剣が抜けたら勇者です?
とある王国の広場の真ん中に、大岩に突き刺さったままの剣がある。
いつからかそこにあるのか、誰がそれを言い出したのかわからないが、それを抜くことが出来たものが勇者となり、魔王を倒すことができる、と言われていた。
しかし、様々な忘却の果てに魔王が現れて百年。
国王が国中にお触れを出し、様々な階級の男たちを呼び集め、「ちょっと待ってよ! アタシ、心は女なのよ!」という頑なに召集に応じなかった層も引っ張りだし、果ては救護院の寝たきりの老人まで駆り出し、それでも突き刺さった剣は小動もしなかった。
数年も経つと王国中が諦めに包まれた。
国に仕える賢者は頭をひねった末に、「勇者はこれから生まれる男子にいるのではないか」と言い出し、国王はなるほど、と膝を打った。
以来、生まれたばかりの男子は全て王都に集められ、聖水を浴びせられた後、ギャン泣きのまま、小さな拳に剣を握らされるという、あまりにもバカバカしい慣行が出来上がった。
幸い、魔王はおっとり系だったらしく、長い寿命を存分に使うつもりなのか、王国の端っこで少し小競り合いをすると、「俺、頑張った!」と言わんばかりに、数年単位で引き込もる、ということを繰り返している。
王国としては、視界の端でチラチラするものの、今すぐ何とかすべき案件ではなく、しかし放置し続けるのも不安だ、という厄介なシロモノと成り下がっていた。
この俗称「剣の広場」に面した場所に、王国有数の武具の鍛冶師が住んでいた。
王立騎士団の名だたる騎士団長にも指名を受けている、という腕の確かさである。
工房はもっと川近くにあったが、店舗は王国一等地である広場前。
普段から工房に引っ込んでいる鍛冶師は頑固親父で、毎朝筋骨隆々の体を見せびらかすように、冬でも上半身裸で、妻の作ってくれた弁当だけを所持品に、店舗兼自宅から工房に向かう。
妻はその後、まだ朝もやの残る広場で、魔王を倒すことができるという伝説の剣を前に、屈伸運動を行って、最後に剣に向かって頭を深くたれて、店の中に戻っていくのが日課であった。
鍛冶師は遅くに結婚をしたが、妻を溺愛している。
おかげ様で、鍛冶師の家は子沢山だ。その半分が綺麗に男の子なので、全員もれなく『勇者の剣』に触れているが、今も剣は大岩に突き刺さったままだ。
鍛冶師は、己がそれを抜くことが出来ないことについて全くなんの異論もないが、誰もその剣を抜けないことについて甚だ不満だった。
「今日も六人の赤ちゃんが来てたけど、剣は微動だにしなかったねぇ」
苦笑交じりに妻が行う報告に、鍛冶師は太く男らしい眉をしかめ、ふん、と鼻を鳴らした。
「いいか、誰かが抜いたら、まっさきに知らせるんだ。絶対に、忘れるなよ?」
「わかってるよ、おまえさん」
鍛冶師は剣に興味がある。
抜き放たれた剣がどれほどの長さで、どのあたりに重心があり、どの程度の切れ味を持っているのか、両手で持った時、片手で持った時、どういう使い方が想定されるのか、そればかりを気にしている。
何故なら、鍛冶師は幼い頃からその剣を見て育ち、その剣に見合った防具を勇者に作りたい、と請い願っていたからだ。
「あぁ、くそっ。俺が勇者だったらな。すぐに剣を引っこ抜いて、最高の鎧と盾を作ってみせるんだが。
あの剣の装飾から見るに、鎧は白銀に輝くものがいいと思うんだ。
片手持ちだと思うんだがなぁ、柄の長さから、両手でも持てるかもしれねぇ。
刀身の長ささえわかれば、はっきりするんだが。
俺に力があるうちに、誰か剣を抜いてくれねぇものか」
「おまえさんが抜いちまったら、おまえさんが勇者だろ?
おまえさんに白銀の鎧は似合わないとおもうけどねぇ」
「……そうか、くそっ。確かに俺が抜いちまったら、俺の理想の鎧と盾を俺が持つことになるのか。そりゃ、ダメだ。似合わねぇ。
どこにいるんだよ、勇者さんよぉ。
さっさと抜いてくれよ。魔王を倒せとは言わない。抜いてくれりゃぁ、それでいいんだ」
随分と勝手なことを言って盃を空ける。
親父がそんな言っても仕方ないことをグチグチと言うのを、妻は笑いながら聞いている。
そんな妻のお腹には、七人目の子供が宿っていた。
ベッドに沈んだ鍛冶師を見ながら、妻は自分の腹をゆっくり撫でる。
「早く出ておいで。そして、ついでだから剣を抜いてあげておくれ。
じゃないと、あんたの父さん、酒精狂いになっちまうよ?」
翌朝も、未練タラタラに勇者の剣を見つめる夫を工房へ見送り、十を頭にわちゃわちゃいる子どもたちは、上の子に面倒を見させ、妻は広場で運動をしていた。
年々、産後の体力回復が遅くなっている。
当然、若さが足りなくなってきているのだろう、と妻はわかっている。だからこそ、日頃からの体力づくりが、産後の体力回復に重要なのだ。
そろそろ大きく目立ってきた腹を気にしつつ、お腹に力を入れないような、軽い柔軟を行う。
程よい汗が額に浮かぶ頃、近所の店舗も次々に広場に出てくる。
にこやかに挨拶を交わし、そろそろ家に戻ろうかと、日課の剣へのお祈りのため、大岩の前まで来た。
「どうか、早く剣が抜けますように。父さんが色々作れるうちに、剣が抜けますように。
…………っていうか、さっさと抜けろよ、あほんだら。
毎朝毎朝、アタシが頭下げてやってんのに、何だってんだい、ウスノロ。
あんたは剣の姿してんのに、剣としてのプライドがないのかい?
たかだか石っころに刺さってるのが、あんたの仕事だと思ってるんじゃないだろうね?
いい加減にしないと、この大岩、かち割ってやるよ?」
妻はそもそも鍛冶屋の娘で、自分の父に弟子入りした男と所帯を持ったから、根っからの鍛冶屋だ。
親父の手前、それほど目立たないが、気が短く喧嘩っ早く口も悪い。
信心深く頭を垂れるフリして、いつも剣に向かって暴言を吐いていた。
この日も妻はこっそり暴言を剣に向かって投げつけ、ただ、いつもとは少し違うことをした。何となく溜まった日常の鬱憤を晴らすために、妻はスカートの影から大岩に膝蹴りをかましたのだ。
鍛冶屋の親父は、家で妻の手伝いをしているはずの長男が、慌てふためいて工房に転がり込んできてびっくりした。
てっきり、お腹の子と妻に何かあったのだ、と思ったのだ。
「医者は呼んだのか?」
七人目ということもあり、親父は幾分平静に努めながらそう聞くが、長男は首を激しく横に降る。
いつもは落ち着いた長男が、口をパクパクするばかりで、辛うじて聞き取れた言葉は「母さんが!」「大変で!」「王城に行って!」の三つのみ。
一体何が起こったのかさっぱりわからなくて、涙目になる長男を工房にいる弟子達に押し付け、とりあえずは家に向かう。
大広場はすごい人だかりで、いつも見える勇者の剣すらかけらも視界に入らなかったが、親父は気にしなかった。
自宅に飛び込むと、長女が真っ青な顔をしていた。
「おい、母さんは?」
長女は涙目になって、まだよちよち歩きの六番目の子供を抱っこしながら親父にすがりついた。他の子たちも一斉に親父にすがりつく。
皆が口々に何かを言うのだが、出てくる内容も聞き取れる範囲で意味がさっぱりわからないし、親父は閉口した。
そこへ誰かが後ろから肩に手をかけてくる。
「親父殿、そなた、鍛冶屋の親父で相違ないか?」
何度振り払ってもしつこくなよなよと声をかけてくるので、親父は流石に子どもたちを後回しにし、怒鳴りつけようと振り返った。
「ばっか野郎! てめぇになんざ……」
用はないんだ、と続けようとし、言葉は口の中に消えた。
そこには、朱と金でできた豪華な衣装に身を包んだ、くるりんひげの壮年の男が立っていたのだ。
遠目にだが、この男に、親父は見覚えがあった。
年に一回行われる、大広場での新年の告示として、王の言葉を民に伝える役割を持っている。
つまり、王の侍従長。
「そなた、鍛冶屋の主人に相違ないな?」
顎を落として辛うじて頷くと、侍従長は大きく吐息して、上品な仕草で取り出したハンカチで自らの額を拭いた。
「ならば私と一緒に来てもらおう。陛下がお待ちだ」
ヘイカ、の意味がわからずキョトンとしていると、侍従長の後ろから現れた顔なじみの騎士団長が、親父の肩を痛いほど握りしめ、親父を現実に引き戻した。
「国王陛下とともに、そなたの細君が城で待っている。
急ぐのだ」
重々しく紡がれた内容に、親父の頭が真っ白になる。
何故、身重の妻が王と一緒にいるのか?
そこに長男が帰ってきて、騎士団長はこの頼りになる少年の頭を撫で、しばし父と母を王城で預かると告げる。長男は不安そうに父と騎士団長を交互に見やったが、イライラし始めた侍従長が靴をカタカタ言わせ始めたので、慌てて頷いた。
「いい子だ。近くに頼れる大人はいるかな?」
「隣の雑貨屋のおばちゃ……おばさんが、母さんが動けない時は助けてくれます」
「なら、その方をお呼びするんだ。
大丈夫、君の親御さんは私が責任を持って預かる。
片方だけでも必ず今日中に返す」
長男がこっくりと頷き、長女も頼りになる兄にならって深く頷いた。
親父もなにか言葉を残そうと思って口を開いたが、音が出る前に金切り声が店の中に響いた。
「さっさとしろ! 陛下がお待ちだと言っているだろう!」
流石にしびれを切らした侍従長に引っ張られて、親父は王室の家紋がでかでかと入った馬車に転がり込んだ。
続けて騎士団長も乗り込んでくる。
扉がまだ半開きのうちに、侍従長が馬車の屋根を殴りつけ、御者に急ぐよう指示を出した。
誰も、何も、親父には説明してくれないまま、馬車はひたすら大路を急いだ。
城についた親父は、当然着の身着のままなので、上半身は裸、下半身は長ズボンという珍妙な出で立ちだ。
馬車から一歩踏み出した途端に、大勢の人々に非難めいた視線を向けられたが、急ぐ侍従長はそれどころではない。
「陛下をお待たせしているのだ! 構わん、このまま行く。
なに、凶器の一つも隠し持てず、いいことではないか!」
普段の規律に厳しい侍従長のあまりの変わりっぷりに、周囲の方が呆れつつ目で追うことしかできない。
しかし、ここで礼服を着ろと言われれば、親父の方が居たたまれなかっただろう。
そんなことより、妻が何処にどのようにしているのかの方が遙かに重要だったのだから。
前を侍従長、後ろを騎士団長に挟まれ、親父は走っているのか歩いているのか微妙なスピードで進んだ。
いつの間にか、周囲の人はまばらになり、それに伴って調度が豪華になっていく。
最後に、両脇に礼装を纏った威風堂々とした衛兵が守る両開きの扉をくぐり、親父は求めていた妻の姿をようやく見つけた。
鍛冶屋の妻は腕を組んで、広間の冷たい床に座り込んでいた。
あろう事か、上座の玉座にゆったりと座っている国王を睨みつけている。
親父は飛び上がって、こけつまろびつしながら妻に駆け寄った。
「おい! 大丈夫か!」
聞き慣れた声を耳にし、妻は厳しい表情をほっとゆるめ、だっこをせがむ子どものように親父に腕を広げた。
「あんた!」
親父は妻を抱き上げると、お腹の子どもごと守ろうとするかのように抱き上げ、妻の豊かな胸に顔を埋めた。嗅ぎ慣れたにおいに少しほっとする。
「大丈夫か?」
改めて言いながら、親父は自分の腕に乗る妻を見上げる。
妻は困ったような、怒ったような顔をして周囲を見回した。
親父もつられて周囲をみる。
玉座には国王、その両脇から壁際まで大臣達、大臣がとぎれるところからぐるりと近衛兵達。
親父が目を丸くしていると、国王の一番近くにいる大臣が、目を怒らせて拳を震わせた。
「そなたの望むとおり、夫君を連れてきてやったぞ! いい加減、正直にすべてを話すのだ!」
「確かに夫に来てほしいとは言ったけどね! 何度言えばわかるんだい? 全部正直に、洗いざらい話してるじゃないか!」
さらに丸くした目がこぼれるかと驚いたことに、腕の中の妻は大臣に向かって怒鳴り返していた。
「お……おまえ?」
「その耳は飾りなのかい? あたしの何処にそんなとんでもない力があるように見えるってのさ!
言っただろう? ちょっと触っただけで岩が崩れたんだよ!」
「そのような世迷いごと、誰が信じるものか!」
「ま、待って下さい! いったい、何の話をしてるんで? 何が崩れたってんで?」
いつまでも続きそうな言葉の応酬に、親父は何とか胴間声を挟んだ。
厳つい顔に似合わず、眉尻を下げた心細そうな表情に同情したのか、騎士団長が歩み出て、親父の視線を誘導するように床に手を向けた。
そこには、見慣れたような、見慣れないような、剣が一振り、天鵞絨のクッションの上に置かれていた。
「あ、あれは?」
震える声に答えたのは、腕の中の妻だった。
妻は何故か、いたずらが見つかった次男みたいなふくれっ面で、それまでの元気が嘘のような小さな声でこう言った。
「あれは、あんたの大好きな勇者の剣さ」
「なんと! では、とうとう勇者が現れ、剣を抜いたのか!」
親父は目を輝かせて、妻をだっこしたまま剣に近づこうとした。
繊細な装飾の施された柄に、美しい刃紋を浮かべる刀身。引き寄せられるように親父が一歩進み出たところで、爆弾が落とされた。
「取り出したのはそなたの妻だ」
「………………………………………………………………はぁ?」
王宮の由緒ある大広間に、空前絶後の間抜けな声が響きわたったのであった。
静まりかえった大広間で、三者三様、十人十色、それぞれがそれぞれの想いを抱えて剣を見下ろす。
親父は恐る恐る妻を見上げる。
当の妻はというと、しばしバツが悪そうに視線をうろつかせていたが、観念して親父と目を合わせると、「エヘッ」と笑って舌をちょろっと出してみせた。二女の何かをごまかす顔にそっくりだった。
その姿は、言葉で何を聞くよりも雄弁に、「確かに妻は何かをした」と親父に語りかけていた。
「おまえ、何しやがったんだ?」
二男に雷を落とす直前のうなり声に似たそれに、妻はさすがに小さくなった。
「ちょ、ちょっとその……膝蹴りをね?」
「大岩に膝蹴り?! 先ほどそなたは、少し撫でただけだと申したではないか!」
大臣が呆れて出す大声に、妻はキッとそちらを睨みつけて反論する。
「か弱い妊婦の膝蹴りなんて、大男がちょいと撫でたようなもんだよ!」
「神聖な大岩になんてことを!」
今度は賢者が青くなって喚いたが、彼の言うことに賛同するものはいなかった。
国王は首を傾げる。
この国では長らく剣を奉ってきたが、大岩の扱いはどうだっただろうか?
そもそも、赤子に剣の柄を握らせるため、司祭と助祭が土足で大岩によじ登っていたではないか。
それに、と朝の風景を思い浮かべる。
国王は毎朝、王城から剣の広場を眺めるのが日課になっていたが、その際、多くの市民が岩にモノを立て掛けたり、乾きにくい厚手の敷物を大岩にかけて乾かしたりしていた。
それは国王が物心ついた頃からの光景で、誰も注意することはなかった。
自分も大岩によじ登って、他の子どもたちと騎士ごっこをしたいとさえ考えていた。
昨今の男の子たちは、生まれた頃に剣に触れているはずだが、それでも日々、騎士と魔王ごっこをする傍ら、気軽に剣に触れている。
誰かが抜いてくれればと思っている大人たちは、それを咎めない。
一向に抜けない剣に、大人たちはいつしか、剣さえ抜ければ全てうまく行くような気持ちでいた。
なのにどうだろう。
剣は目の前に転がっているのに、何も解決していないどころか、事態は更に混迷を深めている。
国王は反対側に首を傾げた。
「結局、剣はこの妊婦が抜いたのか?」
それは誰もが、先程からずっと抱える疑問であった。
「厳密に申しますと、抜けた、とは違いましょう」
転がる剣を眺めながら、国一番とうたわれる賢者が発言する。
「この婦女子は、大岩に働き掛けたのであって、剣に触れたわけではありませぬ」
白いヒゲをしごきながら目をしょぼしょぼさせる賢者は、大変な高齢のせいか、非常に眠そうだ。
「しかし、剣とは振るわれるべき武器。
ここにこうしてある以上、魔王を倒す為の力を使うべきでは?」
尤もらしく告げたのは、賢者の対極にあるような体躯の騎士団長だ。剣を睨みつけながら、疑問を投げかける。
「伝承では、剣を抜いたものこそ勇者であり、魔王を倒すものである、とあります。
剣は、魔王を倒す力の在り処を示すものであり、そのものが魔王を倒すことができるとは書いておりませぬ」
賢者はスラスラと答えた。
勇者の剣を研究し、誰よりも剣に詳しいと自負する賢者は、騎士団長を睨みつける。
ずっと剣が抜けることはなかった。
賢者の師匠も勇者の剣を研究し続けていたが、日の目を見ることはなかった。
その前の賢者も、その前の賢者も。
どれほど研究に尽くしても、顧みてくれるものもいなかった。
当代の賢者がこの道にはいろうとした時、息子の将来に期待していた両親はこぞって反対したものだ。曰く、金にならない、と。
王立学院に席は置けても、学院長選挙に打って出ることもできない。
それでも、真面目な賢者は、人々の侮蔑の表情を見ないふりでやり過ごし、黙々と研究を続けてきたのだ。
賢者の肩には、これまで連綿と続いてきた研究の成果があり、それは紛れもなく歴代賢者達の意地と涙の結晶であった。
何も知らない騎士団長や鍛冶屋のおかみに譲れる場ではない。
「これはいわば、勇者の証。
選定するものです。
武器の形をしておりますが、武器ではない。
魔王を倒す力を持っているものではございませぬ」
「つまり?」
大臣がいぶかしそうに眉根を寄せる。
賢者は自信を持って断言した。
「魔王を倒すためにこの剣を使い、万一失われました場合、我々は勇者を探すすべをも失うということです」
「な、なんと!」
周囲はどよめき、賢者はもったいぶってひげをしごいてみせた。
初めて、剣を研究していた賢者が日の目を見た瞬間であった。
「お、お待ちください!」
慌てたのは騎士団長だ。
国王の御前であることをかろうじて思い出し一礼して詫びると、国王は鷹揚に頷いてみせた。
騎士団長は深刻な顔で剣を振り返った。
「どこをどう見ても剣です!
陛下、古今東西、この形状のものは剣であり、それは同時に武器でもあるということです!」
普段口数が少ないことでも有名な騎士団長が、目一杯の努力をして熱弁を振るうにはわけがあった。
騎士団長は、辺境の出身である。
有力な後援者もなく、実力でこの地位まで上り詰めた猛者だ。
だが、なまじ実力があるからこそ、辛かったこともある。
そのうちの一つが、勇者の剣だ。
あれだけの実力がありながら、剣が抜けないとは。
そもそも本当に実力があるのか?
剣に認められないということは、どこかに欠陥があるのでは?
剣の腕が申し分ないのであれば、内面的な部分、性格に致命的な欠点が?
口に出せないような性癖が……。
面と向かって団長に言ってくるものはいないものの、そこかしこでうわさ話に花が咲く。
そこまで思っていなかったとしても、「剣を抜けない残念な騎士団長」として、初見の人はすべからく哀れみの目で団長を見る。
なまじ剣の道を歩んでいるだけに、勇者の剣とは切っても切り離せぬ状況で、居心地悪いことこの上ない。
遊びのない性格をしている騎士団長は、それでも日々精進し、羨望の眼差しで勇者の剣を見守ってきた。
いずれ現れる、剣を抜く勇者が、一体どれほど強いのか、自分はその技や能力にどこまで立ち向かえるのか、試したい気持ちを抑え続けて。
勇者さえ現れれば、騎士団長の生活は一変するはずであった。
団長に至らぬところがあれば、教えを請えばいい。
勇者に技術が足りなければ、騎士団長が教えればいい。
そう、まだ見ぬ勇者は、団長の日常にしっかり根を下ろした存在であったのだ。
それなのに、これはどういうことだ。
剣はあるのに、勇者はいない。
しかも、この剣をふるってはならぬ、と言うものまで現れる。
勇者は誰なのか?
所有者のいない剣。
それこそ、汚名をそそぐ千載一遇のチャンスではないのか?
「陛下、大岩が割れたのは天命です。
勇者が現れない以上、今いる我々が剣を用いて魔王を倒すべしという。
であれば、陛下の御前でもっとも強いものが、剣を持って魔王と対峙するべきでしょう」
「な、なるほど……それも一理ありますな」
大臣が団長の迫力に押されるようにして頷く。
そもそも、大臣はこの勇者の剣に懐疑的であった。
自分の生まれる前から岩に突き刺さった剣など、無用の長物に他ならない。
にもかかわらず、剣は常に最重要事項として国家の中に居座り続け、毎年生まれる大勢の男子を王都に集める。
幸い、魔王の動きは緩慢で、王国は繁栄しているといっても良い状態だ。
だからといって、生まれたばかりの男子には当然、それを生んだばかりの母親がいて、産後間もない母親が生まれたばかりの子供を抱えて旅などできるはずもなく。
大臣は毎年毎年、街道の整備、盗賊団の駆逐、王都に招かれる人々の戸籍の確認に旅費の割り当て、果てはそれを受け入れる王都の宿泊施設への手配と宿泊費用の捻出までを任され、ほとほと愛想が尽きかけていた。
前任の大臣から、「発言権は大きいが見返りはない」と厳しい表情で後任を任された時は、まさかここまでつらい仕事だとは思っていなかった。あわよくば、利権に付随する甘い汁を吸えるのではないか、と。
ところがどっこい。
何の成果も上がらないのに研究費用を要求する賢者、街道の治安保全のために潤沢な予算を必要とする騎士団、そして日々「よいようにせよ」と仰せになるだけの陛下。
剣さえなくなってしまえば、こんな面倒なことに頭を悩ませる必要はなくなり、勇者出現を待って行われる予定だった魔王討伐だって、さっさと済ませることができるかも知れない。
剣はあっさりと大岩から転がり落ちた。
魔王があっさりとやられない、とも限らない。
「いかがでしょう、陛下。
騎士団長に剣を与え、魔王討伐の任につかせては?」
今後何十年と続くかも知れない勇者候補達にかかる費用と、一回の魔王討伐にかかる費用を秤にかける。
「剣の性能を確認するためにも、団長はふさわしいでしょう」
「バカなことを申すな! 剣が失われれば、我らは魔王に対する勇者を永遠に失うことになるのですぞ!」
賢者が口から泡を飛ばして、目の前にいる大臣に詰め寄る。
大臣は眉をしかめて、賢者を睨み付けた。
「剣がその程度の力しか持ち合わせていないのであれば、その剣が選ぶ勇者の程度も知れたものではありませんかな?」
「なんと愚かな! 大臣、あなたはこの神の奇跡とも言える剣を侮辱するおつもりか! 大司教! あなたはどうお思いか?」
賢者は信じられないとでも言うように大臣を見た後、国王の後ろにいる弱り切った顔の大司教を振り返った。
伝承では、剣は天から落ちてきて岩に突き刺さったといわれている。
天にいるのは神だから、剣の本来の所有者も神だろう。
そういうわけで、教会は昔からこの剣を中心に毎年大きな祭りを行い、物見遊山で訪れる信者達から多額のお布施を集めていた。
つまり剣は教会の分野でもあるはずだった。
「えぇ、まぁ。剣がなくなると、困りますよね」
いろいろな意味で、という一言を大司教は辛うじて飲み込んだ。
「その通りですぞ! さぁ、神官長、大臣に言うべきことを言ってやってください!」
賢者の期待の眼差しの前で、大司教は縮こまった。
よもや、自分が教会の長になって、勇者の剣に問題が発生するなど思ってもみなかった。
だから、というわけではないが、頭がうまく働かない。
いや、普段から大司教のよく働く頭は全く別方面に向かうようにできている。
大まかに言うと、金儲けである。
王都にある商家の五番目の子供として生まれた大司教は、幼いうちから自分に商才があることに気づいていた。
効率よく周囲を切り盛りし、支出を最小限にとどめ、利益を最大限にあげる。
だが、上の兄や姉達が当然先に成人し、家の財産を切り分けられていくのを見て、自分の頃にはたいしたものは残らない、と判断した。
所詮はその程度の商家だったのである。
ならば、僅かな元手で身を立てていくためには何をするべきか、と思ったときに、目に入ったのが勇者の剣であった。
たかだか岩に刺さった剣でしかないものを、国王までもが恭しく扱っている。
そして、この剣の所有者は神である、と思われていた。
ならば、それを生かさぬ手はない。
成人し、僅かな財を持たされて家を出された後、その足でまっすぐに教会に向かい、全額を寄付した。
俗世とは一線を引く聖職ではあるが、金の力は神に次いで偉大だ。
当時の高位司祭のそば仕えになることができ、それを足がかりに、様々な剣にまつわる献策を行い、教会の貯蓄を殖やすことに努めた。
物言わぬ剣が、あまりの現世利益追求に苦言を呈することもなく、剣に関してのイベントが増えるごとに、教会の発言権、延いては自分の発言権も増していく。
気がつくと大司教にまで上り詰め、こうして国王の後ろに立つことも許されるほどになった。
それでも、それほど自分が嫌われることがなかったのは、欲がないためであろう、と大司教にはわかっていた。
そう、大司教には欲がない。
漠然と「成功したい」という想いはあったが、成功して何をしたい、という物欲があまりなかった。
与えられたシチュエーションの中で、可能な範囲の蓄財を増やすゲームをしていただけ。
よって、このような場で大司教には自分の意見がない。
「大司教、あなたも賢者殿と意見を同じくなされるのか?」
大臣のきつい眼差しが大司教につきささる。そこから視線を逃げるように外すと、今度は賢者の期待の眼差しが神官長に向けられている。
大司教は心底困り果てていた。
「……剣は神聖不可侵なものであり、俗世の汚れとは存在を異にするものです。
えぇ……だからこそ、汚れた何者の手にも使われたこと許さず、大岩の中にあったと言えます……」
皆の注目が痛くて、さまよう視線を剣に向ける。
すると、そこには所在なげに佇む鍛冶屋の親父と、お腹の大きな細君がいた。
「しかし、汚れのないものなど、この世にいようか?」
当惑した国王の声を聞きながら、大司教の目は細君のお腹に吸い寄せられる。
「えぇ、汚れのないものなど、この世にあるわけがありません。
ですが、この世でなければいかがでしょう?」
それは、いわば売り言葉に買い言葉。
意図せず投げかけられた国王の言葉で、すべては決定づけられた。
大司教には勿論、わかっていた。
これは、問題の先送りにほかない。
だが、将来、大司教は代わるかも知れない。
その頃には解決するかも知れない。
勇者にしか抜けないと思われていた剣がここに転がっているように、世の中は何が起こるかわからないのだから。
「この世にいない勇者とは一体?」
大司教は一世一大の芝居に打って出た。
「これこそが、神が私たちに与えたもうた試練なのです。
勇者を育てよと」
鍛冶屋の妻は、居心地の悪さにぶるんと身体を震わせた。
夫である親父までが、彼女を、いや、正確には彼女の腹を見つめていたのだ。
広間のすべての視線が、膨らんだ腹に据えられている。
「えぇっと……そろそろ夕食の用意があるんで、帰ってもよろしいですかね」
彼女の敢えて空気を読まない台詞は、割れんばかりの歓声によってかき消された。
「なるほど! 腹にいる赤子こそが勇者か!」
「親父、産み月はいつくらいだ?」
「へぇ、そろそろで」
「王城のもっとも安全な部屋に、母堂をお連れしろ」
「勇者の教育と言うことであれば、王国一の賢者である儂こそがふさわしいか、と」
「勇者と言えば剣技です! 我が奥義すべてを是非、勇者殿に!」
「各地に、勇者選定の儀式中止の知らせを! 来年度以降の予算編成について、新たな勇者養育の試算をくわえろ!」
「勇者の鎧……武具……熊さんのアップリケは必要か?」
皆が思い思いにしゃべり出す。
当然のように妻の金切り声は無視された。
「子ども達の、夕食の用意があるって言ってるでしょ! 帰しなさいよ!」
叫んだ妻が、ダン! と足を踏みならしたところで、急に黙り込んだ。
異変に最初に気付いたのは、そばでまだ妻を抱きしめていた親父だった。
「お、おい、どうした?」
「あんた、どうしよう……」
青ざめた妻が、夫を見上げる。
「どうしようって、勇者だってんだから、仕方ないだろう」
「そっちじゃなくて……」
「そっちでどっちだよ」
「どっちっていうか……」
いつもは、余計なほど歯切れのいい妻が、今日は何かを言い淀んでいる。
そうこうしているうちに、妻の身体が急に重くなる。
妻は、立っていられなくて、全体重を親父に預け、浅く呼吸を繰り返す。
そこまで来てようやく、親父は思い当たった。
「まさか、おまえ……」
こくこくと頷く妻は、いつになくしおらしい。
親父は確信した。
確信して、……叫んだ。
「勇者が生まれる!」
それまでてんでバラバラに喋っていた一同は、一瞬にして水を打ったように静まった。
呆然と見守る一同の中央で、親父が妻を抱き上げてその胴間声を張り上げる。
「産婆だ! 産湯! 医者も! 毛布! 寝床! うすぎたねぇ奴らは失せろ!」
男とはいえ、大家族の父親。
出産への立ち会い経験も豊富だ。
最後に聞き捨てならない台詞が紛れ込んでいたが、この混乱の中では誰も聞いてはいなかった。
蜂の巣を突いたような騒ぎ、とはこういうことを言うのだろう。
後に宰相はこう語った。
そしてこう続けた。
「間違いなく、王国最大の混乱であった」と。
驚きのあまり、マントの長い裾を踏んですっころんだ国王は「薄汚いもの」として、大広間から排除された。
騎士団長は、そんな国王がさっきまで座っていた椅子をためらいなく壊し、薪にして火をつける。
建国以来の由緒正しい絨毯を焦がされた侍従長は卒倒し、賢者は産婆と医者の違いがわからず宰相を捕まえて説明を求める。
こっそりこの場から立ち去ろうとした大司教は、親父に呼び止められて、生まれ来る勇者の祝福を命じられ、同時に豪華な法衣を妊婦の下に敷くべく提出させられた。
いささか冷静さを保っていた大臣は、陣痛に苦しむ妊婦に腕を鷲づかみにされ、初めて聞く獣のようなうなり声を出産まで間近で聞かされ続ける。
大広間に臨時にテントを張り、皆、訳がわからないなりに出産の準備に邁進した。
何と言っても勇者の誕生だ。
万一があってはならない。
その間、勇者を選ぶと言われた剣は、女官に蹴り飛ばされ、従僕に踏まれ、召使い達に邪険にされ、部屋の隅まで転がっていった。
かつて、国の中央にある広場に、岩に突き刺さったままとは言え鎮座し、人々から崇拝されていた剣を、今や顧みる者は独りもいない。
いや、独りだけいた。
伸びてきたかぎ爪のある手が、その束を握って持ち上げる。
「おや、四百年前に落としてなくしたと思っていたが、こんなところにあったのか。いやにボロボロだが、まぁ、四百年経っていれば仕方ないか」
蝙蝠に似た翼を折りたたんだ影のような男は、縦に長い瞳孔をにんまりと細めた。
「どれ、拾い主に何か礼でも……」
見かけの割にいたって常識的な男は、周囲を見渡して首を傾げる。
普段であれば、人間どもは彼の翼の影を見ただけで、悲鳴を上げて逃げていくのだが。
大変珍しいことに、今日は誰も逃げない。
寧ろ、誰も彼に注目していない。
近くを通った騎士風の男に声をかけてみたが、「後にしてくれ!」と怒鳴られた。
これは何かのっぴきならない状況が起こっているに違いない。
実は大変高貴な生まれの男は、親からしっかり育てられていた。
恩を受けておいて返さないなど、王の名が廃る。
「よし、後日、改めて礼に伺うとするか」
男は邪魔にならないベランダまで出て、翼を広げた。
「また来るぞ、人間ども! 首を洗って待っているがいい! うわはははは!」
仲良くなりたくて覚えたはよいが、今まで使いどころがいまいちわからなかった台詞を気持ちよく吐き出し、魔王は東の森の向こう、自分の居城に戻っていった。
後日、魔王自らが礼を言うために軍勢を引き連れて訪問し、あわや戦争になりかけたのも、さらに百年も経てばちょっと笑える思い出だ。
大岩と剣を失った広場には、今も伝説の鍛冶屋の妻の彫像が立ち、たまに洗濯物をかけられながらも、周囲を見守っているという。