡大号に、『高校サッカー・涙をのんだ注目株』というコーナーがあった。
そこには予選敗退校の選手も数人ピックアップされていて、その中になんと、ケンゴの名前が上げられていたのだ。
‘高い身体能力と攻撃的サッカーでひときわ目を引くFW上代(K高・二年)。来年に期待’というコメント付きで。
嬉しくて舞い上がってしまい、店頭にあった5冊の全てを購入した。そして分厚い紙袋を抱え、うきうきしながら帰宅した。
しかし、雑誌の重みで腕がしびれてきたころ、だんだんと複雑な気持ちになってきた。
雑誌の重さと不安がリンクし始める。
もしもケンゴが超有名人になったら、あたしの存在なんかきっと、周囲の熱気と勢いで弾き飛ばされてしまう。
報道陣に囲まれるケンゴの姿を想像した。
フラッシュをたかれる中、中央に堂々と立つケンゴがいる。
あたしは前に進もうとするんだけど、人の渦に押し返され、それどころか、声すらも届かない。
河原の草に足を取られ、躓きそうになった。それと同時に、変な妄想から意識を戻した。
モヤモヤを払拭するように、あたしは壁に向かうケンゴを呼んだ。
声が届くと、ケンゴは左頬だけをこちらに向けて、背中越しにひょいと眉をあげた。
その動作にキュンとなる。あたしは相変わらず、そんなケンゴの仕草に弱い。
2人でいることにはすっかり慣れたけど、こうやってドキンとさせられてしまう瞬間は、以前と変わらず、度々私を訪れる。
「良かった。待っててくれたの?」
そういうとケンゴはボールを宙に蹴上げつつ、それを目で追いながら答えた。
「別に、オレはいつものパターンでここなだけ」
それにしては、ネクタイも付けたままだ。本腰を入れている時はカッターも脱ぎ、インナーだけで走り回っているはずなのに。
「そっか。今日は風も冷たいし、ね」
なんとなくそう言うと、取り繕うようにケンゴはネクタイを抜き取った。
ケンゴの不機嫌面はいつものことだけど、どことなくその表情が硬い気がする。
勝手な罪の意識がそういう風に見せているだけなのかもしれないけれど、今日の凌お兄ちゃんとあたしの絡みを不審に思わないわけがない。
「ねえケンゴ、今日のことなんだけど……」
「……」
言葉が返ってこない。もしかしてやっぱり、怒ってるとか?
「凌お兄……じゃなくて、高下監督は、あたしのお父さんが監督をやってたチームの選手だったの。あたしが小学生の頃だったんだけど、その時よく遊んでもらったっていうか」
「……」
話を聞いているのかいないのか、ポケットに手を入れたまま、黙々とリフティングを続けている。
「お父さん、当時企業サッカーのチームを担ってたのね。で、そのチームがJFLからJリーグへの昇格を目指してて。そのタイミングで、当時大学生だった高下監督のことをお父さんが引き抜いたの」
「……」
ケンゴは黙ったまま足を止めると、ボールを拾ってからあたしの横に腰を下ろした。
スポーツバックからドリンクを取り出し、それを数口飲んでまたしまった。
「親しかった理由はそこなの。お父さんと高下監督が仲が良かった理由っていうか。だからその、あたしはその娘だったってだけで、今日のことは、その、心配しないで……」
だんだんしどろもどろになってきた。
こんなことを言ったところで、執拗にハグされた上、「カワイイカワイイ」と犬猫を溺愛するようにこねくり回され、凌お兄ちゃんも凌お兄ちゃんで周りの空気を読むどころか、まるで独壇場を見せつけるかのように立ち振舞ってたわけで……
その時、隣でケンゴが呟いた。
「やだね」
あたしはドキッとすると同時に、無意識にケンゴに視線を向けた。制服のカッターシャツの襟が風で揺れている。
ケンゴは川の方を見ていた。そのままもう一度、「やだね」と繰り返す。
どういう意味……?心の中に、緊張の糸が張り詰める。
ケンゴは川の水面に視線を留めたまま、立てた膝の上に肘をついて動かない。
その表情もまた、動かない。
「くだらねえな。誰が心配なんかするかよ」
あたしは思わず言葉をなくしてしまった。ケンゴを見たまま動けない。
二月の風が河原を吹き抜ける。
ヒョウという音がしてポニーテールが首元を打った。それと同時に、ケンゴがこちらに顔を向けた。
ケンゴは笑っていた。
「いちいち心配なんかしねえよ。お前のことだったら信用してる」
ホッとして全身が脱力した。
「本当に……?」
「うそなんか言うか。それともまだダラダラと弁明みてーなこと続けんの?だったらそれこそくだらねェから、一人でやってろ」
ケンゴはもう立ち上がっていた。ひょいと手のひらでボールをはじき、指の上で回転させながら再びこちらを向いた。
「で、結局Jリーグへは昇格しなかったのか、親父さんのチーム」
「うん……高下監督もすぐに海外に行っちゃったし、その後も何かとうまくいかなかったみたい。挙句、志し半ばで死んじゃったでしょ。あの時は何も考えられなかったけど、今考えてみたら可哀相よね、お父さんって」
「Jリーグ、か」
ぽつんと呟くと、ケンゴはリフティングを再開した。
「見てみたかったか?親父さんのチームがJでやるとこ」
「もちろんだよ」
ケンゴは話しながらも、器用に右足だけでボールを跳ね上げ続けている。
「つか、それでサッカー部のマネージャーなんてやってんのか、お前」
「ん。ベタだし恥ずかしいけどそんなとこ。お父さんね、サッカーに生涯を捧げてたみたいな人だったの。いつもいつもサッカーのことばかりだったよ。だからこそ大舞台で指揮を取るお父さんを見てみたかったし、それがあたしの夢にもなってたから……」
久しぶりにお父さんの姿が眼裏に浮かぶ。ウエアを身に付け、選手を見守る父の姿。
大好きだった、お父さんの背中。
「そっか……」
独り言のようにケンゴが呟いた。
夕方が近づいてきた。気温が下がり風の冷たさが増してくる。
「お前、今日ちょんまげのままだな」
無意識に首をすくめたあたしを見てケンゴが言った。
「本当……部活の後髪ほどくの忘れていたみたい。急いで来たからかな」
頭上から溜息交じりの笑い声が聞こえた。
「寒くねえのかよ」
鋭い目に温かさが宿る。
「バッグん中にマフラー入ってる。巻いとけ」
かっこ悪いからと、ケンゴは普段マフラーを使わない。
なのにバッグの中にはいつもマフラーがある。あたしがクリスマスの時に贈ったマフラー。使わないけれど、毎日持っていてくれている。
あたしは、少し寸法の長いそれを首に巻きつけた。
ケンゴの匂いがする。
背中越しのケンゴにお礼を言おうとした時、ふとその向こうから声がした。
「オレが、見せてやれるといいけど……」
聞き取りづらくて咄嗟に問い返したら、「なんでもねーよ」と、ケンゴは言葉を濁した。
そんなケンゴの背中を見ていると、言い知れぬ不安と寂しさに襲われた。
あたしは思わず立ち上がり、その背中に抱きついた。
ケンゴは初め不思議そうにしていたけど、その後は黙ってそのままでいてくれた。