★ 白い塔へ
川に沿って走る国道には、雑居ビルや商店などが軒を連ねている。そしてその奥には、市境の山に向かってなだらかに伸びる坂と、大きな住宅地。賑やか過ぎず、静か過ぎず、自然にも恵まれたきれいな場所だ。
視界の開けた、風光明媚な町。
(これがケンゴの住んでる町か…)
そぞろに歩いているうちに、あっという間に辿り着いてしまった。
はたと我に返ると、言い知れぬ‘アウェイ感’に襲われた。
馴染みのない未開拓の土地。空気も匂いも行きかう人も、異国にでも来たかのように違って感じて、落ち着かない気持ちに拍車をかける。
歩道の街路樹の下を、温彩はドキドキ・キョロキョロとしながら歩んだ。
ヒョーンとしたそれは、迎の言っていた通り、遠目からでもすぐに見つけることが出来た。
軒の低い町並みの風景に、ぽこんと頭一つ突き出た背の高い白いマンション。
(きっとあれだ…)
川を渡って国道に差し掛かった時からその存在は目に入っていた。
近づいてくると、整然とした佇まいの建物も温彩の目には威圧的に映り込んだ。
(どうしよう…倒れそうなくらい緊張してきちゃったよ…)
なんだかリアルに、魔王の住む塔にでも踏み込む気分だった。しかしこの鬼気迫る心境とは裏腹に、温彩の手には差し入れの詰まったコンビニの袋。
(ああもう、あたしは一体どうしたいのよ…)
招待した憶えのない異客の急な押しかけ、歓迎されるともされないとも分かっていない突然の訪問。
何の予告もなしに差し入れを買い込んで現れた自分を見たら、賢悟はどう思うだろうか。
気持ちを落ち着かせるため、マンションの前まで来ると一旦足を止めた。
このまま入るには、心臓が跳ね上がり過ぎている。まるで体の外に心臓が付いているんじゃないかと思うほどに暴れている。
(落ち着け…落ち着け…)
目を瞑って深呼吸をした。続けて胸に手を当てて、しばらくドキドキが治まるのを待った。
それからゆっくりと目を開いた。
そして、胸に抱えたブルーの包みに目をやった。
明日は試合だ――
青い戦闘服に身を包み、激闘する賢悟の姿が目に浮かんだ。
ジンと胸が熱くなる。
背番号の放つ神聖な光とその重み。輝かしい彼らの装い。温彩はその度に肌を泡立て、そして彼らと一緒に気持ちの猛りを共感する。
運動部に身を置く者にとって、試合用のユニフォームというものは特別なもの。
賢悟が背負って闘う『9』の白い文字。 今、自分の手の中にそれがある。
「届けなきゃ、それに……」
届けなければ、菅波温彩、個人の気持ちも――。
温彩は白い塔の入り口に向かって足を踏み出した。
自動ドアの前まで行くと、マンションの住人らしき人が中から出て来るところだった。温彩はそのタイミングで小走りにオートロックをすり抜けた。管理人と目が合ったが、制服だったせいか幸い怪しまれずに通過できた。
‘潜入’したようで罪の意識にかられたが、エントランス前のインターホンという第一の砦を突破できたことを温彩はラッキーだと思うことにした。
それにしても…賢悟のイメージとは程遠いこの雰囲気。『魔王城』と呼ぶにはとてもとてもかけ離れている。新しい建物ではないにしても、光を取り込む設計の、清潔感のある内観だった。
そんな瀟洒な地上12階建てのマンションが、温彩をよりそわそわと落ち着かない気持ちにさせた。
緊張を振り払うようにギュッとブレザーの端を握り締め、勢いをつけて前へ進んだ。
(名簿の住所欄では、八階の一号室ってなってたはず)
エレベーターへと向かいながら、ホールポストのネームプレートを確認した。確かに八〇一には『上代』と書かれてある。
それを目にした途端、頭がぐるぐると回り始めた。
(うう~、落ち着け~…落ち着けあたし~…)
停まっていたエレベーターに足を踏み入れると、ふわりと揺れた足元にくらりときた。
エレベーターは音もなく8階で静止し、滑らかにその重厚な鉄の門を開いた。
さあ、お行きなさい… そう言っているようだ。
足が竦んで動けないでいたが、再び閉まろうとする門扉にタイムアウトを迫られ、押し出されるようにして前に進んだ。
(だ、誰もいませんように…!)
ゆっくりと目を開ける………運良く無人だった。
温彩は胸を撫で下ろしつつも、いちばん突き当りの家が八〇一号室であることを抜け目なくチェックしていた。
一歩ずつ、一歩ずつ、魔の十三階段を上っているように、覚悟と恐怖の狭間で身を硬くしながら歩を進めた。ローファーの靴音がタイル張りの廊下で響かないよう注意を払い、音を潜めて歩く。
(何やってんだろあたし…これじゃまるきり泥棒だよ…)
無意識に抜き足差し足で進む自分の姿が、情けないやら滑稽やらで複雑な思いに駆られる。
温彩はおぼつかない自分の足取りを諫めると、ゆっくり奥へと進んだ。
その時――
ガチャリという音がして一番奥の部屋の玄関ドアが開いた。
(えっ、え…!)
それと同時に八〇一号室の中からヌッと人影が出てきた。スウェットにブルゾンを引っ掛けた姿の、男性の影だ。
(えっ、ちょっ、ちょっと待って…)
今すぐ、『タイム!!』と言ってストップウォッチを止めたかった。
(こ、心の準備がまだ、できてない~~~…)
しかし、そんな気持ちなど知るよしもなく、バタンとドアを閉めた人影はくるりと温彩の方を向いた。
「おわっ、な…何でンなとこにいんだお前―――??」
人影は温彩に気付くと、つんのめるように足を止めた。
まさかの予感は当たってしまった。
温彩前に現れたのは、紛れもなく休日モードの賢悟だった。普段なかなか表情を崩さない賢悟も、さすがに第一声のまま、呆気に取られて立ち尽くしている。
‘ちょっとそこまで出かけるスタイル’のその口元からは、棒付きキャンディーの白い柄がちょこんと突き出していた。
間もなくして賢悟はキャンディーを口からポイと引き抜くと、「マジで?」と続けた。やはり突然の温彩の訪問に驚いているようだった。
「えっと、マジです…」
温彩は口ごもりながら、恐る恐る上目遣いに賢悟を見た。