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【学校で教わった】博愛のクライテリア

作者: 鈴木美脳

私は、子供の頃、学校に白けていた。学校という価値観に白けていた。教師や生徒達との情緒的な信頼関係が存在して、教師や学校が自分に指導する内容が自分の人生の幸福の設計にも適っているという感覚を持つことがなかった。そこにあるとされる情緒的な信頼関係、あるいはあらゆる信頼関係が、ひどく欺瞞的でひどく程度の低いものに見えた。


教師や生徒や多数者は、共助的な社会が存在していると見なしていた。しかし、実際には、教師や生徒達は、私を助けてはくれなかった。恐怖や社会不信によって精神性に問題をかかえた子供を、その家庭問題に踏み込んでまで助けてはくれなかった。だから私は、教師や生徒達の人情や愛情が条件つきであることに気づいた。そしてそのことを隠蔽する彼らの認知の性質にも気づいた。つまり人間の社会は、実態よりもフェアなふりをする。その多数者のエゴによって、少数者の尊厳は過小評価され、不運な者の苦しみは自己責任だと見なされる。だから私は、博愛でなければ欺瞞だと考えるようになった。


しかし、そうして私が導入した博愛というクライテリアは、非現実的に高すぎる。そこまで要求してしまえば、確かに現実の学校の社会は、程度の低い欺瞞的なものだということになる。そして私は、幼い頃に助けてくれる人がいなかった自分自身を裏切りたくないという心理から、博愛のクライテリアを相当に自分自身にも課した。だから私は、並外れた正義感を持っていた。並外れた正義感を持って、欺瞞に満ちた現実の社会や職場で生きることは、まったく必然的に、矢の雨を身に浴びる毎日であった。強い正義感を持って生きれば、今の社会では必ず淘汰されてしまう。


強い正義感を持って生きれば淘汰される。しかし誰もそうは思っていなかった。それは誰もそのクライテリアを共有していないからであり、ほとんどの人は現実の社会をいくらか肯定しているからであった。一見立場の悪い人でも、なぜほとんどの人は現実の社会や体制を大いに肯定しているのだろうか、と思った。結局、その圧倒的な理由は、ほとんどの人は幼い頃に私ほどは苦しみをそそがれていないということだった。


そしてそれゆえ、私欲を捨てる公的な視点を重視して、完全な利他性を至高の徳性に位置づけたとしても、その価値観や生き様が仲間を得ることはなかった。若い頃の私にとって、政治家や官僚、財界や学校やメディアが、公的な原理に立たず私欲に溺れていることは、権力の腐敗として感じられた。世界は正されるべきものとして感じられた。しかし実際には、権力のみならず大衆もまた利己的であって、そのような改革は求められておらず、既存の社会のあり方は圧倒的な力によって肯定されていた。


そうして私は、博愛という美学に価値がないことを知った。それは私の人生を破滅させて耐えられないほどの苦しみをすでに味わわせてきたし、若い人に囁いたとしても、不幸に導くリスクにしかならない。民衆が現実よりも賢く善良だったならばそれは、その分だけ幸福の生産性が合理的な社会をもたらしはするだろう。そして確かに、多数者のエゴによって少数者の尊厳をないがしろにする欺瞞は、そのとき解決されるべき不合理性の本質である。しかしその真実には、実際的な価値はない。人間という動物は、人間という動物以上にはならない。


社会には、混沌の中にではあっても階層がある。立場の高い人々の間にほど、互助の仕組みや人情による手助けがある。立場の低い人々の間にほど、それがない。立場の低い人々ほど、利己的で不人情であることを強いられているが、不都合な真実の一面として、遺伝子的な先天的な性格や知力として利己的で不人情な傾向もある。多少は低い立場に生まれついたとしても、真面目に努力しつづければ、一応の生活ができる社会にはなっている。そして、立場の悪い人に過度に思い入れをしても、知性や人格に欠陥があり裏切られる可能性は少なくない。そうでありつつ、本当に不運な立場に生まれつけば、いくら真面目に努力しても何も報われることはない。非常にまっとうな人間性を備えていても、末端の職場で死ぬまでいじめられる。


小学校が嫌いだった。なぜなら、皆ひどく幼稚だった。自己中心的で気遣いに欠ける主観的な感情の世界に生きていた。しかも教師達は、生徒達のそんな幼稚さをむしろ愛していた。だから幼稚に振る舞うほど得をするような社会だった。私は、自己中心的な動物にはなりたくなかったし、だから自分の居場所がないと感じた。日々はフラストレーションに満ちていた。


しかしもちろん、皆、立派な大人になった。気遣いや責任感のある人格へと成長した。異常なのは実は私だった。ひどく抑圧されていて、感情を表に出すことができず、自分の要求を人前で主張することができなかった。自分の自然な姿を見せ、他者と精神的に交流することを諦めていた。恐怖による支配だけが存在して、健全なコミュニケーションなど存在しない環境で生まれ育った結果だった。


コミュニケーションによって人は成長するのだ。人として成長するとは、コミュニケーションの能力を成長させていくことがほとんどだ。そして、まっとうなコミュニケーション能力さえあれば、どうあれ暮らしていくことができる。どうあれ、友人を得たり恋をしたりすることができる。幼少に苦労をすると、成長は停止する。コミュニケーションが恐怖になってしまうと、成長する機会もなくなり、一見早熟だった子供も、ただの役立たずに育つ。


社会的な経験が足りていない者の精神には、客観的な実力に比べて、遥かに過大な自己認識や、遥かに過小な自己認識が存在する。特定の専門分野についてもそうであって、例えば一人で卓球をいくら練習しても、人と遊んだときにどの程度戦えるか何も想像はつかない。たくさん時間をかけて努力したのに実力が最低レベルでは悲しいから、人の心は自分を肯定しようとする。そのために、実戦の経験も実績もないくせに他者の短所を探して批評しさげすんだりする。そして現実を前にしてプライドがくじかれると、自分を肯定できる世界へと視野を狭める。社会の陰に引きこもっている人が、しばしば王様のような自意識を備えている。「すっぱい葡萄」の論理でもって、専門外の何もかもを馬鹿にしていたりする。


そのように社会に適応できなかった敗者は、そうであることを隠すものの、実際には自分が弱者であることを自覚している。だから、理屈をこねるわりに、まっこう勝負の機会は避ける。社会と関わる大切な機会を避けて歩き、避けて歩いた分だけ、内心のプライドが膨張して世間をさげすむ。すなわち、恐怖の反映として、攻撃性や暴力性が充実していく。苦しみを経験した者の復讐心によって正当化されるその悪意には、際限がない。よって、そのような病的な悪意に巻き込まれないように生きねばならない。


よって、コミュニケーションを取ってくれる他者というのは、ありがたい存在だ。逆に言えば、コミュニケーションがありえる機会に、むしろ嘲笑的な拒絶を向けてくる他者は、関わりを避けるべき危険な存在だ。コミュニケーションを取ったときに、何であれ、心に残る肯定的な言葉を投げかけてくれる他者というのは、ありがたい存在だ。逆に言えば、心にわだかまりが残るような嫌味や侮辱の言葉を吐く他者は、関わりを避けるべき危険な存在だ。これらは一見、当たり前すぎる。しかし世の中には、異常者に我慢して許容する生き方しかしてこなかった者がいる。


生まれなどの不運によって、マイノリティになることがある。すると、権力ある多数者の悪意を身に浴びることになる。上司のミスの責任は部下に押しつけられる。経済の不景気についても立場の弱い者からしわ寄せが来る。尊厳は過小評価され、悪くないのに媚びへつらって謝罪することを求められ、いくらかそうする以外には生き方がなくなる。他者と関わって尊厳が認められないなら、関わる気はなくなる。人の世で生きて馬鹿にされるだけなら、生きる気がなくなる。人と関わらず、コミュニケーションなどせずに生きていこうという発想になる。


しかしそうすると、人の心の成長は止まる。人の心は、他者とのコミュニケーションによって成長していくものだからである。若ければ、生存や尊厳や恋愛への願望があるから、社会で活躍したいというエネルギーはある。しかし老いてしまって、過去の社会的な実績もそれなりにあるなら、社交を億劫に思って閉じこもっていても誰も叱ってはくれない。弱者としての恐怖の反映としてプライドだけが膨らみ、テレビのワイドショーの評論家を受け売りして悪態を独り言して笑うようになる。生きていても死んでいて、存在として終わってしまう。


大人や老人に、他者を思いやる良心がなかったならば、その大人や老人に何の価値があるだろうか。そんな大人達の国にどんな行く末があるだろうか。他者をさげすむ者の末路は、そのように水膨れしたエゴイズムである。金や生活という個人的な価値を追い求める先に帰着するのは、そのような、他者へのさげすみである。他者をさげすむほど偉くなったつもりで、実は果てしなくみすぼらしくなる。利己的であることに満足してしまった大人達には、正義がない。


幼い子供なら、尊敬される人や感謝される人になりたがる。しかし人間の心の偉大なる成長は、尊敬する人や感謝する人になるところにある。男達は、出世を求め、権力や名誉を求める。しかし、心の成長の止まった権力者になる道が出世ではなく、他者を尊敬し感謝する道が出世であり誇るべき力である。


年老いた男や女がまごついていたなら、自分が産んだ息子や娘が年老いて困っているのだと思えば、愛情が足りる。幼い男児や女児が思いいたらず愚かであるなら、父や母の若い頃なのだと思えば、尊敬が足りる。そうでなければ、年長者を不当に軽んじて愛情を欠いてはいないか、若年者を不当に軽んじて尊敬を欠いてはいないか、反省することができる。


芝生を刈るとき、葉の一つ一つという命を刈っている。葉が刈られる香りは、殺戮の血煙の香りである。同様に、生きるということは弱者を軽んじるということであり、しかし軽んじて自覚的でないなら、視野は自然と狭窄していく。万物との感覚の交流は失われ、精神が成長する速度は減衰して停止してしまう。


ゆえに、正義を思うことに意義がないとは思われない。博愛のクライテリアに意味がないとは思われない。私的な幸福の道具としてではなく、他者を愛すること。偽りのない価値で図り、公正な正義を追求すること。それらは現実離れした理想論にすぎないが、その理想論こそが、人の心に若さをもたらす。倫理的に無謀な若者が社会にいなくなるなら、そのとき人々も世界もきっと、悪い意味で早熟なのだ。

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[良い点] 「倫理的に無謀な若者が社会にいなくなるなら、そのとき人々も世界きっと、悪い意味で早熟なのだ」 結びの文が至言ですね。 [一言] 学校における倫理的、道徳的な教育は最早意味をなしていないよう…
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