diary12 小さなジョーカー
あんなに遠かったケンゴを、今はこんなに近くに感じている。しかもかなり体感的に。
受け止めたケンゴのキスは、まるでつむじ風のようだった。
あたしはゴールキーパーのように壁際に立ち、迫り来る疾風を正面からキャッチした。
カウンターアタックを受けたようだったけど、失点はしない。だってこれはセーブじゃないから。
セーブするのではなく、あたしはケンゴを‘キャッチ’する。
『ぐ、ぐ~…』
間の抜けた音が響いた。
ケンゴのお腹の音だった。どうやら空腹の虫が声を上げたらしい。
ぱちりと目を開けると、さすがに複雑な顔をしたケンゴが上目にあたしを見据えていた。
「腹減ってんだっけ、オレ」
ケンゴは身を伸ばすと、あたしの頭の上にカクンと顎を乗っけた。
あまりの間の悪さと、瞬時に夢心地の世界から逆戻りしたのが妙に可笑しくて、思わず肩を震わせて笑ってしまった。
「なんだよ」
唸るように言うと手を解いた。そしてしっかりと反撃に打って出る。
「お前じゃ腹の足しになんねェんだとさ」
お腹は減っても憎まれ口は減らないらしい。
あたしもケンゴから手を離すと、横腹を小さくたたいて失礼極まりない付言をいさめた。
また泣くからね、と言うと、ケンゴは鼻に小じわを寄せて降参ポーズをとった。
2人してコンビニの袋を覗き込んでいた時、廊下の方からカタンカタンという小さな音がして、ガチャリと玄関ドアの開く音がした。
続けて「ただいまあー」という、極上に元気な声がする。
「あれ」と、ケンゴが顔を上げた。
「え、誰?…誰か帰ってきちゃったの?」
答えを聞く間もなく、廊下を振り仰いだケンゴの向こう側から、男の子が顔を覗かせていた。
部屋の入り口からひょこんと頭だけを出し、こちらを見ている。
「兄ちゃん、ただいま」
にっこりと微笑むその子はケンゴに向かって腕を伸ばし、タタタと部屋に走りこんできた。
小学校に上がるか上がらなくかくらいの、小さな男の子だった。
これまたあたしにとっては、まるきり寝耳に水の事態。
間違いなくこの男の子は、『兄ちゃんただいま』と言った。
突然のことで驚くばかりだけれど、同じようなことを一度体験済みといえば体験済みだ…
まさかまた、「ぼくの初めての男」とか言い出すんじゃないわよね…と変なことを考えるあたし。
ケンゴはというと、こちらを気にする風でもなく、自分を‘兄ちゃん’と呼ぶ男の子の前に立った。
「つか、もう帰ってきたのか?母さんは?」
ケンゴの脚にくっつき、のけぞる様にしてはるか上の顔を見上げる男の子。
「ポスト見るの忘れて、また下に行っちゃった」
抱っこをしてとせがんでいる。ケンゴは男の子の頭をくしゃっと一撫でした。
「非難してねェと風邪うつるぞ?」
そう言って彼をひょいと片手で抱き上げた。
(あ………)
良く知ってる、この流れるような一連の動作。
ケンゴが手のひらであたしの頭をくしゃっとさせる。ケンゴがあたしの頭をスッと肩へ誘導する。
良く良く知っている、すごく自然で、無条件に愛を感じてしまう、ケンゴの不思議な陽だまりのような優しい動作。
普段は無作法なくせにって、すごく不思議に思っていた。
こういう背景があったからなのかな…と、ケンゴの謎が一つ、新たに解明できた気がしてちょっと嬉しかった。
ケンゴは彼を抱えたまま、くるりと体ごとこちらに向き直った。
「オレの一番弟子、大輝」
「大輝くん…って、もしかしなくても、ケンゴの弟くんだよね?」
「当たり前だろ。隠し子に見えるか」
「その発言はスルーさせてもらう」
ケンゴにまつわる何かを知る時は、いつも偶然でばかり。
でも、少しずつ関わっていけば、きっとケンゴの沢山を知ることが出来るし見ることが出来る。
もっと向き合って、分かり合って、少しずつ時間を重ねていけばいい。
あたしは気を取り直して、大輝くんに話しかけた。
「こんにちは」
「……」
「‘大輝くん’ていうの?はじめまして」
急に挨拶されて照れたのか、割と優しい顔立ちの彼は僅かにはにかみ、顔を逸らしてケンゴの首元に抱きついた。恥ずかしいのか、全然こちらを見てくれない。
「年はいくつ?」
「……」
不審人物への応対の加減をどうすればいいのか、ケンゴに伺いを立てている様子だった。
「ねぇ兄ちゃん…兄ちゃんの、学校の、人…?」
「おう、だから平気だって。それに大輝…この人忍者だぞ」
「え、うそっ」
振り返った大輝くんは、目を燦然とさせ、あたしを見た。
「でも兄ちゃんの学校の、女の人の制服着てるよ?」
「変装だ、騙されんな」
勝手な会話が進行中。大輝くんは楽しそうに、うふふと笑い始めた。
「お前忍者好きだろ。ホレ、挨拶ぐらいしとけ」
大輝くんの目は依然輝いている。接しづらくなるので妙なことを吹き込まないで欲しんだけど、これが上代流なんだろうか?
もしやすでに‘魔王教育’が施されているのでは……
(ダメよ大輝くん…今から歪んでは駄目…)
「こんにちは忍者のお姉ちゃん」
ケンゴに促され、大輝くんはやっと笑顔を向けてくれた。あたしというよりは、忍者という肩書きに食いついた様子。
これは早いうちにレクチャーしておかなければ…
「あのね大輝くん…」
取り合えず笑顔を返した。
「お姉ちゃん忍者じゃないからね?お兄ちゃんと同じ学校の、スガナミアツサです。どうぞよろしくね」
「うん、よろしくね。お姉ちゃんボクと遊んでくれる?忍者を教えてくれる?」
ここで軽い眩暈。
それに……たじろぐあたしを見るケンゴの顔が、心なしか含み笑いを帯びている気がするのは思い過ごしだろうか。
「ねぇ…ところでケンゴって、一体何人姉弟なの?」
「三人だけど。利歩とコイツで手の内全部だよ」
「カードが三枚出揃ったってわけね」
「ちなみにコイツはオレの必殺だから……」
そう言いながらケンゴは失笑した。失笑しながら指差した先に目をやると、立てた二本の指を上下に連ね、忍法の『印』を結んで待っている大輝くんがあたしを見ていた。