diary10 正体不明な気持ち
学校ではクラスも一緒だし、教室でも部活でも、いつも視界の範囲にはケンゴがいる。
デートをしたのもつい最近のこと。一緒に歩いて、買い物をして、向かい合ってランチも食べた。
学校外でのケンゴのことも少しずつ分かってきたし、確実にあたしたちの距離は縮まってきている。
ケンゴを想う気持ちだって、常に右肩上がり。でも…
最近あたしは、なんだかヘンだ。落ち込むような事なんてないはずなのに、イマイチ心がしゃんとしない。
正体不明のこの症状は、一体なんなんだろう。
ある朝のこと。
教室前の廊下に差し掛かった時、柱の向こう側にしゃがみ込んでいる人影が見えた。
後姿だから半信半疑だったけど、柱から三分の一程見え隠れする黒髪がケンゴのものに見えた。
歩を進めながら目線を下ろし、黒髪の主を確かめる。
すると鋭い上目が返ってきた。やっぱりケンゴだった。今日も一段と見事な仏頂面。
いつもと変わらない風景だ。ケンゴの半径1mに入るとドキドキするのもいつものこと。
でもその後、何故か胸の奥が「ズキン」とした。
ケンゴはまだ教室には入っておらず、スポーツバックを背負ったままの格好だった。
荷物も下ろさずに廊下で何をやってるんだろうと思った時、あたしを見たケンゴの片眉がヒョイと上がった。
ん…?あたしを…待ってた?
「お、おはよう。どうしたの?こんなところで」
「ぅ、…」
何か言いかけた瞬間、ケンゴの悪相がヒクリと崩れる。
「どうか、したの?」
そう問うのと同時に、ケンゴはクシャッと顔をしかめ、何度か続けて鼻をすすった。
「っ、つ…、まてよ…」
右手を上げてそう言うと、前屈みだった姿勢を急に伸ばし、大きく息を吸い込んだまま固まってしまった。
あたしは反射的に、遠い目をして固まっているケンゴの正面にしゃがみ込みんだ。
「もしかして、風邪…ひいちゃったの!?」
くしゃみが不発に終わったらしいケンゴは、眉間に皺を寄せながらコクンと頷く。
「多分…なんかすげぇ鼻水出るし」
それを聞いた瞬間、背中が冷やりとした。
「うそ、やだ、大丈夫なの!?明後日の日曜日、決勝リーグだよっ」
思わず声を上げてしまったあたしを制するように顔を突き出すと、くぐもった声で不機嫌そうに言った。
「だからヤベェと思ったから相談してんだろ」
相談……くしゃみの不発を見せられただけのような気もするけど…でもそんなこと言ってられない。
「すっごい鼻声じゃない~」
あたしは気を取り直す間もなく、慌てて症状を聞きまくった。
今のところ熱はないらしい。軽く見ていた症状が悪化して鼻風邪に発展。今朝起きたらすっかりこんな状態だったという。
「喉は痛くないのね?あと、寒気は?」
「なんとなく少し。やっぱこの後って熱とか出んのか?」
「わかんないよ。そうとは限らないけど、でも早めにお医者さんに行ったほうがいいかも」
面倒だな… そんな顔をしてゆっくり立ち上がると、ケンゴは腕を組んだ。
首をすくめて鼻をすすり上げる姿が寒々しい。
念願の決勝リーグへの出場が決まり、チームも調子をあげてきている。故障じゃない分いいようなものの、軽い風邪でも甘く見てるとマズイ。
手の届くところまできている冬の全国大会。単なる風邪が原因で水の泡になることだって…
あたしも立ち上がると、カバンを握り締めながらケンゴの隣に並んだ。
そして仏頂面の横から、マネージャーとして苦言を呈してみた。
「今日は用心して練習休んだ方がいいんじゃない?…風邪なんかで試合に出られなかったら、それこそ大後悔だよ」
「だ、よな…」
夏の合宿で熱射病を経験したせいか、いやに素直だ。体力を過信しすぎるのはよくない。
ケンゴはいつのも‘への字’を作って何やら考え始めた。練習を取るべきか…安全策を取るべきか… 多分そう思案中なのだろう。
「二日後だしな、試合」鼻声でボソリと呟くと、柱の壁にもたれかかった。
単純に部活を休むというだけの話しだけど、ケンゴにとっては苦渋の選択。そのせいか、いつになくミステリアスな表情を浮かべている。
その横顔に、またズキンとした。
あたしは咄嗟に目を伏せてしまった。
先週の試合が終わってから髪を切ったケンゴ。少し短くなった鬣の先端には、利歩さんとよく似た顎のラインが覗く。
姉弟だから造形はよく似ているけど、でもその骨格や肌などの質感は、やっぱり女の人とは全然違う。紛れもなく、‘男の人’のものだ。
それに最近、ケンゴの背がまた伸びてるのに気付いた。
みんな日に日に変わってゆく。誰でも、少しずつ。
ケンゴは自分で気付いているだろうか。いつも見ているあたしがハッとするほど日々大人びていっていることを。
そんなケンゴに気持ちも高鳴る。でもそんな高鳴りとは裏腹に、寂しいような苦しいような、よく分からない切ない気持ちがする。
目を伏せてしまう理由と胸の痛みに、関係あるのかな…
しばらくするとケンゴは腕組みを解き、壁から身を起こして肩のバッグを掛けなおした。
そして決意の表情でこう言った。
「うん…、不本意だけどオレ、今日休むわ。授業」
「ん、えっ、授業?」
思わずカクンと首を傾げてしまった。
「え、いやいや、『部活』を、でしょ?」
ケンゴってボケるタイプじゃないはずなんだけど、風邪のせいだろうか?思わずあたしも突っ込みを入れてしまった。
授業っていったって、いつも開店休業状態なのに…
「練習を休んで大事を取るかどうかって話しじゃなかったの~」
「冗談だっつの。わかってるって。練習も休むよ」
「『も』? …ってことはやっぱり『授業も』ってことだよね…」
次の瞬間、大きなクシャミが轟いた。
「う~あ~やべ、 マジちょっとさみィかも…」
「やだ、本当に大丈夫?」
「おぅ。つ~ことで、やっぱ帰って寝るわ。マネージャーの進言どうりに」
「授業休む進言なんてしてないよぉ。だったらわざわざ登校してきたのは何だったの~」
「だって、休むような体調ってイマイチ分かんねんだもんよ」
「だったら家出る前にでも電話くれればよかったのに…」
するとケンゴのスポーツバッグが、どしんとあたしの右腕にぶつかってきた。
「別にい~だろ来たって」
ぶつかったスポーツバッグの向こう側からぶっきらぼうな鼻声が届く。
「電話じゃ顔が見えねェだろが」
予想外のところでジャブが飛んできた。あたしはハッとしてケンゴの方を見た。
ケンゴはフンとそっぽを向いた。
わざわざあたしの顔を見るために学校に出て来た。そういう意味に受け取っていいんだよね…
嬉しくて嬉しくて、舞い上がってポワンとなって、気持ちが暴発しそうになって、じわりと胸が熱くなる。
ほらこの通り、ケンゴを好きなことは歴然。でも今日は…
風邪で声が少し違うから?いつものノックダウンをなんとかまぬがれた。
そしてやっぱり顔が見れなくなって、あたしはケンゴから目を逸らした。
しばらく沈黙が募った。
ケンゴは少しぎこちなくなると、「んじゃな」と言って踵を返した。
あたしは慌てて見送りながら、
「あ…えっと、じゃ、監督には練習お休みするって言っとく…」
消え入りそうな声で言った。
「頼むわ」
鼻声だけが返ってきた。
ポケットに両手を突っ込みズンズン歩く後ろ姿は、教室とは反対の方向へ進んで行く。
ケンゴの体調、嬉しい言葉とその気持ち、それに…あたしのこのよくわからない切なさ。
それらがうまくまとまらないまま、ケンゴの姿は廊下から消えた。
正体不明な気持ちだけが心の中に取り残されて、ヒュンと舞った。