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★ 新風

冬休みのただ中。

人けのない校舎に、来客用スリッパを引っかけた足音が、職員室を目指してリズミカルに鳴っている。

同時に聞こえる鼻歌も廊下に反響し、陽気にこだましていた。


高下凌一たかしたりょういちは、パタパタと歩を進めながらふと自分の吐く息が白いことに気付き、大袈裟に目を丸くして肩をすくめた。

「学校ってこんなに寒かったっけ」

そうは言いながらも慣れないネクタイの窮屈さは耐え難く、襟元に手をやり結び目を掴み、それを左右に振ってささやかな自由を確保した。

隙間の出来た首元から冷たい空気が流れ込む。

窓向こうの中庭のフェニックスには雪が被さっていた。しんしんと降り続く追い雪の絡まった葉が、しな垂れながらも白雪を必死に抱え込んでいる。

人差し指で銃口を作るとフェニックスに向けた。

小声でバンと囁き撃ち真似をしたが、雪は落ちなかった。凌一は笑んだままフェニックスの葉から視線を外し、再び肩をすくめた。そして鼻歌を再開した。

一人でいる時もよくこのようなジェスチャーをする。

日本だと滑稽に取られがちなこんな動作も、彼がやると自然だった。通り風のようにさらりと吹き抜け、空気に溶けた。


廊下の終わりに差し掛かった。

唯一燦々と電灯のついた職員室は、冬休みの学校にポカンと浮かび上がって見える。

「失礼しまーす。高下と申しますが、飯田先生はおられますかー」

ドアのすり硝子をノックする音と間延びした声が、しゅんしゅんというストーブの音をかき消した。


職員室には当番の出勤職員が一人、コーヒーをすすりながら新聞を広げていた。

私立校には珍しくもない老教師だ。老年にしては色艶のよい顔をあげると、出入り口の正面を指差して言った。

「飯田先生ならそちらですよ」

パーテーションで区切られた応接スペースが、前方の部屋角に設けられている。

「どうも」

朗らかに礼を言い、指された方へと顔を向けた。すると、ソファーから立ち上がり顔を覗かせた飯田と目が合った。

「おう、来たな、凌一」

「ちす、飯田さん」

「取り合えずこっちに来て座れよ。ちょうどコーヒーをたてたところなんだ」

「本当だ、いい匂いがしてる」

「豆から挽いた俺のスペシャルブレンドだ。飲ませてやるから座れ」

「やった、今日はツイてるな」

凌一は、スーツの上に羽織っていたパーカーコートを脱ぐと、それを片脇に突っ込みながら飯田に歯を見せた。

コーヒーの香りに誘われるようにして応接スペースに踏み込むと、そのままソファーに落ち着いた。

テーブルの中央には灰皿が置いてある。

「学校って禁煙じゃないんだ…」

「ああ、このスペースだけ特別だよ。なんだ、タバコなんて吸うのか?」

「現役ん時は控えてたけど」

「吸いたいなら今のうちに吸っとけ。基本、校内はどこも禁煙だからな」

「じゃあお言葉に甘えて」

胸ポケットからへしゃげたタバコを取り出し、ポイと一本突き上げて口の端に咥えた。


「外は寒かったろ。そういや、雪を見るのなんて久しぶりなんじゃないのか?」

飯田は、コーヒーサーバーから来客用カップにコーヒーを注ぐと、「ほい」と直接手渡してやった。

湯気の立つカップを受け取り、嬉しそうに口に運びながら答える凌一。

「いいえ。首切られてからはしばらく遊び歩いてましたから、日本の雪山にも再三足運びましたよ」

吸いかけだったタバコは灰皿に押し付け、出来立てのコーヒーに集中する。一口飲んでから、香ばしい香りを鼻腔に勢いよく吸い上げ、顔を綻ばせた。

「スキーか何かか?海やら山やら、相変わらず多趣味だなお前は」

「単純にギャルのたくさんいるところが好きなだけです」

「おいおい、先に言っとくがここは学校だからな。今後は慎んでくれよ、そんな発言」

「へいへい、飯田さんの顔は潰しませんよ。一応、俺の大先輩なんですから」

「横柄な物言いも相変わらずだな?‘一応’は余計だろうが。頼むから学園長にはそんな口きいてくれるなよ」

「分かってますって飯田先生…じゃなかった、飯田監督」

「他人事みたいに言うな。春からはお前がそうなる予定なんだぞ」

「でもまずは今日の最終面談をパスしなきゃでしょう?」

「そう思うなら、きちんとネクタイ締めておけ」

「はいはーい」

飯田はやれやれと溜息をつき、自分もコーヒーを口にした。

無邪気に微笑むかつての後輩。一時期、日本のアマチュアサッカー界に名を轟かせたことのある男。大物なのかふうてんなのか、いずれにしてもいくつになっても変わらないヤツだなと、溜息の端から笑みがこぼれる。


飯田を見ている凌一も、相変わらず緩い笑顔を浮かべていた。

「…おいおい、いまいち緊張感がないなあ凌一。あまんまりヘラヘラ笑うなよ」

「そういう飯田さんこそ、さっきから先輩面しすぎ」

「当たり前だろ。今回は推薦者だしな」

…しかし、飯田は知っている。

間の抜けた笑みをぶら下げているようで、その目の奥に隙は窺えない。こぼれ落ちているようで、こぼれ落ちていない本質。

今期で職員を退く自分の後任に凌一を据えたいと思っている理由は、彼のそんなところに惹きつけられるからなのだ。


午後になってから、中庭には朔風が舞い込んでいた。

一月の冷気に煽られ、フェニックスの葉を覆っていた雪もいつの間にか足元に滑り落ちている。

「よっしゃ…そんじゃまあ、就活といきますか」

コーヒーを飲み終えた凌一が立ち上がった。スーツの裾を軽く払い、裾のボタンを留める。そしてネクタイに手をかけて結び目を引き上げた。

「よし。じゃあ少し待ってろ。今、園長室に内線を入れてくる」

「ほい!よろしくお願いします」

凌一はまるで生徒のように快活な返事を返すと、満面の笑みで座談を締めくくった。


中庭に吹き込んでいた風は静まったようだ。

先ほど積雪を下ろしたばかりのフェニックスの葉は、すでに薄っすらと新雪を装い始めている。



一方、その頃河原では…


「だ~か~ら…あんだけ家で待ってろっつったじゃねェかよ…なんでそんなアホなんだよお前は」

「ご…ゴメン」

「ゴメンはもう聞き飽きた」

「うう…」

「うう、も聞き飽きた。いいからしっかり掴まっとけ!トレーニングがてらちょっと走んぞ」

「ええっ?!」

「ええじゃねェ!いくぞ!耐えろ!」

「ひゃぁ~!」

雪のちらつく河川敷公園。ジャージ姿の賢悟がボールを小脇に抱え、ダッシュで石段を駆け上がっている。その背中には、マグニチュードに挑む温彩の姿。

「平気だから降ろしてケンゴ~!」

「うるせェよ、面倒くせえからそんまま張り付いてろ」

「落ちるってば~」

「落ちねェよ!片手で支えてんだろうが」

「だからそれが問題なの~、ケンゴのスケベ~!」

「アホか!!!終いにゃぁマジ落とすぞお前は!!」

「いゃ~」

「ヘンな声を出すな!!!」


新風の舞い込む春――


「あ。そう言えば…例の菅波監督の娘。来年もマネージャー続行ですか?」

「ああ、夏には引退だけど、最後までやるつもりだろ」

「そっかそっか」

「確かお前、菅波のこと知ってるんだったな」

「ええ。でも日本出る前のことだから、最後に会ったのはまだ、彼女が小学生の頃だけど」

「なかなかよくやってくれてるよ。さすがは菅波さんの娘だよ…」

「そっか、じゃあ俺も頑張んなきゃな~」


新しい風は春の訪れとともに、過去と未来を運び込む―――





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