diary23 懐かしさと
期末試験が近いので、この日の練習は早めに切り上げられた。
片付けをすませ、教官室に鍵を返却に行った時、「失礼しまーす」と、教官室から廊下に出てきた凌お兄ちゃんにばったり出くわした。
「お兄ちゃん」
「お、温子!丁度良かった。今からお前を探しに行こうと思ってたんだよね」
そう言ってピースを繰り出してくる。「飯田さんにこってりしぼられちゃった」と、お説教された人には見えない顔で笑っている。
「もう帰るんだろ?送ってくしさ、一緒に帰ろうよ」
またしてもハグしてこようとする凌お兄ちゃんを、身を翻して交わした。
「もう、やめてよ。あたしはもう小学生じゃないんだよ。それに個人的に生徒を送ったりなんて、そんなことしたら問題になっちゃうって」
あたしの言うことなんてまったく聞いていない様子で、凌お兄ちゃんは泣き真似をしながら続けた。
「感動だ、感激だ、温子がすんごいベッピンになったー」
鍵を返却しに教官室に入り、所用を済ませてドアを出ると、凌お兄ちゃんが待っていた。
廊下にしゃがみこんでタバコを吸っている。
「ちょっと!駄目だよこんなとこでタバコなんて吸っちゃ!監督に見つかったらまた怒られちゃうよ」
「平気だって。それよりも温子、一緒に帰ろうってばー」
「んもう!そんなことより早くタバコを消して」
あたしが怒ると、お兄ちゃんは「はいはい」と肩をすくめてから、お尻のポッケから携帯灰皿を取り出してタバコの火を消した。
きちんと携帯灰皿なんて持ってたのが意外で、なんとなく可笑しかった。
そしてそんな凌お兄ちゃんのヘンなところを、懐かしいなとも思った。
廊下を歩きだすと凌お兄ちゃんがあたしに並んだ。ちょこちょこと子供みたいについてくる。
これでもずっとサッカーをやってきた人。長身で締まった体格にそれなりのマスク。お兄ちゃんが女の人を好きな以上に、女の人からも人気があったことを思い出す。
それなのに、何故かいつも全身全霊で、こんなに『無邪気』。
「ねぇ、凌お兄ちゃん」
「なあに温子」
見下ろしてくる横顔もすごく魅力的。なのに、
「再会を祝して、食事にでも誘ってくれるの?」
「……」
なんだってこんなに軽いのだろう。
「海外に行ってたんじゃなかったの?」
「うん。去年帰ってきた」
「そうなんだ。でもどうして?それに、なんで部活の監督なんかに?どこかのチームには所属してないの?」
「おいおい、質問攻めかよ」
そう言って凌お兄ちゃんはまた笑った。「ま、嬉しいけど」
校舎の外に出ると、再び生徒達の注目を受けた。
瞬く間に噂が広まったようで、次期サッカー部の若き専任監督を遠巻きに見物しにきたようだ。
当然のように、女子生徒が中心だった。
「やや?なんだかあっちこっちでカワイ子ちゃんがこっち見てるぞ?」
凌お兄ちゃんが手を振ると、小さく歓声が上がったりして、中には手を振り返す生徒もいた。
ふわふわと歩きながら鼻歌を歌うお兄ちゃんの声。明るい曲調の歌に、たまに口笛を乗せる。
そんなメロディーを聞いていると、お父さんがいた頃のことを急速に思い出す。
懐かしくて、ちょっぴり切ないメロディー。
「お兄ちゃん」
「うん?」
「久しぶりだし、ゆっくり話したいとは思うけど……」
メロディーに切なさを覚える理由。それは昔を思い出すのと、もう一つ。
ある日突然、その口笛の主が姿を消してしまい、幼心に失意した記憶があるから。
「……だけど、学校ではまずいと思うから」
「そんなもんかなあ」
「そんなもんだよ。それに、こういうのも」
「こういうのって?」
ポニーテールの先を指ですくい上げ、その先をくるくると丸めて遊ぶお兄ちゃんから、あたしは身を引いた。
「なんだよー。昔よく髪とかしてやったじゃん」
「だからそれは昔のことでしょ」
確かにあの頃、凌お兄ちゃんは、本当の妹みたいにあたしをかわいがってくれた。
何かと忙しいお父さんに代わって、一人ぼっちで留守番をしていたあたしを訪ねてきては、こまめに面倒を見てくれた。
今考えれば不思議なことだ。
当時お父さんは、実業団のサッカーチームの監督をしていて、お兄ちゃんはそのチームの選手だった。
お父さんの息がかかった選手だったとはいえ、大勢の中の一選手にすぎない。
なのに、何であたしたちはあんなにも密だったのだろう。今になって思う。
「それに、たとえ部活の監督とはいえ、学校に在籍するってことは先生と同じ立場なんだよ?」
あたしはお兄ちゃんの指からすり抜け、振り返って言った。
振り返ったあたしを、笑いながらもきょとんとした顔をして見ている。
人を警戒させない凌お兄ちゃんのそんな表情は、やっぱり懐かしい。
どこからともなく甘えたい気持ちが沸きあがった。
それにびっくりして、すぐに否定した。
「今日は帰るね。それに、凌お兄ちゃんじゃなくて、これからは高下監督……」
あの頃に比べると、あたしだって成長した。
少しは大人になった。
「今春から、あたしたちサッカー部をどうぞよろしくお願いします」
風が吹いて、凌お兄ちゃんのふわふわした髪が少しなびいた。
「よろしく温子」
そう言って見せた戸惑ったような笑みも、また、懐かしかった。