diary14 飛翔
「このままじゃまずいな…」
沖先輩が言った。
スラリとした足を組みかえると、相変わらず整った眉目を曇らせ腕を組んだ。
「後半も苦しい展開ね」
その隣のチェアには、瑞樹先輩が固唾をのんで後輩イレブンを見守っている。勝利の女神と呼ばれた瑞樹先輩も、さすがに不安げな表情だ。
大会予選の決勝リーグ。今日は県下のベスト4が激突する準決勝の日。
この試合に勝てばいよいよ全国が見えてくるというところまで来て、現在ケンゴたちは苦戦を強いられている。
前半から2点の先制を許してしまった我がサッカー部は、相手校にペースを乱されたまま後半にも1失点。現在0-3と、点を取れないままの状態で押され気味になっている。
「かなり厳しい状況に追いやられてんな。向こうさんのDF、ありゃ鬼だぞ」
元キーパーの小林先輩が言った。今日はOBの先輩達が沢山ベンチに来てくれている。
「まるで地獄の門番じゃないの。噂以上だな、あのボランチ。思ってたより体もデカイし、予測能力も相当だって」
元キャプテンの筒井先輩も、小林先輩の横に並んで仁王立ちで観戦している。我がチームの地獄の門番的存在だったこの2人の表情も極めて固かった。
準決勝の相手は全国大会の常連校だった。県下一と謳われている強豪校だ。鉄壁の守りを見せている相手校の守備に、ゴール前での動きが思うように取れないでいた。
「こうして見ると、やはりにわか仕込みを感じるな。引退前からの不安要素ではあったけど、なんとなく中盤からの切り込みが心もとない。大山が妙に意地になってるだろ。太田の意思が通じてない上に、あの位置に正面から突っ込んだところで不利になるだけなんだが」
「だな。完全に向こうに引っ掻き回されてる」
沖先輩と筒井先輩の会話に、ハナちゃんは今にも泣きそうな顔になった。
あたしはそんなハナちゃんの横に立った。
「大丈夫だよ。信じよう、最後まで」
瞳を潤ませたハナちゃんが、無言で頷いた。
白線の向こうに視線を戻すと、あたしはケンゴの姿を追った。
黒髪から飛び散る汗の粒子をきらめかせ、いつにも増して突き刺さりそうなまでの覇気を立ち上らせ激闘している。
しかし、何故かとても静かである印象を受けた。追い込まれている状況にも拘らず、全力で走っているのに、激しく動いているのに、厳しいマークをされているのに、何故なんだろう…あんなにも自由だ。すごく不思議な感じ。
獅子の背中に羽が生えたみたいだった。そう…まるで獅子の飛翔を見ているみたい。
(ケンゴ。どうか全国まで、みんなを導いて―――)
神がかっているケンゴの姿に、あたしはなんとなく祈りを捧げた。
「温彩…」
そよ風のような声と共に、瑞樹先輩の髪が香った。
「あ、はい。瑞樹先輩」
「温彩ったら、なんだか『信者』の目になってるよ?」
先輩は目を細めた。
「え、信者の目?」
「うん。神様でも崇めてるみたい」
それだけ言うと、空いた前席をあたしに勧め、ベンチを後にした。
「すぐ戻ってくるから」
「はい…」
ロングヘアの裾がさらりと浮いて、後ろ姿が人ごみに紛れた。
信者か…やけにディープな発想。でも、相変わらず瑞樹先輩は鋭い。
急に恥ずかしさがこみ上げた。
改めて考えると、選手に向かって‘お祈り’をするのもヘンな話し… やっぱり少し、ボーっとしているせいかもしれない。
というのも、どうやらあたしは昨日、ケンゴの風邪を引き継いでしまったみたいなのだ。
家に帰り着いた時には、すでにくしゃみがとまらなくなっていた。
今は市販の薬で小康状態を保っているけれど、おかげでニヤニヤ顔の迎くんに随分と視線でいじめられた。
でも…熱こそないものの、変な熱に浮かされているのも事実。なぜならば昨日、送ってもらう途中に、ケンゴに二度もキスをされた。風邪が移るとか移らないとか、そんなところに考えなど及ぶはずもない。
突然引かれる腕の感覚とその反動。跳ね上がる心拍数。そして幻影のようでいてリアルなケンゴの感触。
そこにあたしは、ただただ漂うだけなのだから。
息がかかる距離で見るケンゴの顔。まだまだ当分、慣れそうにない―――。
想像上のケンゴに心を奪われていた時、
「よしよしよしよし…!そのまま行けー!!!」
筒井先輩が身を乗り出して叫んだ。
我に返ってゴール前を見ると、現実のケンゴが一気に舞い出て、旋風のようにボールを蹴りつけたところだった。
―――ピピーーー!!!
ホイッスルの音と共にベンチが沸いた。
「よしっ!!!!!!」
「やった!いいぞ賢悟!」
「さすが!ナイスです賢悟先輩~!」
鉄壁の守備陣をすり抜け、ケンゴがゴールを決めた。当たり負けしない突っ込みタイプに思わせたところで意表を突き、繊細な切り込みを見せたことが功を成したようだ。
初得点、1。これで1-3だ。なんとか敵に喰らいついた。
しかし、厳しい戦いなのは変わらない。後半、残り時間15分を切っている。
(みんな…!頑張って!)
手の中のスコアブックにも、ケンゴの一点を刻みこんだ。ページが進むごとに増す熱い記憶。
ケンゴたちイレブンの、渾身の戦いの証。
ケンゴは相変わらず、静かなる炎を燈していた。
「上代、一皮剥けたな」
いつの間にか横に立っていた沖先輩が言った。
「一皮…?」
藍色の髪と、変わらない甘い眼差しの瞳を見上げる。
「ああ。脱皮して、さらに進化した感じがする。菅波がそばにいるからかもしれないな」
「あ、あたしは別に…」
早くも言葉に詰まるあたしをみて、沖先輩はクスリと笑った。
「あいつはきっと、もっと良くなるよ。これは俺の勘だけど」
「はい…」
あたしも、そうであればいいなと思う。
以前よりもあたしは、違うケンゴを知っている。まだまだ僅かではあるけれど、これからも沢山のケンゴを見て知って、共に成長したいと思っている。
それに、ボールを追っているケンゴの姿は何においても一番だなって思うし、サッカーをやっているケンゴが、あたしは大好きだ。
だからあたしは、フィールドで闘うケンゴを応援し続ける。
ケンゴが飛翔するのならば、あたしはこの目でそれを見たい。
絶対に、この気持ちは変わらない。
たとえこの先、どんなことがあろうとも。