diary8 隣
テラスのデッキチェアーの肘かけに頬杖を突き、反対の手で鷲づかみにしたカップをじっと見ている。
制服でもなく、ユニフォームでもない黒髪の青年は、仏頂面だけは相変わらずに、腑に落ちなさそうな顔で残りのアイスラテを飲み干した。
「少ねェな…」
口からストローを外すと、何やらブツブツ言っている。
‘少ない’…多分、入っている『牛乳の量』のことを言ってるんだと思う。
笑うあたしに、ひょいと目だけを向けた。
「別に足りねェっつってんじゃねェぞ?」
「うん、わかってる… クスクス」
「ほぅ。わかんのかよ」
「牛乳が、…でしょ?」
「……」
待ちに待った、約束の「日曜日」。
今日、あたしはケンゴと隣町の繁華街までやって来た。
爽やかに晴れた10月の街角。
丸テーブルを挟んだ向こう隣には今、大好きな人がいる。
コーヒーショップのウインドウ際に据えられたテラス席から、前面道路に行き交う人々を一緒に眺めている。
2人だけで過ごす、初めての休日。
あたしは全身で、今日の始まりとその高揚感を胸に刻んだ。
「よぉ。買い物って、何買うんだ?」
ケンゴは左膝の上に右の足首を重ね、ワークブーツの横腹に空のカップを置いていた。
まるでボールを置いてバランスを取っているみたいだった。
頭の後ろに回した手を組みなおしても、足に乗せたカップはビクともしない。
そして、背もたれに預けた体重で椅子の前脚を浮き沈みさせながら、無愛想な曲芸師はチラリとこちらに顔を向けた。
「あ、えと…、これといって目的はないんだけど、久しぶりだから色々見てみたいなぁって」
「色々って?」
「ん〜、そうだな〜。逆にケンゴは?何か見たい物とかある?洋服なんかはいつもどこで買うの?」
「買い物とかほとんど出ねェよ。スポーツ店ならたまに行くけど」
「え〜。だって今日の服とか、自分で買ったんじゃないの?」
実を言うと、今日、ケンゴがジャージで来たらどうしようかと思ってた。
だって河原ではいつもかなりの軽装だし、着替えもスポTとかしか見たことなかったし。
だからケンゴの私服が、こんなにサラッと爽やかだとは、思ってもみなかった。
身長181センチ。ついでに体重、73キロ。(サッカー部上半期調べ)
その体格のよさで、今日履いている厚手のカーゴパンツはかなり渋めに決まっている。
シンプルなヘンリーネックのロンTも、ケンゴが着ていると大人っぽく見えた。
「オレんち服の押し売りが来るんだって。そんで無理やり買わされんの」
「また嘘ばっかり。意地悪言う時の顔してるよ?」
「マジだって。こないだなんかスパイク買おうと思ってた金、強奪されたんだぞ。怖ぇだろ?」
氷だけになった足先のカップに目をやったまま、淡々とそんな事を言うケンゴ。
「んもう、またぁ…」
あたしは立ち上がって、足の上からカップを除いた。
「冗談ばっかり言ってないでそろそろ行こっ」
「クス…はいよ」
俯き気味にケンゴが笑った。
お昼が近づくと、急激に人が増えてくる。
街には色んな人が歩いていて、中でも一番多いのは、女の子同士の買い物客。
そして次に、やっぱりカップル。
同じ年代くらいの男女が、手を絡めたり、肩を組んだり、腰に手を回したりして歩いている。
ちょっと歩きにくそうな気もするけど…
あたしの右隣を歩くケンゴはいつものように、両手をポッケに引っ掛けて歩いている。
集中している時も、気を抜いている時も、大体は無表情で、手はいつもポッケ。
近寄りがたいと言われる理由の一つに、崩さないこのスタンスがあるように思う。
でも今日のケンゴは、ちょっと違った。
ポケットに手は引っ掛けたままだけど、変わりにひょいと、肘を突き出してきた。
「ほれ、掴まっとけ。車道に飛んでいくなよ核爆弾」
さあ、この発言に憮然とするか、喜びに舞い上がるか…
もちろん、後者のほうで。
でも、舞い上がるよりも先に、あたしはケンゴのリストバンドの上にそっと手を載せた。
「ね、あっちのリニューアルしたスポーツ店に行ってみない?」
…自然と出来た。
普通の会話。普通の休日、普通のデート。
待ち望んだ日に、待ち望んだ人と、腕を組んで雑踏の中を歩く。
周りと同じ、あたしたちも今、普通のカップル。
それがすごく嬉しくて、掴まったケンゴの腕に、ついつい頭をコツンと寄せた。
「ちょっと、近すぎだろ」
ケンゴはそう言うと、前を見たまま右手で鼻を軽くこすった。
「えへへ、ごめん」
「いや、…」
謝ったあたしに、何か言いかけてやめた。
通りを渡ると、スポーツ店の店先に掲げられた広告板が見えてきた。
ケンゴは、あたしの掴まってる腕を僅かに引いた。
「なんかやけに派手にやってね?」
「ホントだ。セールに、新作も入荷だって…」
手と手で繋がっている今日、言葉を掛けるよりも一瞬早く、‘合図’が届く。
また、少し感激。
あたしたち、並んで一緒に、歩いてる。
あたしの隣。ケンゴの隣。歩幅の揃った、日曜日。
「で、何見るよ?」 「もちろん、サッカー用品でしょ」
お店… もう少し遠かったら良かったのに。
開いた自動ドアの先に、2人は同時に踏み込んだ。